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第3話 風の行き先、剣の導き

 市場を抜け、城門をくぐった玲華は、草原の風を全身に受けながら駆けていた。

 空は澄み渡り、遠くの林からは鳥のさえずりが聞こえる。

 家を抜け出して自由になれるこの瞬間が、何よりも嬉しい。

 誰もいない林の奥へと歩いていく。

 草の間をすり抜ける風が心地よく、木々の葉がかすかに揺れていた。

 落ち葉を踏むたびに、カサリと乾いた音が響く。

 その音に混じって、遠くで小さな動物が駆ける気配がした。

 少し進むと、開けた場所へと出る。

 日差しを遮る木々が周囲を囲み、落ち葉がふかふかの絨毯のように敷き詰められた空間。

 中央には、玲華がいつも目印にしている「×」印がついた大きな木がそびえている。

 彼女はそこへ歩み寄り、膝をついて幹のくぼみにそっと手を差し込んだ。

 中に隠してあった細長い布包みを取り出し、丁寧にほどく。

 布の間から覗く木剣の柄にそっと指を這わせる。

 ひんやりとした木の感触が手のひらに馴染むと、心が落ち着くような気がした。

 玲華の目が輝く。

「さて、今日も特訓開始!」

(兄さまたちみたいに強くなるには、もっと練習しないと!)

 玲華は木剣を軽く握り直し、肩を回すと深く息を吸い込んだ。

 手のひらに伝わる木の質感が、心を落ち着かせる。

 兄たちのように、強くなるために。もっと上手くなるために。

 静かに足を開き、膝を軽く曲げた。そして——。

「せいっ!」

 風を切る音とともに、木剣が振り下ろす。

 だが、手に余計な力が入りすぎていたせいか、剣の軌道が微妙にブレた。

(違う……兄さまたちのように、もっと滑らかに振れるはずなのに!)

 もう一度。

 今度は無駄な力を抜いて、踏み込む足に力を込め、木剣を一気に振り下ろす。

 その瞬間、不意にどこかからか細い声が聞こえた。

「んぐ……水……飯……」

「……え?」

 不意に、か細い声が聞こえた。

(何?)

 玲華は木剣を握ったまま、慎重に周囲を見回す。

 すると、林の中の岩の陰に、人が倒れているのが目に入った。

「えっ……まさか死んでる……?」

 慌てて近づくと、ぼさぼさの髪に、もじゃもじゃの髭を生やした男が仰向けに倒れていた。

 年の頃は三十代か四十代くらいだろうか。

 薄汚れた衣服は埃まみれで、袖口のほつれが痛々しい。

 玲華はそっと顔を覗き込んだ。

 すると、男はかすかに目を開け、ひび割れた唇を動かした。

「水……めし……」

「あ、えっと……」

 玲華は懐を探り、さっき市場で買った饅頭を取り出した。

「これでいい?」

 包みを開けると、男の目が一瞬光った。

「よこせ……」

「うわっ!」

 まるで獣が獲物に飛びつくように、男は勢いよく起き上がり、玲華の手から饅頭を奪い取った。

 その手つきは異様に素早く、一瞬の隙もなかった。。

 そして、ほとんど噛まずに口の中へ押し込む。

「……う、うまい……」

「そ、そんなにお腹空いてたの?」

「……三日ぶりの食事だからな」

「えっ!? 三日も何も食べてなかったの!?」

 玲華が驚いて声を上げると、男はうんうんと頷きながら、水筒の蓋を開け、一気に水を飲み干した。

「ぷはぁ……生き返った……」

 なんだか妙に大げさな男だ。

 だが、確かに餓死寸前だったことは間違いない。

「助かった、坊主。恩に着る」

 男はやっと人心地ついたのか、満足そうに息をついた。

「それにしても、こんなところで何をしてたんだ?」

「……稽古しに来たんだけど」

 ぼさぼさの髪と無精ひげに覆われた顔。

 だが、その目はただの行き倒れのものではなかった。

 男は一瞬目を細め、まるで獲物を品定めするような目つきをした。

 その鋭い視線のままゆっくりと体を起こし、無精ひげの生えた顎を指で撫でる。

「……剣の稽古? ほう、面白いことをしているな」

 男はジッと玲華の木剣を眺めた。

「どれ、構えてみろ」

「え?」

「いいから、やってみろ」

 玲華は少し戸惑いながらも、木剣を構えた。

 すると、男はにやりと笑った。

「下手くそだな」

「……!」

 瞬間、玲華の中で何かが弾けた。

「なっ……何を知ってるのよ!」

「何を知ってるか? そりゃお前の構えを見れば一目瞭然よ」

 男はゆっくりと立ち上がり、ひょいと玲華の木剣を取り上げる。

「剣はただ振るうものじゃない。力だけじゃなく、体全体を使うんだ。……見てろ」

 そう言うと、男は軽く木剣を振った。

 その動きは、玲華が今まで見たどの剣技よりも洗練されていた。

(なに、これ……!)

 まるで空間そのものを切り裂くような動き。

 兄たちの剣とはまた違う、静かで力強い太刀筋。

「……どうだ、坊主」

 男は木剣を玲華に返しながら、にやりと笑った。

「お前、もっと強くなりたいか?」

「……なりたい!」

 玲華は迷わず答えた。

「そうか、なら教えてやるよ。礼をしたいと言ったろ?」

「えっ、でも……」

「遠慮するな。お前、剣の才はあるぞ」

 息が詰まるほどの驚きが胸を満たした。

 剣を握る手が震えそうになるのを、無理やり抑える。

「剣の……才……?」

 兄たちに置いていかれないよう、ただがむしゃらに振るってきた。

 その努力を誰かが認めてくれたことなんて、一度もなかった。

「なぁ坊主、弟子にならねぇか?」

 玲華はぐっと木剣を握りしめ、喉の奥で沸き上がる何かを押し殺すように、深く頷いた。

「……お願いします!」

 男は満足そうに笑い、木剣を肩に担いだ。

「そういや、お前、名は?」

「紅凌!」

 玲華は、とっさに兄の名前を名乗った。

 男は少し眉を上げたが、特に気にする様子もなく頷く。

「俺は徐慧。適当に呼べ」

 男は肩をすくめながら、木剣で肩を軽く叩く。

「徐慧……」

 その名を繰り返しながら、玲華は男をじっと見た。

 ぼさぼさの髪とだらしない着こなし。

 だが、その目の奥には何か鋭い光が宿っているように見えた。

(この人、ただの行き倒れじゃない……)

 玲華はそんな直感を抱きながらも、すでに心が決まっていた。

「じゃあ、師匠!」

「お、おい、勝手に決めるな!」

「よろしくね、師匠!」

「だから、勝手に決めるなって……」

 こうして、玲華と徐慧の奇妙な師弟関係が始まったのだった。


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