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第4話 少女は剣を握る

 朝日が屋敷の庭を照らし、澄んだ空気が回廊に流れ込んでいた。

 紅家の朝は早い。

 家中に響く湯沸かしの音、食器の触れ合う音、下女たちの忙しない足音。

 湯気の立つ湯呑の香りが、廊下を通るとほのかに漂ってくる。

 玲華は自室で着替えながら、小さく息をついた。

 白蓮書院に通う日は、身支度に時間がかかる。

 髪を丁寧に梳かし、淡い色合いの衣を整え、帯を締める。

 女の子らしい装いは好きではないが、家族の前ではそう装うしかない。

 だが、今日の玲華の手には、もう一つの準備があった。

 部屋の片隅に置いていた風呂敷を手に取り、そっと荷物を包む。

 中には、昨日仕込んでおいた食料や水袋、そして木剣が収められていた。

 玲華はきゅっと風呂敷の結び目を固く締める。

(さて、準備は終わりっと)

 準備を終え、食堂へ向かう。

 紅家の食卓には、すでに朝食が並べられていた。

 炊き立ての米に、湯気の立つ汁、漬物、そして焼き魚。

 それぞれが自分の椀を手に取り、淡々と食べている。

「おはようございます」

 玲華が席に着くと、次兄の景雅が軽く顔を上げた。

「おはよう、玲華。今日は早いな」

「白蓮書院に行く日だから」

 そう答えながら、玲華は箸をとる。

 焼き魚の皮がこんがりと焼け、いい香りが鼻をくすぐる。

「書院もいいが、刺繍も少しはやるのよ」

 母・紅華桜がやわらかく微笑みながら言う。

「わかってるよ、お母さま」

 本当は、刺繍より剣を振るいたいのに。

 けれど、そんな本音を言えるはずもない。

「今日の稽古はどうするんだ?」

 三兄・紅凱が言った。

 彼は朝食を食べながら、ちらりと玲華を見る。

「今日は行けそうにないかな」

「ふうん、どうせまた書院帰りにふらっとどこかに寄るんだろ?」

 紅凱がニヤリと笑いながら言う。

 玲華はドキッとしたが、表情を崩さずに汁をすする。

「そんなことないよ。ちゃんと帰るよ」

「怪しいな」

 紅凱が冗談めかして言うと、長姉の風華がくすりと笑った。

「書院の勉強も大事だけど、武の家に生まれたのだから、そればかりじゃ物足りないでしょう?」

「うん、まあ……」

 玲華は適当に誤魔化しながら、急いでご飯を口に運んだ。

 湯気の立つ汁の香りが鼻をくすぐるが、それを楽しむ余裕はない。

 兄たちの箸が動く音、母が静かに茶をすする音が心地よく響く。

「そんなに急いで食べなくても、食事はきちんと味わうものよ」

 母がやさしく言う。

「……はい、お母さま」

 本当は、ゆっくりしている時間なんてない。

 玲華は膳を片付けると、席を立った。

「行ってきます」

 母・紅華桜は「気をつけてね」と微笑み、父・紅雷怕は無言のまま頷く。

 兄姉たちもそれぞれの用事があるらしく、誰も特に気に留める様子はない。

(よし、うまくいった)

 玲華は表向きは書院へ向かう風を装い、堂々と門を出る。

 街道を歩きながらも、時折後ろを振り返り、誰も見ていないことを確認する。

 市場の喧騒を横目に通り過ぎ、路地へと入る。

 細い道を抜け、家々の影に隠れながら進む。

 そして、街の外へ。

 城壁を越え、人のいない小道を歩くと、風がやわらかく頬を撫でた。

 木々のざわめきと小鳥のさえずりしか聞こえない場所まで来ると、玲華はようやく足を止めた。

「……ふぅ」

 背負っていた風呂敷をほどき、荷物を確認する。

 木剣を取り出し、腰に差す。

 次に、持ってきた男物の衣を身に纏う。

 袖を通し、帯を締め、動きを確かめる。

 最後に、鏡を取り出し、髪を束ねて男装の仕上げをする。

 袖を軽く払い、顔を上げた。

 そこにいたのは紅凌だった。

「よし、行こう」

 玲華――いや、紅凌は、林の奥へと足を向ける。

 昨日の師匠との出会い。

 あの剣の軌跡。

 あれを、もっと見たい。学びたい。

 そう思うと、足が自然と早まる。

 そして、昨日の場所へとたどり着いた。

 岩陰の前には、昨日と同じように、もじゃもじゃ頭の男が寝そべっている。

 まるで、動く気がないように。

「……寝てるの?」

 玲華が近づくと、男は薄目を開け、面倒くさそうに言った。

「あぁ? 誰かと思えば、昨日の坊主か」

「おはようございます、師匠」

「師匠言うな……って、昨日より少し様になってるな」

 男――徐慧は、玲華の姿を一瞥し、にやりと笑った。

「さて、そろそろ本格的に教えてやるか」

 玲華はごくりと息を呑み、木剣を握りしめた。

 こうして、紅凌としての修行の日々が始まるのだった。

「まずは、俺を攻撃してみろ」

 徐慧は木剣を持ち、軽く構えた。

 玲華は一歩踏み込み、思い切り木剣を振るった。


 バシッ!


「っと」

 軽く手首を返されただけで、玲華の剣はあっさりと弾かれた。

「な、なんで!?」

「お前の剣は軽いな」

 徐慧は涼しい顔で木剣を振るう。

「なら……もっと力を込めればいいんだろ!」

 玲華は歯を食いしばり、全身の力を込めて木剣を振り下ろした。

「甘い」

 ふわりと、まるで風のように徐慧は後ろへと下がる。

 同時に、玲華の木剣が空を切り、バランスを崩した体が前へと倒れそうになる。

「くっ……!」

 玲華はすぐに踏みとどまり、再び木剣を振るう。

 けれど、何度振っても剣先は徐慧に届かず、逆に全ていなされてしまう。

「ほう?」

 徐慧が、一瞬だけ目を細めた。

 玲華は無意識のうちに、剣の軌道を変えていた。

 いや、違う。ただ闇雲に振るうのではなく、考えて動いた。

 徐慧の動きを観察し、ほんのわずかに狙いをずらした。

 徐慧の防御が、ほんのわずか遅れる。

「……っ!」

 しかし、それも一瞬。

 徐慧はすぐに体勢を立て直し、玲華の木剣をいなした。

「お前は確かに速いが、その分、剣に無駄が多い」

「無駄……?」

「動きが大きすぎるんだよ。力を込めることばかりに気を取られてる」

 玲華は悔しさに唇を噛んだ。

(確かに、兄さまたちの剣はもっと小さくて鋭い……!)

「まだ十歳だから仕方ない。そのうち、筋力もついてくるさ」

 徐慧は笑いながら言う。

 玲華は悔しそうに唇を噛み、もう一度木剣を握り直した。

「でも、それまで待ってなんかいられない……!」

 息を整え、再び構える。

 力だけに頼らず、動きを小さく、鋭く。

 頭でそう意識しながら振るったが、やはり徐慧の前には届かない。

「悪くないが、まだ遅い」

「……くそっ!」

 何度打ち込んでも、軽くいなされるだけ。

 次第に息が上がり、背中に汗が滲んでくる。

 体の芯が重くなり、腕が鉛のように感じる。

 呼吸が乱れ、胸が苦しい。

 それでも、歯を食いしばり、木剣を握る手は離さなず、振り上げる。

 徐慧はそんな玲華をじっと見つめ、ふっと息を吐いた。

「さすがに今日はここまでにしとくか」

 玲華はハッとして、止まる。

 呼吸が乱れ、心臓がどくどくと鳴っている。

 知らず知らずのうちに、全身に力を入れすぎていたことに気づいた。

「……はぁ……はぁ……」

 気づけば昼過ぎ。陽の角度が変わり、木陰が伸びている。

 玲華はその場に腰を下ろし、水筒を開けた。

 乾いた喉を潤すように、水を一気に流し込む。

 ふと、徐慧の視線が自分を見ていることに気づいた。

「なぁ、坊主。お前、なんでそんなに必死なんだ?」

「……強くなりたいから」

 玲華は水を飲みながら答えた。

 ほんの一瞬、凌の顔が脳裏をよぎる。

 でも、それを口にするつもりはない。

「そうか」

 徐慧は少し遠くを見つめるような目をした。

「師匠は? なんでここにいるの?」

 しばらく沈黙が続いた後、徐慧はふっと笑った。

「前に住んでたところで、偉い人に文句を言ったら嫌われちまってな。それで逃げてきたのさ」

「……え?」

「親友だったんだがな。偉くなったら変わっちまった」

 寂しそうに笑う。

 玲華は何も言えなかった。

「……俺も一つ聞いていいか?」

「何?」

 その瞬間、鋭い眼光が玲華を射抜いた。

「なんでお前はそんななりをしているんだ、お嬢さん?」

 玲華は全身が凍りついた。

 背筋に冷たい汗が流れ、喉がひゅっと詰まる。

 徐慧の鋭い目が、まるで獲物を狩るかのように玲華を射抜く。

 普段の飄々とした態度とは違う、本気の目。

 体が動かない。

「……え?」

 声がうまく出ない。

 今まで誰にもバレたことがなかったのに。

「驚いた顔をするな。咎めるつもりはない」

「……なんでバレたの?」

「見れば大体わかる」

「え……?」

 今まで家族以外にはバレたことがなかったのに。

「最初は違和感だったが、お前と剣を交えるとその違和感が強くなった。軽すぎんだよ、お前の剣は」

 徐慧は木剣をトン、と地面に突く。

「男と女の差だ。だけど、その差を埋める方法がある」

「本当?」

「嘘じゃないさ」

 徐慧は、ゆっくりと木剣を肩に担いだ。

「力が足りないなら、別の方法で勝てばいいだけの話だ」

「……別の方法?」

「お前の体格と動きに合った剣術を教えてやるよ」

「でも、私、女だよ」

 玲華は、木剣をぎゅっと握りしめ、視線を落とした。


『女に剣は必要ない』


 父の言葉が脳裏に浮かぶ。

 徐慧にも「女では無理だ」と言われるのではないか。

 そう思うと、胸の奥がじくりと痛んだ。

 だが、次の瞬間――。

「あはははっ!」

 徐慧は突然、腹を抱えて豪快に笑い飛ばした。

 不安げに玲華が言うと徐慧が豪快に笑い飛ばした。

「あははは、何細かいこと気にしてんだ。そんなことは関係ねぇ。お前がやるかやらないか、だっ」

「……やる!」

 玲華は即答した。

「よし、なら徹底的に鍛えてやるよ」

 徐慧はにやりと笑った。

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