翌朝、玲華は母にこっぴどく叱られた。
顔は紅潮し、怒りを抑えきれず肩を震わせている。
昨晩のうちに門下生の誰かが兄に伝え、それが母の耳に入ったのだ。
「あなた、昨日どこに行っていたの!?」
母は怒鳴ったが、その声はどこか震えていた。
その手はぎゅっと拳を握りしめ、爪が食い込むほど力がこもっていた。
それが、玲華を心から案じている証拠なのだと、玲華には痛いほどわかった。
玲華は拳を握りしめ、視線を落とした。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさいで済む話じゃありません!」
母は額を押さえ、深く息をつく。
まるで、どう叱ればいいのかわからない、とでも言いたげに。
そして、震える声で続けた。
「武術の稽古をしていたんでしょう?女の子がそんなことをして!何かあったらどうするの!」
その声は怒りに満ちているはずなのに、不思議と涙が滲んでいるように聞こえた。
「女の子は……戦うものじゃないの。大切にされるべきなのよ……。あなたが傷ついたら……」
母の声が、かすかに震えた。
玲華は唇を噛みしめる。
(……人を助けたい。守られるのではなく、守るために。何もできないのはいやなの)
幼いころの記憶が脳裏をよぎる。
あの日、凌と市場へ出かけた帰り道、細い路地で突然野犬が目の前に現れた。
鋭い牙を剥き出しにし、低く唸る。その瞬間、凌が足を滑らせて転んだ。
「凌!」
必死で手を伸ばした。
でも、足がすくむ。震えが止まらない。
それでも、必死に両手を広げ、凌を庇った。
野犬が飛びかかろうとした瞬間、影が駆け抜けた。
「大丈夫か!」
二番目の兄・景雅が現れ、野犬を一蹴したのだ。
その時の兄の姿が、強く目に焼き付いている。
あの時の自分の無力さと、助ける力を持つ者の強さ。
その時、強く誓った。
自分も守る力が欲しいと。
その思いは、今も変わらない。
けれど、母をこれ以上心配させるのも怖くて、言葉にはできなかった。
「今日一日、外出禁止です。絶対に家を出てはなりません!」
母の言葉に従うふりをしながらも、玲華は心の中で「そんなことできるわけがない」と決意を固めた。
部屋に戻ったが、外出禁止なんて冗談じゃない。
せっかく強くなれる方法がわかったのだ。
立ち止まってなんていられない。
家族の目を盗み、静かに庭へ出る。
朝の陽射しに照らされた庭の木々が、風にざわめいていた。
そっと門の方へ向かい、足音を殺しながら進む。
門を抜けようとした瞬間―――
「凌?」
鋭い声が、背後から飛んできた。
玲華はピクリと肩を震わせ、ゆっくり振り返る。
そこには、二番目の兄・景雅が立っていた。
鋭い眼差しが玲華を射抜く。
「……違うな。玲華、お前か」
冷静な声の中に、わずかな警戒が滲んでいる。
「お前、どこへ行くつもりだ?」
「景雅兄には関係ない!」
「玲華!」
景雅の声が厳しくなる。
「昨日のこと、母上に相当叱られたはずだ。まさかまた抜け出すつもりじゃないだろうな」
玲華は口を噤む。
「家に戻れ」
「嫌だ!」
兄の手が伸びる。
玲華はとっさに体を捌いた。
昨晩、師匠に教えられた足捌き。
兄の手が空を切る。
「……なに?」
景雅の目が細められる。
(今なら、逃げられる!)
玲華は呼吸を整え、一瞬の隙を見て駆け出した。
風が耳元を切り裂くように流れる。
背後から響く景雅の足音が、すぐそこに迫る。
(あと少しで門の外……!)
しかし、その瞬間――背後から兄の気配が跳ね上がった。
「くっ……小賢しい……!」
景雅の舌打ちが、熱気を含んだ風にかき消される。
玲華はその場を振り返ることなく、ひたすら駆けた。
胸が高鳴る。鼓動が耳の奥で響く。
足元の土を蹴り、雑踏の中をすり抜ける。
曲がり角で一瞬立ち止まり、背後を確認した。
(よし、追ってきていない)
景雅の気配は消えていた。
(勝った……!)
実際には戦ったわけではない。
だが、逃げ切れたという事実が、玲華の中に確かな自信を芽生えさせる。
今の自分なら、もっと速く、もっと遠くまで行ける。
そう思うだけで、胸が熱くなった。
朝の風が頬を撫でる。
昼の陽射しが眩しく、影が短くなっていた。
玲華はそのまま駆け抜ける。
目指すは、ただ一つ、師のもとへ。
「師匠!」
息を切らしながら、玲華は昨日と同じ場所に駆け込んだ。
「おっ、どうした?息せき切って」
徐慧が木の下で座っていた。
「うん!兄上に見つかったけど、逃げ切った!」
「はは、そりゃあ上等だな。なら、昨日の続きをやるか」
玲華は頷き、木剣を手に取った。
兄から逃げ切れたことが自信となり、昨日よりもさらに熱を込めて訓練に挑んだ。
だが――。
「おい、お前」
低く鋭い声が、空気を震わせた。
景雅が、そこにいた。
「つけてきたの……?」
「違う」
兄は玲華ではなく、徐慧を睨む。
「ここは、昔俺も訓練に使っていた場所だ。だから、まさかと思って来てみたら案の定だった」
「玲華、お前、この男から離れろ」
「なんで!?」
「風体が怪しすぎる」
徐慧は立ち上がり、肩をすくめた。
「へえ、お前さん、俺のことを『怪しい』って言うんだな」
「当然だ。何者かも知れぬ男に、妹を近づけるわけにはいかん」
「へえ、なら試してみるか?俺がどんなもんか」
「上等だ」
一瞬、空気が張り詰める。
次の瞬間――景雅が踏み込んだ。
鋭い突き。しかし、それは空を切る。
「なっ――」
気づけば、徐慧は景雅の懐に入り込んでいた。
カンッ!!
一瞬の交錯。
景雅の剣が弾かれ、彼の体勢が崩れた。
「……何?」
徐慧は薄く笑った。
その目だけは冷たかった。
「……貴方は、もしかして――」
景雅の声が、かすかに震える。
しかし、徐慧はニヤリと笑うだけだった。
その笑みはどこまでも薄く、そして――冷たい。
「おっと、余計な詮索はよしな。今はまだ、な」
景雅の眉がわずかに動く。
目の前の男が何者なのか――知っている。
知らぬはずがない。
(まさか、あの戦場で名を馳せた男が、こんな場所で……?)
昔、何度も耳にしたその名と、その伝説。
剣の腕だけではない、策謀と知略を兼ね備えた男。
その存在が目の前にあることが、むしろ現実味を帯びてこない。
だが、それを問いただそうとした景雅の口が、動かない。
徐慧の目が、ひやりと光った。
冗談めいた口調とは裏腹に、その視線には鋭い刃のような威圧感があった。
景雅は息をのむ。
これ以上は踏み込むな――そう警告されているようだった。
沈黙の中、木々がざわめく。
遠くで鳥が羽ばたく音がした。
「……玲華、あの男に学びたいのか?」
「……うん」
「わかった。父上や兄上たちには黙っておく」
「本当!?」
「だが、こっそり抜け出すのはやめろ」
景雅は玲華の額を軽く小突いた。
「せめて俺くらいは、頼れ」
その言葉に、玲華は少しだけ、頬を緩めた。