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第11話 仲睦まじい夫婦愛

 花影はなかげは、朝から図書殿ずしょどのに籠りきりである。


 宴の差配という大任を果たしたのだ。

 今日は一日書物に埋もれていたい。


 ページめくり、うっとりと。花影は嘆息する。


「――し・あ・わ・せ!」


 書物は良い。

 紙の匂いと墨の匂いとが混じり合い、得も言われぬような心持ちである。


 そういえば。

 花の下にて死にたいと歌った歌人が居た。

 きっと夢のように美しい光景だろうと思う。


 けれど。

 いつか死ぬならば。

 その時は。


「私は書物に埋もれて死にたい」


「縁起でも無いことをおっしゃいますな」


 うっかり口にも出していたようで。

 シヲンに怒られる。


 花影は肩を竦めた。


「いずれよ。いずれ。年老いて、いつか死ぬときは、書物に埋もれてがいいわ」


 シヲンが嫌そうに首を振る。


「奥方さまは確かに殺しても死ななそうな御方ですけれども」

「ちょっと」


 シヲンは溜め息を吐いて首を振った。


「書物に埋もれていらっしゃる時の姫さま、いえ、奥方さまは、何と申しましょうか……。心が彼方へと飛び去っていて、此の世に留まっておられぬようなことがございますゆえ、冗談でもそのような事を仰せになりませぬように」


 花影は目を瞬いた。


「そんなに昇天しそうな顔してる?」

「ええ、それはもう」


 力強く頷くシヲンに、なんとなく釈然としない気持ちで。

 花影は唸った。


「――ふぅん」



 日も暮れた頃、瓊花けいかが迎えに来た。


「今日は一日閉じこもり切りだったそうですね」


「あら、お帰りなさいませ。もうそんな時間ですか?」


 灯の下でページを捲っていれば、外の暗さは気にならない。

 というより、そんなことを気にしていては、本は読めない。


 かなり没頭していたようで。

 顔を上げれば、固まり切った首の骨が、ごきりと嫌な音を立てた。


 瓊花が顔をしかめる。

 やれやれといったように首を振って。


「お好きなだけ、こちらの本を読んでくださって構わないのですから」


「はい」


「一度に集中しすぎるのはお止めなさい。身体を壊しますよ」


「止まらなくなってしまうので」


 悪びれることなく、花影は肩を竦めた。

 また、ばきりと音がした。

 肩も相当にっているようだ。


 瓊花は花影の手を取り、図書殿の外へそっと引っ張り出した。


「首と肩と頭と目の周りですね」


「はい?」


 何の脈絡もない瓊花の台詞に、花影は目を瞬いて夫を見上げた。

 不機嫌そうだ。


「瓊花殿?」


「寝所へ参りましょう」


「へ?」


 瓊花は不機嫌そうな顔のまま、花影の頬に手を遣った。


「揉んで差し上げます。血の巡りが悪くなっておられる」



 畳の上にクッションを引いて。その上に鎮座する花影。

 背後の瓊花はそっと優しく、花影の首筋から肩をでさすっている。


「――菖蒲家当主のなさることでは無いように思うのですが」


「夫が妻を思いやって、悪いことはありませんでしょう」


 男の力はやはりシヲンのそれとは違う。

 力加減が丁度良い。


「女性はそもそもからして髪が重いのですから、首や頭に疲れが溜まるのですよ。もっと気を付けてくださらないと」


「はあ」


 指先が丁度良い按配あんばいで、筋をほぐしていく。


「意外ですね。瓊花殿がこのようなことを得意となさっているだなんて、思いもしませんでした」


 瓊花は少しだけ懐かしそうに笑った。


「兄が――亡き兄、おうちが。随分と肩凝りがひどい人でした」


「兄上様が」


「はい。それで面白半分に肩もみをして差し上げましたらば、お前は筋がいい、と言って。それからはよく、兄の肩もみをしておりました」


「仲が宜しかったのですね」


「ええ。とても。良い兄でした。――こんなにも早く、果敢はかなくなるとは思いもよりませんでしたが」


 花影はそっと睫毛を伏せた。


 菖蒲楝あやめのおうち

 さきの菖蒲家当主で、当代きっての優れた人であったと評判である。

 人当たりもよく、気が利いて、誰からも好かれた華やかな人。


「人というのは、簡単に死んでしまうのです。どうか、貴方もお身体をおいといください。決して無理をなさらぬように。書物は逃げませんから」


 瓊花の手が、そっと花影の肩を包む。

 花影はとんとんと、優しくその手を叩いてやった。


「ご心配には及びません。殺しても死なぬような、とまで言われております」


 溜め息を吐いた瓊花に、花影は言葉を足す。


「ですが、お心遣いをありがとうございます。なるべく、夢中になり過ぎないよう気を付けることと致しますね」


「ぜひ、そのように」


 そう。

 死は思いもよらぬ時に訪れる。


 誰もが予想し得なかった、菖蒲楝の死によって。

 物事は思わぬ方向へ転がって、今、花影はここに居る。


(もしも、楝殿が生きていらっしゃったなら。私がこうして菖蒲家の秘伝の書物を読むことなど、決してあり得なかった)


 誰も思いもしなかった。

 都一の醜女しこめと名高い月白つきしろ家の姫が、菖蒲の当主の北の方に収まるだなんて。


(世の中、何がどうなるか、わからないもんよねえ……)


 瓊花の手がゆっくりと頭の付け根に触れる。


「痛かったら言ってくださいね」


「大丈夫。気持ちいいです」


「なら良かった」


 左手で花影の額を押さえ、右手で頭の付け根をほぐす。


「あ、それいいです。気持ちいい。ほわっとします」


 目を閉じて、花影がうっとりと身を委ねる。


「ええ。力加減は大丈夫ですか? 痛かったら――」


「はい。ちゃんと言います」


 頭を下から上へと揉み解す瓊花の手が、得も言われぬ快感をもたらして。

 花影はうっとりと吐息を零した。


 一瞬、瓊花の手が止まり、けれど何事もなかったかのように、揉み解しが再開する。


 両手でこめかみの辺りを押さえ、やわやわとさする。


「あの、贅沢を言って申し訳ないのですが、もう少し強くお願いできますか?」


「ここはあまり強くするといけない場所なので、もうほんの少しだけ、力を加えますね」


「あ、いいです……すごくいい……」


 うっとりとしてよだれが垂れそうだ。

 気持ちがいい。


 顔がだらしなく緩んでいる気がして、花影は少し表情を引き締めた。


「力を抜いて」


「はぁい」


 緩み切った声に、花影は少しだけ恥ずかしくなった。


「貴方を癒すためにしているのですから、どうかそのまま私に身を委ねてください」


 深い意味は無いだろう台詞だが、なんとなく、花影は頬を赤く染めた。


「血色が良くなってきましたね。良かった。次は眼の周りを致しましょうか。横になって」


「そんなにして頂かなくても……」


「私が好きでしているのですから、遠慮などせずに。夫婦なのですから」


 瓊花の手がゆっくりと花影を抱き、茵に横たえる。


「膝枕に致しましょうか?」


「いいえ、それはご遠慮申し上げます」


 くすくすと笑って、瓊花は温かなてのひらを花影の目許めもとに覆いかぶせた。


「眠ってしまわれても、良いですからね」


 閉じた瞼の上をそうっと指が滑り、眉頭まゆがしらからこめかみに向けて、ゆっくりと撫でる。


「少し痛いかもしれませんが」


 花影の頬骨の上を、瓊花の親指がぐっと押した。


「みゃっ」


 猫のような声を上げて、花影がぎゅっと眉を顰める。


っておりますね。優しく致しますから、どうか力を抜いて」


「そ、うは言っても。痛いですよ?」


「じきに良くなりますから。私を信じて」


「疑っているわけでは無いのですけれども。……本当に? 良くなる?」


「なります。すごく楽になりますから」


「では、耐えます」


「身体の力は抜いてくださいね」


「難しいことおっしゃいますのね」


 けれど瓊花の言っていた通り、すぐに痛みは取れて。

 撫でさすられるうちに、もったりとしたようなだるさが去った気がした。


「どうぞ、寝ておしまいなさい」


 子守歌のように囁かれ。

 花影は本当に眠ってしまった。


 赤子のように邪気の無い寝顔に、瓊花は優しく微笑んで。

 そっと花影を抱き上げると、帳台へと運んだ。


「心を許してくださっているのは、本当に嬉しく幸せなのですが」


 瓊花はすうすうと寝息を立てる花影に、囁く。


「男としては意識して頂けてないことが、なんとも複雑ではありますよ。我が妻殿」



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