カッシュの護衛たちは、男たちを厳しく取り囲みながら、その場から連れ出していった。
「おとなしく来い。抵抗すれば、罪が重くなるだけだぞ」
そう威圧的に告げられ、男たちは渋々従うしかなかった。市場の喧騒の中でも、その場は一瞬静まり返り、周囲の人々が様子をうかがっていた。
しばらくして、騒ぎが落ち着いたことを確認すると、カッシュと護衛の一人だけがその場に残った。
「大丈夫ですか?」
カッシュが、穏やかながらも真剣な表情で声をかけてきた。
(やばい……!バレないよな?)
レオノールは冷や汗をかきながら、それでも平静を装い、軽く肩をすくめた。
「うん、大丈夫。ありがとう、助かったよ」
すると、隣でじっと様子を見ていたラフィーナが、カッシュに向かって丁寧に頭を下げた。
「本当にありがとうございます。助けてくれて……」
そして、ふっとレオノールに視線を移す。
「貴方もね」
彼女は微笑みながら、礼を言った。
さらに、助けられた子供も、感極まったように目を輝かせながらレオノールとカッシュを見上げた。
「お兄ちゃんたち、ありがとう!」
その言葉に、レオノールは気恥ずかしさを感じながらも、「気にすんな」と軽く手を振った。
(良かった、今のところ正体はバレてない……)
だが、安堵したのも束の間――。
「ああ、こんなところいらしたんですか、レオノール様」
不意に、落ち着いた低い声が響いた。
レオノールの背筋がピンと伸びる。
振り返ると、そこには黒いマントを翻しながら、静かに歩いてくるルシードの姿があった。
(まずい!なんでここに!?)
カッシュの護衛の一人が、ルシードを見ながら怪訝そうに首を傾げた。
「……ほう、サヴィア公爵家のルシード殿ではないか。こんなところで会うとは奇遇だな。使いか何かか?」
ルシードはその言葉に微かに眉を動かしつつも、淡々とした態度で答えた。
「いや、今日はご子息の護衛だ」
(おいおい、それ言っちゃうのか!?)
レオノールは思わずルシードを見上げるが、彼は表情を変えることなく佇んでいる。
ルシードの言い方では、まるで自分が公爵家の「ご子息」だと認めたようなものだ。
カッシュが興味深げに口を開いた。
「サヴィア公爵家といえば……レオフィア嬢しかいないはずですが?」
その言葉に、場の空気が微妙に張り詰める。
(しまった……! このままじゃ、変に怪しまれる!)
レオノールは一瞬、口ごもるが、動揺を悟られないようにぐっと堪えた。
「……レオフィアはオレの妹だ」
言いながらも、内心では冷や汗が止まらない。
(頼むから、突っ込んでくるなよ……!)
カッシュの視線が鋭くなる。
腕を組みながら、一拍置いて問い返した。
「妹?」
「……ああ、オレはレオフィアの兄だ」
レオノールは平静を装いながら頷く。
(頼む……それ以上聞くな……!)
しかし、カッシュはじっとレオノールの顔を見つめ、何かを考えるように顎に手を当てた。
「レオフィア嬢に兄がいるとは知りませんでした」
(クソッ、やっぱり簡単には納得してくれないか……)
レオノールは咄嗟に言葉を探すが、下手に取り繕えば余計に不自然になる。
その沈黙を破るように、ルシードが淡々と口を開いた。
「公爵閣下のご判断により、レオノール様は療養されていました。この件は公爵家の内政に関わるため、外部に公表されることはなかったのです」
その言葉には一切の揺らぎがなく、カッシュの反応を見極めるように続ける。
「これは主君の意向であり、護衛として私が口を挟む余地はありません。詳しくお知りになりたいのであれば、公爵閣下ご本人に直接お尋ねください」
(ルシード、うまいこと言った……!)
レオノールは密かに安堵するが、カッシュの表情はまだ探るようだった。
沈黙の一瞬がやけに長く感じる。市場の喧騒の中で、馬の蹄の音すら遠く響いた。
「療養……?」
カッシュが問いかけると、ルシードは微かに頷く。
「ええ。レオノール様は幼少期より静養が必要でしたが、公爵閣下の深いご配慮のもと、静かに回復に努めておられました。特に、ご病状の詳細を公にすることで不要な憶測を招くことを懸念し、公表を控えていたのです」
カッシュは考え込むように目を細める。
(よし……これでなんとか誤魔化せるか?)
「……なるほど。そういう事情があったのですね。しかし、公爵閣下からも何も聞いたことがなかったので……少々、意外でした」
ようやく納得したのか、カッシュは一歩引いたように見えた。
(……ふぅ、危なかった)
レオノールは心の中で小さく安堵の息を吐いたが、次の瞬間、カッシュが軽く笑いながら付け加えた。
「それにしても……随分と元気になられたようですね?」
「っ……」
レオノールは一瞬固まりそうになったが、すぐに肩をすくめ、何とか笑ってごまかす。
「はは……まぁ、ベッドで寝てばかりで退屈してたからな、つい羽目を外したって言うか……」
カッシュは興味深げにレオノールを見つめるが、それ以上は追及しなかった。
(助かった……!)
そう思ったのも束の間、カッシュは意味ありげな笑みを浮かべてレオノールに向かって一言。
「今度、父について公爵家に伺う予定なので正式にご挨拶させていただきます。次にお会いするのを楽しみにしていますよ。そのときは、ゆっくりお話ができるといいですね」
そう言って、護衛と共に去っていった。
「はぁ、寿命が縮まるかと思った……」
じわりと指先が冷たくなっているのを感じる。
無意識に握りしめていた拳をゆっくり開くと、掌にうっすらと爪痕が残っていた。
張り詰めていた肩の力が抜けると、軽い眩暈すら覚えた。
額に手を当てると、じっとりとした汗が指先にまとわりつく。
(マジでヒヤヒヤした……)
下手に疑われたら終わりだったが、何とか切り抜けたはずだ。
「レオノール様」
ルシードが淡々とした口調で呼びかける。
「どうします? そろそろ戻りますか?」
その問いに、レオノールは一瞬考える。
(戻るのもアリだけど……せっかくここまで来たんだから、もう少しだけ見て回りたい!)
まだこの市場には興味を惹かれるものがたくさんある。
ここはゲームの世界なのだから、リアルでは味わえない体験をもっとしたい。
「……いや、もうちょっとだけ」
ルシードは一瞬だけ沈黙し、わずかにため息をついたように見えた。
「……かしこまりました。しかし、あまり長くは時間を取れませんので、手短に」
「わかってるって!」
そう言ったところで、ラフィーナと男の子が駆け寄ってきた。
「レオノール君、それにあなたも……助けてくれてありがとう」
ラフィーナは真剣な瞳でまっすぐレオノールを見つめ、深く頭を下げた。
男の子もにこにこと笑いながら、手に持っていたリンゴを差し出す。
「お兄ちゃんたち、ありがとう! これ、お礼にあげる!」
「え、でも……」
「いいの! お兄ちゃんたちが助けてくれたおかげで、果物も無事だったし!」
レオノールは少し躊躇したが、子供のキラキラした瞳を見て、結局受け取ることにした。
「……じゃあ、ありがたくもらっておくよ」
「うん!」と男の子は嬉しそうに笑う。
ラフィーナも微笑みながら言葉を続けた。
「私は時々、あっちの角にある兄の雑貨屋を手伝っているの。また市場に来ることがあったら、ぜひ寄っていってね」
「……へぇ、そっか」
この世界に来てからまだ間もないが、少しずつ新しいつながりができていく感覚に、不思議な感動を覚える。
「それじゃあ、またね!」
「ああ、またな」
ラフィーナは爽やかに手を振ると、男の子と一緒に店の奥へと戻っていった。
レオノールは手に持ったリンゴを見つめ、ほんの少し口元をほころばせる。
(……悪くないな)
だが、その余韻も束の間――。
「レオノール様!」
突然、聞き慣れた女性の声が市場の喧騒の中から響いた。
(げっ……!)
慌てて振り向くと、そこにはアリーとシェラが、明らかに不機嫌な表情でこちらへ向かってきていた。
市場の賑やかさの中でも、彼女たちの視線は鋭く、特にアリーの眉間にはしっかりと皺が寄っている。
「レオノール様、まさかとは思いましたが……」
「まさか本当に抜け出して市場にいらっしゃるとは!」
シェラの柔らかい声にも、わずかに怒気が滲んでいる。
(……バレたか)
レオノールは苦笑しながら肩をすくめた。
「ちょっと見てみたかったんだよ、ここ」
「まったく……お一人で行動するのはお控えくださいと、あれほど申し上げましたのに!」
「そうですよ、レオノール様。危険なことがあったらどうするつもりでしたか?」
「……まぁ、色々あったけど、大丈夫だったって」
そう言った瞬間、ルシードが横から静かに補足した。
「実際、危険な目に遭われました」
「え?」
アリーとシェラが同時に目を見開く。
「賊に絡まれていたところを、偶然居合わせたカッシュ様が助けてくださったのです」
「……レオノール様!」
「お怪我は?!」
二人の視線が一層鋭くなり、レオノールは慌てて手を振った。
「いやいや! だから、ちゃんと助かったって! ほら、無事だから!」
とはいえ、アリーとシェラの怒りは簡単には収まりそうになかった。
「もう……お帰りになられたら、ミリー様に報告しますからね」
「それだけは勘弁してくれ!」
シェラとアリーはレオノールを抱きしめた。
「お怪我がなくて本当によかった」
「レオノール様がいなくなったとき、どれほど焦ったか……!」
「本当に無事でよかったです」
「……ごめん」
レオノールを潤んだ二対の瞳がジッと見つめた。
「もう……どれだけ心配したと思っているんですか!」
アリーはレオノールの肩を軽く叩く。その仕草には、怒りと安堵が入り混じっているのがわかった。
シェラは少し息を吐き、穏やかな声で続ける。
「レオノール様、ご無事でよかったです……ですが、次はちゃんと私たちにも相談してくださいね?」
そう言うシェラの瞳は、怒るというより、心の底から心配していることを伝えていた。
「……うん、わかった」
レオノールは流石にこれ以上、二人に心配させるのは悪いと考え、市場の散策を諦めることにした。
遠くから威勢のいい客引きの声が飛び交い、揚げたてのパイや香ばしい焼き菓子の匂いが鼻をくすぐる。
通りの向こうでは楽器を弾く音が響き、子供たちの笑い声が交じる。活気あふれる市場の風景は、どこか温かく心地よかった。
市場の喧騒を背に、レオノールは小さく笑った。
(まあ、またこればいいしな)
こうして、レオノールの『初めての街歩き』は、こうして幕を閉じたのだった。