レオノールは、広い鏡の前で帽子を被りながら、キュッと長い髪を結び、それを帽子の中へとしまい込んだ。
(よし、これで完璧)
今日の服装は、男の子用のシャツにベスト、パンツスタイル。
普段の淑女のドレスとは違い、動きやすくて快適だった。
「レオノール様、帽子の角度が少し傾いていますわ」
メイドのアリーがすかさず帽子を直す。
「もうちょっと適当でいいって」
「いけませんわ。貴族の方は、どこで誰が見ているかわかりませんよ」
アリーの厳しい言葉に、レオノールは小さくため息をついた。
「じゃあ、これでいい?」
「ええ、完璧ですわ」
メイドのシェラが微笑みながら頷く。
そして、護衛騎士のルシードが静かに扉の前に立っていた。
「準備は整いましたか?」
「ああ、行こう」
初めて行く街に心を躍らせながら、レオノールは玄関へ向かう。
その途中で、乳母のミリーがふっと微笑みながら近づいてきた。
「レオノール様、今日は初めての街歩きですが、お一人になってはいけませんよ」
「わかってるって」
「本当に、ですか?」
ミリーはじっとレオノールの目を見つめる。
レオノールは思わず視線を逸らしそうになった。
「街は楽しい場所も多いですが、それ以上に危ない場所もございます。特に、貴族だと知られれば、狙われることもありますから」
「……そんな危ない目に遭ったことなんてないんだけど?」
「それは、今までしっかり守られていたからです」
ミリーの穏やかな口調には、どこか含みがあった。
「護衛のルシード様、アリーとシェラの言うことをしっかり聞いてくださいね。決してお一人になってはいけません」
「はいはい、わかってるってば」
適当に流そうとしたが、ミリーの視線は変わらず鋭い。
「本当に、ですか?」
「……努力はする」
「……まあ、それなら良しとしましょう」
ミリーは呆れたように微笑んだ。
(まぁ、大丈夫っしょ)
軽く考えながら、レオノールは護衛たちとともに玄関を出た。
こうして、転生してから初めて、城や公爵家の敷地を離れ、実際に街へ足を踏み入れることになった。
最初に訪れたのは、貴族向けの商店街だった。
アリーとシェラに連れられ、貴金属店や文房具店などを巡る。
「こちらのペンダント、とてもお似合いですよ、レオノール様」
「……うん、そうだね」
(うん、まぁ綺麗だけど……なんか違う)
どれもこれも高級品ばかりで、普段の公爵家の生活と大差ない。
本当はもっと庶民的な場所を見て回りたい。
だって、ここはゲームの世界なんだから。
もっと色々なところを見て周りたいではないか。
しかし、アリーとシェラはレオノールを貴族として扱い、定番の店ばかり案内する。
(……違う、オレが見たいのは、こんな上品な店じゃないんだよ!)
レオノールは、ちらりと市場の方へ視線を向けた。賑やかな屋台が並び、楽しそうに歩く人々の姿が見える。
(……やっぱり、あっちに行きたい!)
しかし、アリーとシェラはきっちりと自分を貴族向けの店へと誘導し、ルシードは黙って後ろで見守っている。
(うーん……このままじゃ絶対に抜け出せない)
どうにかして、彼らの目を盗むしかない。
「……ちょっと、お手洗いに行ってくるよ」
何気ない素振りでそう告げると、アリーとシェラはすぐに反応した。
「では、ご案内いたしますわ」
「お手洗いはあちらにございます」
(うーん、やっぱりついてくるよなぁ)
レオノールは、わざと面倒くさそうな顔を作り、少しむっとした表情を見せた。
「いや、さすがにお手洗いまでついてこられるのは、ちょっと……」
二人は少し戸惑ったが、すぐにルシードを見た。
「ルシード様、レオノール様を見守っていてくださいね」
「承知しました」
ルシードが頷いた瞬間、レオノールはひらめいた。
(そうだ、ルシードは護衛だから、危険がない限り積極的に動かないはず……)
「あ、ついでに飲み物買ってきてくれない?」
何気なく、ルシードにそう頼む。
「喉乾いちゃったし、お茶か水がほしいな。あそこにお店があるよね?」
ルシードはちらりと指定された方向を見る。そこにはが飲料を売る路面店があった。
「……わかりました。すぐ戻ります」
そう言って、ルシードがそちらへ歩き出す。
(よし、計画通り!)
背を向けた瞬間、レオノールはお手洗いへ向かうフリをしつつ、脇の細い路地へとサッと身を滑らせた。
ルシードは路面店へ向かいながら、チラッと後ろを窺った。
(……はて、どこへ行かれたのでしょうか)
彼は足を止めるとじっと市場の方を見つめたあと、レオノールの後を追わずに路面店へと足を向けた。
(レオノール様の足ならそんなに遠くにはすぐにはいけないはずだ。飲み物を買ったあとでも十分に追いつける)
ルシードは薄く微笑みながら店に入った。
(街に来てからずっと市場の方を気にされていましたからね。シェラやアリーは市場に連れていくつもりはなかったようですし……折角の散策です。少しくらい好きなところ見させてあげたいですからね)
注文をし、飲み物が準備されるのを待つ間、視線を市場の方へ向けた。
(……まぁ、すぐに見つかるでしょう)
店員から飲料を受け取り店を出ると、急ぐそぶりもなく、レオノールが向かったであろう方向を歩き出した。
◆ ◆ ◆
「ごめん、ミリー! でも、ちょっとくらい自由に歩かせてくれ!」
狭い路地を駆け抜け、大通りへと飛び出した瞬間、視界が一気に開ける。
屋台がずらりと並び、焼きたてのパンの香ばしい香り、新鮮な果物の甘酸っぱい匂い、スパイスの効いた肉料理の湯気が入り混じる。
商人たちの威勢のいい掛け声、人々の楽しげな笑い声が溢れ、賑やかに市場を満たしていた。
「やった……! なんとか抜け出せた!」
市場の入口で息を整え、軽く肩をすくめる。
緊張と興奮が入り混じるこの瞬間。
心の中でガッツポーズをしながら、改めて辺りを見渡した。
「これだよ、これ! こういうのを見たかったんだ!」
思わず小さく拳を握りしめる。
貴族街の整然とした雰囲気とはまるで違う、活気に満ちた市場。
ただ歩いているだけで、新しい発見に胸が躍る。
「さてと……どこから見て回るかな」
一呼吸置いて、周囲を見渡す。
焼きたてのパンが並ぶ屋台、新鮮な果物を山積みにした店、スパイスの香りが漂う肉料理の屋台。
どれも美味しそうで、どこから回るか迷ってしまうほどだった。
(ゲームで何度も見たけど、実際に歩くと全然違うな……!)
レオノールはワクワクしながら市場の中へと足を踏み入れた。「いらっしゃい! 焼きたてのパンはいかが?」
「新鮮な果物だよ!」
店主たちの威勢のいい声が響き渡る。
活気あふれる市場には、さまざまなものがあふれている。
美味しそうな食べ物や可愛いアクセサリー、布地の屋台など、見どころがたくさんあった。
(すごい……本当にゲームの世界だ!)
レオノールはゲームの中でアイテムなどを買っていた市場に目を奪われていた。
(これ、ゲームの世界でよく見たアイテムだ!体力回復に使ったっけ)
「坊ちゃん、おいしい焼きリンゴはどうだい?一個、三十ディラーだよ」
近くの屋台の店主が、大きなリンゴにシナモンをまぶして焼き上げたものを見せる。
(美味しそう……三十ディラー……高いのか安いのか、リアルの相場がわからん!……今は我慢だ)
思わず口を開きかけたが、お金の価値がまだわからない。
「ごめん、おっちゃん!また今度」
そんな中、ふと足を止めたのは、果物屋だった。
甘酸っぱい香りが漂う店先には、カゴいっぱいに果物が並べられていた。
(へぇ、いい匂い……)
そう思っていたその時だった。
「おい、ガキ! こんな値段で売れると思ってんのか?」
突然、荒っぽい声が響いた。
視線を向けると、店の前で6歳くらいの男の子が怯えた表情をしていた。
彼の前には、ガラの悪い男が数人。
(……あれは、マズい奴だ)
レオノールは眉をひそめる。
男たちは、明らかに絡んでいる。
「うちの果物は新鮮だから、この値段なんです……」
男の子は必死に訴えていたが、男たちは笑っている。
「へぇ、でもオレたちには高すぎるなぁ。半額にしろよ」
「それはできません!」
「ほぉ? じゃあ――」
男の一人が、男の子の腕を掴んだ、その時だった。
「やめなさい!」
透き通った声が市場に響き渡る。
鐘の音のように澄んでいて、それでいて確かな力を感じさせる声だった。
レオノールが驚いて振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
栗色の髪が陽光を受けてふわりと揺れる。
年相応の可愛らしさの中に、強い意志が光っている。
「この子に手を出すのは許さないから!」
彼女は小さな体で男たちの前に立ちはだかった。
その姿は、まるで小さな騎士のようだった。
(え……もしかして……)
「ラフィーナっ!」
店の男の子が、その少女に駆け寄り、抱きついた。
(……ラフィーナ!?)
その名前に、レオノールはハッとした。
――この世界の『ヒロイン』。
(うそだろっ!?マジかよっ……!!)
ラフィーナ・エヴァレット。
乙女ゲーム『シェインレーラの乙女』のヒロイン。
何度も操作し、何度も選択肢を選び、何度も彼女の成長を見てきた。
正義感が強くて優しい女の子。
見間違えるはずがない。
(あの子はラフィーナだ)
驚くレオノールをよそに、男たちは不機嫌そうに顔を歪めた。
「生意気なガキが……」
男の一人が、ラフィーナに向かって拳を振り上げる。
(まずい!)
反射的に、レオノールは飛び出した。
考えるよりも先に体が動いていた。
ラフィーナの前に立ちはだかるように両手を広げ、男を睨みつける。
「なんだ、コイツ?」
「おい、オッサン!子供に手を上げるなんてみっともねぇぞ」
ゲラゲラと男たちは笑い声を上げる。
(くそっ……! こういう時、剣の一本でも持ってたら……!)
「うるせぇ!いいからとっとと失せろっ!」
「チッ!」
男の目に怒気が宿る。
「うるせぇのはお前だっ! ガキがっ!!」
そして――。
「やめろっ!」
鋭い声が響き、男の動きが止まる。
(……?)
レオノールは驚いて声の主を見た。
そこに立っていたのは、カッシュだった。
(カッシュ……!?)
カッシュの護衛たちがバッと囲んだ瞬間、男たちが一歩引いた。
状況が一気に混乱する中、レオノールの前でカッシュの護衛たちが男たちを取り押さえた。