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第2話 お転婆娘、針より剣を選ぶ

 朝日が屋敷の瓦屋根を照らし、清らかな光が庭の露を輝かせていた。

 朝露に濡れた葉がきらめき、遠くからは竹林を通り抜ける風のささやきと、鳥のさえずりが響く。

 静かな朝。だが、それとは対照的に、屋敷の一角では鋭い叱責が飛び交っていた。

「玲華、お前という子は……!」

 母・紅華桜の怒りに満ちた声が、しんと静まり返った廊下に響き渡る。

「今日は一日、部屋で刺繍をしていなさい。いいですね?」

 有無を言わせぬ口調に、玲華は渋々頷いた。

 母の視線は厳しく、逆らう余地はない。

 が、心の中ではすでに別のことを考えていた。

(こんなことで大人しくしてたら、何もできないままだ)

 母が部屋を出ていくのを確認すると、玲華はすぐに障子を開け、そっと屋敷の廊下を忍び足で進む。

 向かった先は双子の兄・凌の部屋。

 障子を開けると、柔らかな陽光が射し込み、薄暗い部屋の中を淡く照らしていた。

 凌は机に向かい、静かに本を読んでいる。

 筆や巻物が整然と並べられた室内は、玲華の部屋とは対照的に、きちんと整頓され、静寂に包まれていた。

「また怒られたの?」

 玲華の姿を認めると、凌は軽く眉を上げた。

「いいから、服!」

「玲華、まさか……」

「お願い!」

 凌は小さくため息をつきながらも、自分の学問着を手渡した。

「天啓学堂は今日は休みだろう?何をするつもり?」

「ちょっと、出かけるだけ!」

 着替えを終えた玲華は、帯を締めながら障子を開ける。

 学問着の袖口を軽く整え、髪を後ろで一つに結ぶと、まるで凌そのものだった。

「母さまに見つかったら、今度こそ縛られるよ?」

「見つからなければ大丈夫!」

 玲華はにんまりと笑うと、そっと廊下を駆け出した。

 屋敷の裏手には広い庭園が広がり、その一角には武術の稽古場が設けられている。

 敷地の端には背の高い木々が立ち並び、朝の陽射しが斜めに差し込んでいた。

 玲華はゆっくりと息を整えながら、障子の隙間からそっと覗き込む。

 広い道場の中央には、二番目の兄・紅景雅が門下生たちを指導していた。

 朝の陽射しが木漏れ日となり、畳の上にまだら模様を描いている。

 景雅の袴がその光の中で揺れ、凛とした佇まいが一層際立っていた。

「もっと腰を落とせ!」

「刃筋が乱れているぞ!」

 低く響く景雅の声に、門下生たちは一斉に動きを正す。

 額に汗を滲ませながら、彼らは全身を使い、必死に木剣を振るっていた。

 景雅の木剣がスッと空を裂くと、その動きに合わせるように門下生たちが構えを整える。

「これでは敵の刃を受け止められん!剣の重みを感じろ!」

 景雅はすっと前に踏み込み、最前列の門下生の剣を木剣で払いのけた。

 相手はぐらつき、足元が乱れる。

 しかし景雅は追撃せず、一歩引いて冷静に言葉を続ける。

「力任せに振るだけでは意味がない。剣は振るうものではなく、流れの中で制するものだ」

 門下生たちは、真剣な眼差しで景雅の動きを見つめる。

 景雅は軽く木剣を構え直し、模範を示すように無駄のない動きで袴の裾を翻した。

 その瞬間、玲華の目が釘付けになる。

 無駄のない動き。静と動の間にある完璧なバランス。

 まるで剣の動きが空間と一体化しているようだった。

「……すごい」

 玲華は、思わず小さく呟いた。

 兄の剣の動きは、ただ強いだけではない。無駄がなく、研ぎ澄まされ、まるで流れる水のようにしなやかだった。

 自分も、あんな風に剣を振るうことができたら――。

 そう思った次の瞬間。

「おい、そこで何をしている!」

 景雅の鋭い声が響いた。

「しまった!」

 玲華はすぐに障子から身を引き、足音を殺して廊下を駆け出す。

 裏庭を抜けるには、正門を通るわけにはいかない。

 視線を走らせると、屋敷の裏手にそびえる一本の大木が目に入る。

(あそこからなら……!)

 玲華はすばやく大木に飛びつくと、幹に手をかけ、するすると登った。

 枝を足場にして塀の上へと移動し、慎重に向こう側を覗く。

 庭を巡回する侍女の姿が見えた。

 しばらくの沈黙。

 侍女は何かを探すように辺りを見回す。

 玲華は息を詰め、塀の上からじっと様子を伺った。

(気づくな、気づくな……!)

 しかし、侍女の視線が玲華の方へと向かう。

 そして――目が合った。

「……あっ」

「……凌、さま?」

(マズい!)

 侍女の表情が一瞬の困惑に揺れる。

 いつもの凌とは何かが違う、と気づいたのかもしれない。

 玲華は息を止めるように、一瞬の静寂の中で動く。

 一か八か、視線を外さずに軽く頷くと、侍女は戸惑ったように一歩後ずさった。

「え、あ……」

 その隙に、玲華は塀の向こうへと飛び降りる。

 膝を折りながら衝撃を吸収し、音を立てないように草の上を転がると、そのまま素早く駆け出した。

 屋敷を抜け、市場へ足を踏み入れた瞬間、活気あふれる喧騒が玲華を包み込んだ。

「いらっしゃい!新鮮な魚だよ!」

「焼き饅頭、焼き立てだぞ!」

「香辛料はいらんかね?珍しいものも揃ってるぞ!」

 天秤棒を担いだ物売りが「道を開けてくれ!」と叫びながら行き交い、子供たちは焼き菓子を片手に走り回っている。

 通りを埋め尽くす人々のざわめきに、熱気さえ感じられるほどだった。

「おっ、坊主。今日は一人か?」

 八百屋の親父が、山積みの大根を抱えながら声をかけてきた。

「うん、兄さまたちは家で勉強中!」

「ほぉ、感心だなあ。坊主は今日は何をする気だ?」

「ちょっと用事!」

 玲華がにんまりと笑って手を振ると、八百屋の親父は「元気がいいのはいいことだ」と笑いながら、白菜を並べ始めた。

「坊主、ちゃんと飯食ってるかい?」

 今度は魚屋の女将が、桶の中で跳ねる魚を押さえながら声をかける。

「もちろん!昨日だってたくさん食べたよ!」

「嘘おっしゃい、あんたはちょっと痩せすぎなんだよ」

「そう?」

 玲華が自分の腕を見つめると、女将は「まったく、この子は」と苦笑いしながら手を振った。

 しばらく通りを進んでいると、甘い香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐった。

(……これ、饅頭だ!)

 顔を上げると、湯気を立てる饅頭の山が目に飛び込んできた。

 大鍋の上では、蒸し器の蓋が小さく揺れ、竹の皮から漂うほのかな黒糖の甘みが、通りを包み込んでいる。

「おう、坊主!今日は饅頭が安いぞ!」

 店主の声に、玲華は思わず足を止め、唾を飲み込んだ。

「ほんと?じゃあ、三つ!」

 そう言いながら、懐から小さな袋を取り出し、銅貨を数えながら手渡そうとする。

「坊主、毎度ありがとよ。けどな、ちょっとは値切りってもんを覚えたほうがいいんじゃねえか?」

「えっ、じゃあ四文で!」

 玲華は得意げに胸を張るが、店主は鼻で笑った。

「ははっ、そりゃ強引すぎるな。五文でいいって言ってるだろ」

「くぅ……商人って強い!」

 玲華は悔しそうに小銭を渡すと、店主は器用に竹の皮で包んだ饅頭を手渡してくれた。

 包みを受け取った瞬間、ほかほかの湯気が指先に当たる。

 竹の皮の間から漂う香ばしい生地の香りに、思わずお腹が鳴りそうになった。

(これで稽古の合間に一つ食べて、残りは凌と家で食べよう)

 玲華は包みを大事に懐へしまい、心の中で小さくガッツポーズを作った。

 小さな楽しみを胸に、玲華は市場の喧騒を後にした。

 市場を抜けると、城壁の大きな門が見えてくる。

 門の前では、武装した兵士たちが通行人を監視し、行き交う荷馬車を調べていた。

 城壁の門には兵士が二人立ち、通行人の荷を確認していた。

 玲華は門の陰に身を潜め、通行人の流れをじっと見つめる。

(今だ……!)

 ちょうど大きな荷馬車が門をくぐる瞬間、玲華はその影に紛れ、一歩、二歩と足を進めた。

 しかし―――。

「おい、そこの坊主」

 兵士の声に背筋が凍る。

(バレた!?)

 振り向けば、兵士は別の男に声をかけていた。

(……びっくりさせないでよ!)

 玲華は息を吐き、素早く門を抜ける。

 土の感触が足元に伝わると、草の匂いが鼻腔を満たした。

 そこには、広大な草原と奥へ続く林が広がっている。

(今日はどこまでできるかな……)

 剣を握るたびに、いつか兄さまたちの隣に立てる日が来るのかと考えてしまう。

 だが、それは叶わない。

 だからこそ、こうしてこっそりと鍛錬を続けるのだ。

 玲華は剣の柄を握りしめ、風を切るように駆け出した。

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