市場を抜け、城門をくぐった玲華は、草原の風を全身に受けながら駆けていた。
空は澄み渡り、遠くの林からは鳥のさえずりが聞こえる。
家を抜け出して自由になれるこの瞬間が、何よりも嬉しい。
誰もいない林の奥へと歩いていく。
草の間をすり抜ける風が心地よく、木々の葉がかすかに揺れていた。
落ち葉を踏むたびに、カサリと乾いた音が響く。
その音に混じって、遠くで小さな動物が駆ける気配がした。
少し進むと、開けた場所へと出る。
日差しを遮る木々が周囲を囲み、落ち葉がふかふかの絨毯のように敷き詰められた空間。
中央には、玲華がいつも目印にしている「×」印がついた大きな木がそびえている。
彼女はそこへ歩み寄り、膝をついて幹のくぼみにそっと手を差し込んだ。
中に隠してあった細長い布包みを取り出し、丁寧にほどく。
布の間から覗く木剣の柄にそっと指を這わせる。
ひんやりとした木の感触が手のひらに馴染むと、心が落ち着くような気がした。
玲華の目が輝く。
「さて、今日も特訓開始!」
(兄さまたちみたいに強くなるには、もっと練習しないと!)
玲華は木剣を軽く握り直し、肩を回すと深く息を吸い込んだ。
手のひらに伝わる木の質感が、心を落ち着かせる。
兄たちのように、強くなるために。もっと上手くなるために。
静かに足を開き、膝を軽く曲げた。そして——。
「せいっ!」
風を切る音とともに、木剣が振り下ろす。
だが、手に余計な力が入りすぎていたせいか、剣の軌道が微妙にブレた。
(違う……兄さまたちのように、もっと滑らかに振れるはずなのに!)
もう一度。
今度は無駄な力を抜いて、踏み込む足に力を込め、木剣を一気に振り下ろす。
その瞬間、不意にどこかからか細い声が聞こえた。
「んぐ……水……飯……」
「……え?」
不意に、か細い声が聞こえた。
(何?)
玲華は木剣を握ったまま、慎重に周囲を見回す。
すると、林の中の岩の陰に、人が倒れているのが目に入った。
「えっ……まさか死んでる……?」
慌てて近づくと、ぼさぼさの髪に、もじゃもじゃの髭を生やした男が仰向けに倒れていた。
年の頃は三十代か四十代くらいだろうか。
薄汚れた衣服は埃まみれで、袖口のほつれが痛々しい。
玲華はそっと顔を覗き込んだ。
すると、男はかすかに目を開け、ひび割れた唇を動かした。
「水……めし……」
「あ、えっと……」
玲華は懐を探り、さっき市場で買った饅頭を取り出した。
「これでいい?」
包みを開けると、男の目が一瞬光った。
「よこせ……」
「うわっ!」
まるで獣が獲物に飛びつくように、男は勢いよく起き上がり、玲華の手から饅頭を奪い取った。
その手つきは異様に素早く、一瞬の隙もなかった。。
そして、ほとんど噛まずに口の中へ押し込む。
「……う、うまい……」
「そ、そんなにお腹空いてたの?」
「……三日ぶりの食事だからな」
「えっ!? 三日も何も食べてなかったの!?」
玲華が驚いて声を上げると、男はうんうんと頷きながら、水筒の蓋を開け、一気に水を飲み干した。
「ぷはぁ……生き返った……」
なんだか妙に大げさな男だ。
だが、確かに餓死寸前だったことは間違いない。
「助かった、坊主。恩に着る」
男はやっと人心地ついたのか、満足そうに息をついた。
「それにしても、こんなところで何をしてたんだ?」
「……稽古しに来たんだけど」
ぼさぼさの髪と無精ひげに覆われた顔。
だが、その目はただの行き倒れのものではなかった。
男は一瞬目を細め、まるで獲物を品定めするような目つきをした。
その鋭い視線のままゆっくりと体を起こし、無精ひげの生えた顎を指で撫でる。
「……剣の稽古? ほう、面白いことをしているな」
男はジッと玲華の木剣を眺めた。
「どれ、構えてみろ」
「え?」
「いいから、やってみろ」
玲華は少し戸惑いながらも、木剣を構えた。
すると、男はにやりと笑った。
「下手くそだな」
「……!」
瞬間、玲華の中で何かが弾けた。
「なっ……何を知ってるのよ!」
「何を知ってるか? そりゃお前の構えを見れば一目瞭然よ」
男はゆっくりと立ち上がり、ひょいと玲華の木剣を取り上げる。
「剣はただ振るうものじゃない。力だけじゃなく、体全体を使うんだ。……見てろ」
そう言うと、男は軽く木剣を振った。
その動きは、玲華が今まで見たどの剣技よりも洗練されていた。
(なに、これ……!)
まるで空間そのものを切り裂くような動き。
兄たちの剣とはまた違う、静かで力強い太刀筋。
「……どうだ、坊主」
男は木剣を玲華に返しながら、にやりと笑った。
「お前、もっと強くなりたいか?」
「……なりたい!」
玲華は迷わず答えた。
「そうか、なら教えてやるよ。礼をしたいと言ったろ?」
「えっ、でも……」
「遠慮するな。お前、剣の才はあるぞ」
息が詰まるほどの驚きが胸を満たした。
剣を握る手が震えそうになるのを、無理やり抑える。
「剣の……才……?」
兄たちに置いていかれないよう、ただがむしゃらに振るってきた。
その努力を誰かが認めてくれたことなんて、一度もなかった。
「なぁ坊主、弟子にならねぇか?」
玲華はぐっと木剣を握りしめ、喉の奥で沸き上がる何かを押し殺すように、深く頷いた。
「……お願いします!」
男は満足そうに笑い、木剣を肩に担いだ。
「そういや、お前、名は?」
「紅凌!」
玲華は、とっさに兄の名前を名乗った。
男は少し眉を上げたが、特に気にする様子もなく頷く。
「俺は徐慧。適当に呼べ」
男は肩をすくめながら、木剣で肩を軽く叩く。
「徐慧……」
その名を繰り返しながら、玲華は男をじっと見た。
ぼさぼさの髪とだらしない着こなし。
だが、その目の奥には何か鋭い光が宿っているように見えた。
(この人、ただの行き倒れじゃない……)
玲華はそんな直感を抱きながらも、すでに心が決まっていた。
「じゃあ、師匠!」
「お、おい、勝手に決めるな!」
「よろしくね、師匠!」
「だから、勝手に決めるなって……」
こうして、玲華と徐慧の奇妙な師弟関係が始まったのだった。