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第6話 兄と妹

 翌朝、玲華は母にこっぴどく叱られた。

 顔は紅潮し、怒りを抑えきれず肩を震わせている。

 昨晩のうちに門下生の誰かが兄に伝え、それが母の耳に入ったのだ。

「あなた、昨日どこに行っていたの!?」

 母は怒鳴ったが、その声はどこか震えていた。

 その手はぎゅっと拳を握りしめ、爪が食い込むほど力がこもっていた。

 それが、玲華を心から案じている証拠なのだと、玲華には痛いほどわかった。

 玲華は拳を握りしめ、視線を落とした。

「ごめんなさい……」

「ごめんなさいで済む話じゃありません!」

 母は額を押さえ、深く息をつく。

 まるで、どう叱ればいいのかわからない、とでも言いたげに。

 そして、震える声で続けた。

「武術の稽古をしていたんでしょう?女の子がそんなことをして!何かあったらどうするの!」

 その声は怒りに満ちているはずなのに、不思議と涙が滲んでいるように聞こえた。

「女の子は……戦うものじゃないの。大切にされるべきなのよ……。あなたが傷ついたら……」

 母の声が、かすかに震えた。

 玲華は唇を噛みしめる。

(……人を助けたい。守られるのではなく、守るために。何もできないのはいやなの)

 幼いころの記憶が脳裏をよぎる。

 あの日、凌と市場へ出かけた帰り道、細い路地で突然野犬が目の前に現れた。

 鋭い牙を剥き出しにし、低く唸る。その瞬間、凌が足を滑らせて転んだ。

「凌!」

 必死で手を伸ばした。

 でも、足がすくむ。震えが止まらない。

 それでも、必死に両手を広げ、凌を庇った。

 野犬が飛びかかろうとした瞬間、影が駆け抜けた。

「大丈夫か!」

 二番目の兄・景雅が現れ、野犬を一蹴したのだ。

 その時の兄の姿が、強く目に焼き付いている。

 あの時の自分の無力さと、助ける力を持つ者の強さ。

 その時、強く誓った。

 自分も守る力が欲しいと。

 その思いは、今も変わらない。

 けれど、母をこれ以上心配させるのも怖くて、言葉にはできなかった。

「今日一日、外出禁止です。絶対に家を出てはなりません!」

 母の言葉に従うふりをしながらも、玲華は心の中で「そんなことできるわけがない」と決意を固めた。

 部屋に戻ったが、外出禁止なんて冗談じゃない。

 せっかく強くなれる方法がわかったのだ。

 立ち止まってなんていられない。

 家族の目を盗み、静かに庭へ出る。

 朝の陽射しに照らされた庭の木々が、風にざわめいていた。

 そっと門の方へ向かい、足音を殺しながら進む。

 門を抜けようとした瞬間―――

「凌?」

 鋭い声が、背後から飛んできた。

 玲華はピクリと肩を震わせ、ゆっくり振り返る。

 そこには、二番目の兄・景雅が立っていた。

 鋭い眼差しが玲華を射抜く。

「……違うな。玲華、お前か」

 冷静な声の中に、わずかな警戒が滲んでいる。

「お前、どこへ行くつもりだ?」

「景雅兄には関係ない!」

「玲華!」

 景雅の声が厳しくなる。

「昨日のこと、母上に相当叱られたはずだ。まさかまた抜け出すつもりじゃないだろうな」

 玲華は口を噤む。

「家に戻れ」

「嫌だ!」

 兄の手が伸びる。

 玲華はとっさに体を捌いた。

 昨晩、師匠に教えられた足捌き。

 兄の手が空を切る。

「……なに?」

 景雅の目が細められる。

(今なら、逃げられる!)

 玲華は呼吸を整え、一瞬の隙を見て駆け出した。

 風が耳元を切り裂くように流れる。

 背後から響く景雅の足音が、すぐそこに迫る。

(あと少しで門の外……!)

 しかし、その瞬間――背後から兄の気配が跳ね上がった。

「くっ……小賢しい……!」

 景雅の舌打ちが、熱気を含んだ風にかき消される。

 玲華はその場を振り返ることなく、ひたすら駆けた。

 胸が高鳴る。鼓動が耳の奥で響く。

 足元の土を蹴り、雑踏の中をすり抜ける。

 曲がり角で一瞬立ち止まり、背後を確認した。

(よし、追ってきていない)

 景雅の気配は消えていた。

(勝った……!)

 実際には戦ったわけではない。

 だが、逃げ切れたという事実が、玲華の中に確かな自信を芽生えさせる。

 今の自分なら、もっと速く、もっと遠くまで行ける。

 そう思うだけで、胸が熱くなった。

 朝の風が頬を撫でる。

 昼の陽射しが眩しく、影が短くなっていた。

 玲華はそのまま駆け抜ける。

 目指すは、ただ一つ、師のもとへ。

「師匠!」

 息を切らしながら、玲華は昨日と同じ場所に駆け込んだ。

「おっ、どうした?息せき切って」

 徐慧が木の下で座っていた。

「うん!兄上に見つかったけど、逃げ切った!」

「はは、そりゃあ上等だな。なら、昨日の続きをやるか」

 玲華は頷き、木剣を手に取った。

 兄から逃げ切れたことが自信となり、昨日よりもさらに熱を込めて訓練に挑んだ。

 だが――。

「おい、お前」

 低く鋭い声が、空気を震わせた。

 景雅が、そこにいた。

「つけてきたの……?」

「違う」

 兄は玲華ではなく、徐慧を睨む。

「ここは、昔俺も訓練に使っていた場所だ。だから、まさかと思って来てみたら案の定だった」

「玲華、お前、この男から離れろ」

「なんで!?」

「風体が怪しすぎる」

 徐慧は立ち上がり、肩をすくめた。

「へえ、お前さん、俺のことを『怪しい』って言うんだな」

「当然だ。何者かも知れぬ男に、妹を近づけるわけにはいかん」

「へえ、なら試してみるか?俺がどんなもんか」

「上等だ」

 一瞬、空気が張り詰める。

 次の瞬間――景雅が踏み込んだ。

 鋭い突き。しかし、それは空を切る。

「なっ――」

 気づけば、徐慧は景雅の懐に入り込んでいた。


 カンッ!!


 一瞬の交錯。

 景雅の剣が弾かれ、彼の体勢が崩れた。

「……何?」

 徐慧は薄く笑った。

 その目だけは冷たかった。

「……貴方は、もしかして――」

 景雅の声が、かすかに震える。

 しかし、徐慧はニヤリと笑うだけだった。

 その笑みはどこまでも薄く、そして――冷たい。

「おっと、余計な詮索はよしな。今はまだ、な」

 景雅の眉がわずかに動く。

 目の前の男が何者なのか――知っている。

 知らぬはずがない。

(まさか、あの戦場で名を馳せた男が、こんな場所で……?)

 昔、何度も耳にしたその名と、その伝説。

 剣の腕だけではない、策謀と知略を兼ね備えた男。

 その存在が目の前にあることが、むしろ現実味を帯びてこない。

 だが、それを問いただそうとした景雅の口が、動かない。

 徐慧の目が、ひやりと光った。

 冗談めいた口調とは裏腹に、その視線には鋭い刃のような威圧感があった。

 景雅は息をのむ。

 これ以上は踏み込むな――そう警告されているようだった。

 沈黙の中、木々がざわめく。

 遠くで鳥が羽ばたく音がした。

「……玲華、あの男に学びたいのか?」

「……うん」

「わかった。父上や兄上たちには黙っておく」

「本当!?」

「だが、こっそり抜け出すのはやめろ」

 景雅は玲華の額を軽く小突いた。

「せめて俺くらいは、頼れ」

 その言葉に、玲華は少しだけ、頬を緩めた。


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