朝日が屋敷の庭を照らし、澄んだ空気が回廊に流れ込んでいた。
紅家の朝は早い。
家中に響く湯沸かしの音、食器の触れ合う音、下女たちの忙しない足音。
湯気の立つ湯呑の香りが、廊下を通るとほのかに漂ってくる。
玲華は自室で着替えながら、小さく息をついた。
白蓮書院に通う日は、身支度に時間がかかる。
髪を丁寧に梳かし、淡い色合いの衣を整え、帯を締める。
女の子らしい装いは好きではないが、家族の前ではそう装うしかない。
だが、今日の玲華の手には、もう一つの準備があった。
部屋の片隅に置いていた風呂敷を手に取り、そっと荷物を包む。
中には、昨日仕込んでおいた食料や水袋、そして木剣が収められていた。
玲華はきゅっと風呂敷の結び目を固く締める。
(さて、準備は終わりっと)
準備を終え、食堂へ向かう。
紅家の食卓には、すでに朝食が並べられていた。
炊き立ての米に、湯気の立つ汁、漬物、そして焼き魚。
それぞれが自分の椀を手に取り、淡々と食べている。
「おはようございます」
玲華が席に着くと、次兄の景雅が軽く顔を上げた。
「おはよう、玲華。今日は早いな」
「白蓮書院に行く日だから」
そう答えながら、玲華は箸をとる。
焼き魚の皮がこんがりと焼け、いい香りが鼻をくすぐる。
「書院もいいが、刺繍も少しはやるのよ」
母・紅華桜がやわらかく微笑みながら言う。
「わかってるよ、お母さま」
本当は、刺繍より剣を振るいたいのに。
けれど、そんな本音を言えるはずもない。
「今日の稽古はどうするんだ?」
三兄・紅凱が言った。
彼は朝食を食べながら、ちらりと玲華を見る。
「今日は行けそうにないかな」
「ふうん、どうせまた書院帰りにふらっとどこかに寄るんだろ?」
紅凱がニヤリと笑いながら言う。
玲華はドキッとしたが、表情を崩さずに汁をすする。
「そんなことないよ。ちゃんと帰るよ」
「怪しいな」
紅凱が冗談めかして言うと、長姉の風華がくすりと笑った。
「書院の勉強も大事だけど、武の家に生まれたのだから、そればかりじゃ物足りないでしょう?」
「うん、まあ……」
玲華は適当に誤魔化しながら、急いでご飯を口に運んだ。
湯気の立つ汁の香りが鼻をくすぐるが、それを楽しむ余裕はない。
兄たちの箸が動く音、母が静かに茶をすする音が心地よく響く。
「そんなに急いで食べなくても、食事はきちんと味わうものよ」
母がやさしく言う。
「……はい、お母さま」
本当は、ゆっくりしている時間なんてない。
玲華は膳を片付けると、席を立った。
「行ってきます」
母・紅華桜は「気をつけてね」と微笑み、父・紅雷怕は無言のまま頷く。
兄姉たちもそれぞれの用事があるらしく、誰も特に気に留める様子はない。
(よし、うまくいった)
玲華は表向きは書院へ向かう風を装い、堂々と門を出る。
街道を歩きながらも、時折後ろを振り返り、誰も見ていないことを確認する。
市場の喧騒を横目に通り過ぎ、路地へと入る。
細い道を抜け、家々の影に隠れながら進む。
そして、街の外へ。
城壁を越え、人のいない小道を歩くと、風がやわらかく頬を撫でた。
木々のざわめきと小鳥のさえずりしか聞こえない場所まで来ると、玲華はようやく足を止めた。
「……ふぅ」
背負っていた風呂敷をほどき、荷物を確認する。
木剣を取り出し、腰に差す。
次に、持ってきた男物の衣を身に纏う。
袖を通し、帯を締め、動きを確かめる。
最後に、鏡を取り出し、髪を束ねて男装の仕上げをする。
袖を軽く払い、顔を上げた。
そこにいたのは紅凌だった。
「よし、行こう」
玲華――いや、紅凌は、林の奥へと足を向ける。
昨日の師匠との出会い。
あの剣の軌跡。
あれを、もっと見たい。学びたい。
そう思うと、足が自然と早まる。
そして、昨日の場所へとたどり着いた。
岩陰の前には、昨日と同じように、もじゃもじゃ頭の男が寝そべっている。
まるで、動く気がないように。
「……寝てるの?」
玲華が近づくと、男は薄目を開け、面倒くさそうに言った。
「あぁ? 誰かと思えば、昨日の坊主か」
「おはようございます、師匠」
「師匠言うな……って、昨日より少し様になってるな」
男――徐慧は、玲華の姿を一瞥し、にやりと笑った。
「さて、そろそろ本格的に教えてやるか」
玲華はごくりと息を呑み、木剣を握りしめた。
こうして、紅凌としての修行の日々が始まるのだった。
「まずは、俺を攻撃してみろ」
徐慧は木剣を持ち、軽く構えた。
玲華は一歩踏み込み、思い切り木剣を振るった。
バシッ!
「っと」
軽く手首を返されただけで、玲華の剣はあっさりと弾かれた。
「な、なんで!?」
「お前の剣は軽いな」
徐慧は涼しい顔で木剣を振るう。
「なら……もっと力を込めればいいんだろ!」
玲華は歯を食いしばり、全身の力を込めて木剣を振り下ろした。
「甘い」
ふわりと、まるで風のように徐慧は後ろへと下がる。
同時に、玲華の木剣が空を切り、バランスを崩した体が前へと倒れそうになる。
「くっ……!」
玲華はすぐに踏みとどまり、再び木剣を振るう。
けれど、何度振っても剣先は徐慧に届かず、逆に全ていなされてしまう。
「ほう?」
徐慧が、一瞬だけ目を細めた。
玲華は無意識のうちに、剣の軌道を変えていた。
いや、違う。ただ闇雲に振るうのではなく、考えて動いた。
徐慧の動きを観察し、ほんのわずかに狙いをずらした。
徐慧の防御が、ほんのわずか遅れる。
「……っ!」
しかし、それも一瞬。
徐慧はすぐに体勢を立て直し、玲華の木剣をいなした。
「お前は確かに速いが、その分、剣に無駄が多い」
「無駄……?」
「動きが大きすぎるんだよ。力を込めることばかりに気を取られてる」
玲華は悔しさに唇を噛んだ。
(確かに、兄さまたちの剣はもっと小さくて鋭い……!)
「まだ十歳だから仕方ない。そのうち、筋力もついてくるさ」
徐慧は笑いながら言う。
玲華は悔しそうに唇を噛み、もう一度木剣を握り直した。
「でも、それまで待ってなんかいられない……!」
息を整え、再び構える。
力だけに頼らず、動きを小さく、鋭く。
頭でそう意識しながら振るったが、やはり徐慧の前には届かない。
「悪くないが、まだ遅い」
「……くそっ!」
何度打ち込んでも、軽くいなされるだけ。
次第に息が上がり、背中に汗が滲んでくる。
体の芯が重くなり、腕が鉛のように感じる。
呼吸が乱れ、胸が苦しい。
それでも、歯を食いしばり、木剣を握る手は離さなず、振り上げる。
徐慧はそんな玲華をじっと見つめ、ふっと息を吐いた。
「さすがに今日はここまでにしとくか」
玲華はハッとして、止まる。
呼吸が乱れ、心臓がどくどくと鳴っている。
知らず知らずのうちに、全身に力を入れすぎていたことに気づいた。
「……はぁ……はぁ……」
気づけば昼過ぎ。陽の角度が変わり、木陰が伸びている。
玲華はその場に腰を下ろし、水筒を開けた。
乾いた喉を潤すように、水を一気に流し込む。
ふと、徐慧の視線が自分を見ていることに気づいた。
「なぁ、坊主。お前、なんでそんなに必死なんだ?」
「……強くなりたいから」
玲華は水を飲みながら答えた。
ほんの一瞬、凌の顔が脳裏をよぎる。
でも、それを口にするつもりはない。
「そうか」
徐慧は少し遠くを見つめるような目をした。
「師匠は? なんでここにいるの?」
しばらく沈黙が続いた後、徐慧はふっと笑った。
「前に住んでたところで、偉い人に文句を言ったら嫌われちまってな。それで逃げてきたのさ」
「……え?」
「親友だったんだがな。偉くなったら変わっちまった」
寂しそうに笑う。
玲華は何も言えなかった。
「……俺も一つ聞いていいか?」
「何?」
その瞬間、鋭い眼光が玲華を射抜いた。
「なんでお前はそんななりをしているんだ、お嬢さん?」
玲華は全身が凍りついた。
背筋に冷たい汗が流れ、喉がひゅっと詰まる。
徐慧の鋭い目が、まるで獲物を狩るかのように玲華を射抜く。
普段の飄々とした態度とは違う、本気の目。
体が動かない。
「……え?」
声がうまく出ない。
今まで誰にもバレたことがなかったのに。
「驚いた顔をするな。咎めるつもりはない」
「……なんでバレたの?」
「見れば大体わかる」
「え……?」
今まで家族以外にはバレたことがなかったのに。
「最初は違和感だったが、お前と剣を交えるとその違和感が強くなった。軽すぎんだよ、お前の剣は」
徐慧は木剣をトン、と地面に突く。
「男と女の差だ。だけど、その差を埋める方法がある」
「本当?」
「嘘じゃないさ」
徐慧は、ゆっくりと木剣を肩に担いだ。
「力が足りないなら、別の方法で勝てばいいだけの話だ」
「……別の方法?」
「お前の体格と動きに合った剣術を教えてやるよ」
「でも、私、女だよ」
玲華は、木剣をぎゅっと握りしめ、視線を落とした。
『女に剣は必要ない』
父の言葉が脳裏に浮かぶ。
徐慧にも「女では無理だ」と言われるのではないか。
そう思うと、胸の奥がじくりと痛んだ。
だが、次の瞬間――。
「あはははっ!」
徐慧は突然、腹を抱えて豪快に笑い飛ばした。
不安げに玲華が言うと徐慧が豪快に笑い飛ばした。
「あははは、何細かいこと気にしてんだ。そんなことは関係ねぇ。お前がやるかやらないか、だっ」
「……やる!」
玲華は即答した。
「よし、なら徹底的に鍛えてやるよ」
徐慧はにやりと笑った。