シン…。と一瞬あたりの音が無くなった。
それは本当に一瞬で、すぐにBARのサックスのBGMが戻ってきた。
あ、あれ…俺…!?
今…!な、なんて言った!?
初対面の人、ゲイバーとはいえ、しかも同性に…いきなり付き合って下さいって…まじでやばいやつだろ、俺。
全身からぶわっと汗が噴き出てきて、このまま消えてしまいたい。
とりあえず、謝ろう。
こんなの、超失礼だ。下手したら、二度とこの店には来れなくなるほどの事をしでかした。
『すみません、失礼しました。言い間違いです。』そう言おう。
亮輔は大きく息を吸う。
「おつまみ、何にしましょうか?オススメはマスター手作りのリエットです」
カエデは生グレープフルーツサワーを注いだ時と変わらない表情で
注文を再度聞いた。
え…?
あれ?
え?
俺、言った気がしてるだけ?
本当は言ってない?
あまりに変わらないカエデの表情を見て、亮輔は1人白昼夢でもみているような不思議な空気に包まれた。
怖くなってキョロキョロと辺りを見回してみた。
亮輔の右2つ離れた席に座っている、ロックグラスに丸い氷が浮いたウイスキーがよく似合いすぎている男…30代だろうか?亮輔よりは年上に見える、灰色のスーツの男が亮輔をちらりと見ると、目の前のマスターと親しげに話し始めた。
「ははっ、カエデファン?熱いなぁ。みんな果敢だねぇ。よく来てるの?彼」
「ふふっ、お客様のプライバシーに関する事は、私にはお応えできませんよ」
ワイングラスを柔らかそうな布で磨きながらマスターは何も興味などないかのように答えた。
「マスター、つれないなぁ、僕とマスターの仲じゃない」
「さて、お次は何飲むんだい?」
「くそー、はぐらかしやがって。ま、そんなとこもいいんだけどねぇ。これ、次も同じの、おかわりでお願い」
マスターはふっと口角をあげ軽く頷くと、後ろの棚にぎっしりと並んだボトルの中から迷う事なく、一つのボトルを手に取った。
「おつまみ、決まりましたら、また声かけて下さいね。お飲み物は同じものにされます?それともお冷お待ちしましょうか」
亮輔は慌てて目の前を向き直した。
やっぱり、目の前の天使は相変わらず輝いていた。
「あっ、お、おつまみ、は、その、おすすめの、もらいます。 飲み物も、同じの…で…」
「リエットと、生グレープフルーツサワーのおかわりですね、かしこまりました。」
カエデは軽く会釈をすると空になったグラスを手に取った。
亮輔は慌ててその手を掴んだ。
「!?」
カエデの瞳が黒く濁ったのが亮輔にもわかった。
でもその手をなぜか外せなかった。
「ごめんなさい!あの、さっき、変な事突然言ってしまって!!でも、あの、あなたほど美しい人見た事なくて!頭バグっちゃって…!」
「ありがとうございます。…では、おかわりお待ち致しますね。」
カエデはにこりと変わらない笑顔のままだったが、亮輔の手を振り解くその手の動きは、笑顔に反して力強いものだった。
…謝れたけど、でもあれ、ぜってー怒ってるやつだよな。キモい客だと思われただろうなぁ。
でも何だろ。あのカエデって人を見ていると、すんげー胸が苦しくなる。変な汗が出てくるし。
一目惚れってやつなんだろうか。
でも、カエデの雰囲気からしたら、そんな変な客多いんだろうな。あしらい慣れてる。
亮輔はスマホに映し出されていたマッチングアプリの画面を消す。
今日は、もう少し、もう少しだけ、あの天使を見ていたい。
この出会いは運命な気がする。
もう少し近づきたい。
亮輔は飲みなれないアルコールでふわっとし始めた頭を懸命に冷静に保ちながら
2時間近く、カエデの動きをずっと目で追っていた。
「ありがとうございました。またお待ちしております」
カウンター越しにカエデとマスターが頭を下げる。
22時なり、さすがに生グレープフルーツサワー2杯とオレンジジュース、数品のおつまみだけで粘るには限界だった。
「あの、カエデさん、今日は本当に失礼しました。…あの、また、また来ても、良いですか?」
その瞬間、カエデの目元は少し赤らんだ。
カエデはマスターをちらっと見たあと
「は、はい。また、ぜひ。私は日、月以外は出勤ですので…」
「…え……。」
亮輔は驚きカエデの瞳をじっと見た。
一般的な接客挨拶だけで、これっきり来るなと威圧されるかと思っていたからだ。
まさか、休みの日まで教えてくれるとは…。
また、会いに来ても良いってこと?
亮輔はちぎれかけたカエデへの糸が絡まってくのを感じた。
「カエデ…さん?あの…カエデさんて、本名、なんですか?」
亮輔は自分がこんな、ナンパ野郎みたいな軽い人間だったのかと、今日の自分の言動には驚いてばかりだ。
「…おれ、いや、私の事、もっと知りたかったら、また。一見さんに私の情報は教えられません」
さらっと俺と言った、カエデの素の喋り方がわかっただけで、まるで天に昇るような気持ちになるのはなんなんだろう。
「はいっ!じゃあ、教えてもらえるように、また来週!来ます!」
カウンターに前のめりになる亮輔を落ち着かせるかのように、マスターがカエデの前にそっと立つ。
「お客様、宜しければお客様のお名前もお伺いしてもよろしいでしょうか?よろしければまた同じ席、ご用意しておきます。」
「坂口です!坂口亮輔です!!よろしくお願いします!また来週金曜日来ます!」
まるで体育会系の部活の挨拶のような元気すぎる声がBARの中に響いた。
「ぶっ!!」
灰色スーツの男性が思わずと言った様子で吹き出したのが聞こえて、
亮輔は湯気が出そうなほど、赤くなった。
「す、すんません。じゃあ、帰ります。あの、お邪魔して、すみませんでした。ご馳走様です!」
亮輔はもうカエデの顔など見る余裕もなく、逃げるように店のドアからで出ていった。
亮輔が帰った後の店内には、
マスター、カエデ、灰色スーツの男が残り、店内のBGMがやけに大きく聞こえた。
マスターは亮輔の食べ終えたマスター手作りオムレツの空になった皿を下げながら
カエデをちらりと見た。
「どうしたんだい、楓。珍しい。君があんなに一見さんと話すなんて。」
カエデは客席側に周り、カウンターをダスターで拭きあげる。
「別、に。変なやつだったから、からかったら、面白いかなって」
カランと、丸い氷を鳴らしながら、ウイスキーを口に含んだ灰色スーツの男が、カエデに親しげに話しかけ始める。
「カエデくんのオキニみつけちゃった感じー?彼、結構イケメンだったじゃん、あーいうのがタイプなんだー。鉄壁のカエデくんもついに誰かさんのモノになっちゃうのかなー?あの彼がカエデくんのお初相手になるなんて、お兄さん妬けちゃうなぁー!」
だんっ!!とカエデは苦虫を潰したような表情でカウンターを拳で叩くと灰色スーツの男にダスターを投げつけた。
「キモいんだよ!相川!!早く帰れ!!マスターもなんでこんなキモいのがいーのか、わっかんねー!」
「こら、楓。い、ち、お、う、相川くんは今、お客さんだからね。金払ってる内は、言葉違いと、態度に気をつけなさい。」
「おいおい、君たち。お客様になんて態度するんだよー」
へらへらと話す相川をカエデはぎっ!と睨むとカウンターに戻り洗い物をするため腕まくりをする。
マスターと相川が何やらこそこそと話しているけれど、ジャージャーと水を流して聞かないようにした。
「りょうすけ、りょうすけ…か。どんな字なんだ……って、あんなナンパ男!…騙されるかって。顔だけだ、あんなん!!また本当に来やがったら…思いっきり振ってやる!本当に、来たら…」
カエデは頭を大きく振ると、つけ過ぎた洗剤で泡だらけになったグラスを洗う事に集中した。