朝日が屋敷の瓦屋根を照らし、清らかな光が庭の露を輝かせていた。
朝露に濡れた葉がきらめき、遠くからは竹林を通り抜ける風のささやきと、鳥のさえずりが響く。
静かな朝。だが、それとは対照的に、屋敷の一角では鋭い叱責が飛び交っていた。
「玲華、お前という子は……!」
母・紅華桜の怒りに満ちた声が、しんと静まり返った廊下に響き渡る。
「今日は一日、部屋で刺繍をしていなさい。いいですね?」
有無を言わせぬ口調に、玲華は渋々頷いた。
母の視線は厳しく、逆らう余地はない。
が、心の中ではすでに別のことを考えていた。
(こんなことで大人しくしてたら、何もできないままだ)
母が部屋を出ていくのを確認すると、玲華はすぐに障子を開け、そっと屋敷の廊下を忍び足で進む。
向かった先は双子の兄・凌の部屋。
障子を開けると、柔らかな陽光が射し込み、薄暗い部屋の中を淡く照らしていた。
凌は机に向かい、静かに本を読んでいる。
筆や巻物が整然と並べられた室内は、玲華の部屋とは対照的に、きちんと整頓され、静寂に包まれていた。
「また怒られたの?」
玲華の姿を認めると、凌は軽く眉を上げた。
「いいから、服!」
「玲華、まさか……」
「お願い!」
凌は小さくため息をつきながらも、自分の学問着を手渡した。
「天啓学堂は今日は休みだろう?何をするつもり?」
「ちょっと、出かけるだけ!」
着替えを終えた玲華は、帯を締めながら障子を開ける。
学問着の袖口を軽く整え、髪を後ろで一つに結ぶと、まるで凌そのものだった。
「母さまに見つかったら、今度こそ縛られるよ?」
「見つからなければ大丈夫!」
玲華はにんまりと笑うと、そっと廊下を駆け出した。
屋敷の裏手には広い庭園が広がり、その一角には武術の稽古場が設けられている。
敷地の端には背の高い木々が立ち並び、朝の陽射しが斜めに差し込んでいた。
玲華はゆっくりと息を整えながら、障子の隙間からそっと覗き込む。
広い道場の中央には、二番目の兄・紅景雅が門下生たちを指導していた。
朝の陽射しが木漏れ日となり、畳の上にまだら模様を描いている。
景雅の袴がその光の中で揺れ、凛とした佇まいが一層際立っていた。
「もっと腰を落とせ!」
「刃筋が乱れているぞ!」
低く響く景雅の声に、門下生たちは一斉に動きを正す。
額に汗を滲ませながら、彼らは全身を使い、必死に木剣を振るっていた。
景雅の木剣がスッと空を裂くと、その動きに合わせるように門下生たちが構えを整える。
「これでは敵の刃を受け止められん!剣の重みを感じろ!」
景雅はすっと前に踏み込み、最前列の門下生の剣を木剣で払いのけた。
相手はぐらつき、足元が乱れる。
しかし景雅は追撃せず、一歩引いて冷静に言葉を続ける。
「力任せに振るだけでは意味がない。剣は振るうものではなく、流れの中で制するものだ」
門下生たちは、真剣な眼差しで景雅の動きを見つめる。
景雅は軽く木剣を構え直し、模範を示すように無駄のない動きで袴の裾を翻した。
その瞬間、玲華の目が釘付けになる。
無駄のない動き。静と動の間にある完璧なバランス。
まるで剣の動きが空間と一体化しているようだった。
「……すごい」
玲華は、思わず小さく呟いた。
兄の剣の動きは、ただ強いだけではない。無駄がなく、研ぎ澄まされ、まるで流れる水のようにしなやかだった。
自分も、あんな風に剣を振るうことができたら――。
そう思った次の瞬間。
「おい、そこで何をしている!」
景雅の鋭い声が響いた。
「しまった!」
玲華はすぐに障子から身を引き、足音を殺して廊下を駆け出す。
裏庭を抜けるには、正門を通るわけにはいかない。
視線を走らせると、屋敷の裏手にそびえる一本の大木が目に入る。
(あそこからなら……!)
玲華はすばやく大木に飛びつくと、幹に手をかけ、するすると登った。
枝を足場にして塀の上へと移動し、慎重に向こう側を覗く。
庭を巡回する侍女の姿が見えた。
しばらくの沈黙。
侍女は何かを探すように辺りを見回す。
玲華は息を詰め、塀の上からじっと様子を伺った。
(気づくな、気づくな……!)
しかし、侍女の視線が玲華の方へと向かう。
そして――目が合った。
「……あっ」
「……凌、さま?」
(マズい!)
侍女の表情が一瞬の困惑に揺れる。
いつもの凌とは何かが違う、と気づいたのかもしれない。
玲華は息を止めるように、一瞬の静寂の中で動く。
一か八か、視線を外さずに軽く頷くと、侍女は戸惑ったように一歩後ずさった。
「え、あ……」
その隙に、玲華は塀の向こうへと飛び降りる。
膝を折りながら衝撃を吸収し、音を立てないように草の上を転がると、そのまま素早く駆け出した。
屋敷を抜け、市場へ足を踏み入れた瞬間、活気あふれる喧騒が玲華を包み込んだ。
「いらっしゃい!新鮮な魚だよ!」
「焼き饅頭、焼き立てだぞ!」
「香辛料はいらんかね?珍しいものも揃ってるぞ!」
天秤棒を担いだ物売りが「道を開けてくれ!」と叫びながら行き交い、子供たちは焼き菓子を片手に走り回っている。
通りを埋め尽くす人々のざわめきに、熱気さえ感じられるほどだった。
「おっ、坊主。今日は一人か?」
八百屋の親父が、山積みの大根を抱えながら声をかけてきた。
「うん、兄さまたちは家で勉強中!」
「ほぉ、感心だなあ。坊主は今日は何をする気だ?」
「ちょっと用事!」
玲華がにんまりと笑って手を振ると、八百屋の親父は「元気がいいのはいいことだ」と笑いながら、白菜を並べ始めた。
「坊主、ちゃんと飯食ってるかい?」
今度は魚屋の女将が、桶の中で跳ねる魚を押さえながら声をかける。
「もちろん!昨日だってたくさん食べたよ!」
「嘘おっしゃい、あんたはちょっと痩せすぎなんだよ」
「そう?」
玲華が自分の腕を見つめると、女将は「まったく、この子は」と苦笑いしながら手を振った。
しばらく通りを進んでいると、甘い香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐった。
(……これ、饅頭だ!)
顔を上げると、湯気を立てる饅頭の山が目に飛び込んできた。
大鍋の上では、蒸し器の蓋が小さく揺れ、竹の皮から漂うほのかな黒糖の甘みが、通りを包み込んでいる。
「おう、坊主!今日は饅頭が安いぞ!」
店主の声に、玲華は思わず足を止め、唾を飲み込んだ。
「ほんと?じゃあ、三つ!」
そう言いながら、懐から小さな袋を取り出し、銅貨を数えながら手渡そうとする。
「坊主、毎度ありがとよ。けどな、ちょっとは値切りってもんを覚えたほうがいいんじゃねえか?」
「えっ、じゃあ四文で!」
玲華は得意げに胸を張るが、店主は鼻で笑った。
「ははっ、そりゃ強引すぎるな。五文でいいって言ってるだろ」
「くぅ……商人って強い!」
玲華は悔しそうに小銭を渡すと、店主は器用に竹の皮で包んだ饅頭を手渡してくれた。
包みを受け取った瞬間、ほかほかの湯気が指先に当たる。
竹の皮の間から漂う香ばしい生地の香りに、思わずお腹が鳴りそうになった。
(これで稽古の合間に一つ食べて、残りは凌と家で食べよう)
玲華は包みを大事に懐へしまい、心の中で小さくガッツポーズを作った。
小さな楽しみを胸に、玲華は市場の喧騒を後にした。
市場を抜けると、城壁の大きな門が見えてくる。
門の前では、武装した兵士たちが通行人を監視し、行き交う荷馬車を調べていた。
城壁の門には兵士が二人立ち、通行人の荷を確認していた。
玲華は門の陰に身を潜め、通行人の流れをじっと見つめる。
(今だ……!)
ちょうど大きな荷馬車が門をくぐる瞬間、玲華はその影に紛れ、一歩、二歩と足を進めた。
しかし―――。
「おい、そこの坊主」
兵士の声に背筋が凍る。
(バレた!?)
振り向けば、兵士は別の男に声をかけていた。
(……びっくりさせないでよ!)
玲華は息を吐き、素早く門を抜ける。
土の感触が足元に伝わると、草の匂いが鼻腔を満たした。
そこには、広大な草原と奥へ続く林が広がっている。
(今日はどこまでできるかな……)
剣を握るたびに、いつか兄さまたちの隣に立てる日が来るのかと考えてしまう。
だが、それは叶わない。
だからこそ、こうしてこっそりと鍛錬を続けるのだ。
玲華は剣の柄を握りしめ、風を切るように駆け出した。