事件の翌朝、レオノールはまだ疲れの抜けきらない体を引きずりながら、王宮へと向かっていた。
今日は妃教育の日。
妃教育――それは、王太子妃となる者が受けるべき特別な教育であり、王宮で正式に行われるものだった。
王家に嫁ぐ可能性のある貴族令嬢たちが集められる――なんてことはなく、対象者はたった一人。
つまり、婚約者である自分だけが受けるものだ。
(あぁ、やめたい。やめたい。やめたい)
昨日の事件のせいで、頭は混乱しっぱなしなのに、こんな気の重い授業を受けなければならないなんて。
(なんでオレが妃教育なんて受けなきゃいけないんだよ……! 婚約破棄できれば、こんな苦行もなくなるのにっ!)
深い青色の扇を無造作に広げては閉じるを繰り返す。
(……とはいえ、もし本当に婚約破棄ができなかったら? いや、そんなこと考えるだけ無駄だろ)
レオノールは首を振り、余計な思考を振り払う。
妃教育は、ただの礼儀作法や宮廷のしきたりの講義だけではない。
国政や外交、王族としての振る舞い、そして王太子を支えるための知識を叩き込まれる、まさに王妃育成のための授業だった。
しかし、妃教育は「自分には必要のないもの」のはずだ。
けれど、礼儀作法や宮廷のしきたりを学んでおくことが「いずれ役に立つ」可能性もある。
たとえ、王妃になる気がなくても―― 貴族社会で生きていく以上、無知ではいられない 。
(まぁ、できれば関わりたくないんだけどな)
そう思いながら、王宮の廊下を歩いていると――不意に声をかけられた。
「おや、レオフィア」
(……うわぁ……)
心の中で天を仰ぐ。
声の主は、ヴァンツァー・フォン・リズベルト。
王太子であり、自分の婚約者――つまり、妃教育を受ける根本の原因。
「妃教育の時間ではないのか?」
「ええ、今からですけれど?」
「ふん、妃教育の前に少しくらい時間があるだろう。俺と話すくらい構わんはずだ」
ヴァンツァーは腕を組み、当然のような態度で言い放つ。
その表情は余裕と自信に満ち、まるで「断る理由などないだろう」と言わんばかりだった。
(……相変わらず、偉そうな態度で)
レオノールは内心でため息をつきながらも、ヴァンツァーの真剣な視線を受けて、悟った。
――これは、絶対に事件の話だ。
(はぁ……逃げられないな)
「……わかりました。少しだけなら」
◆ ◆ ◆
朝の澄んだ空気の中、庭園の白薔薇がほのかに甘い香りを漂わせる。
大理石の噴水から流れる水音が静寂を彩り、優雅な宮廷の景色を形作っていた。
ヴァンツァーが足を止めると、それに合わせるようにレオノールも歩みを止め、二人の視線が真正面で交差した。
「それで、殿下。事件の話でございますわね?」
「察しがいいな」
ヴァンツァーは腕を組み、鋭い視線を向けてくる。
「お前、何故あんなところにいた?」
ヴァンツァーは腕を組み、表情を引き締める。
「お前が巻き込まれた以上、俺が関知しないわけにはいかない」
(……やっぱり、その話になるよな)
レオノールは優雅に微笑み、深い青色の扇をそっと開いた。
艶やかに描かれた銀の模様が光を反射し、さりげなく彼女の表情を隠す。
「まぁ、少々不運が重なりまして。それに――」
扇をゆるりと揺らしながら、ヴァンツァーの顔を見据える。
「結果として私はこうして無事におりますの。何か問題でも?」
「問題に決まっているだろう」
ヴァンツァーの口調が冷たくなる。
「お前は第一王子である俺の婚約者だぞ。立場をもっと弁え、浅はかな行動はもっと慎むべきではないか」
レオノールは、涼しげな笑みを浮かべながら、ゆったりとした口調で応じた。
「まぁ、ご忠告ありがとうございます、殿下。ですが、ご心配には及びませんわ。私は弱き乙女ではございませんので」
レオノールは微笑み、軽く扇を揺らしてみせた。
「……何?」
ヴァンツァーの眉がピクリと動いた。
「襲われたことは事実ですわ。けれど、だからといって泣いて助けを求めるなんて無様なこと致しませんわ」
「……」
「殿下もご存知の通り、我が家門、サヴィア公爵家は武も尊びます。なので私もそれなりに護身術を身に着けております」
ヴァンツァーは一瞬、呆気に取られたような顔をしたが、すぐに険しい表情に戻る。
「お前は……本当に危機感というものがないのか?」
「まぁ、そんなことございませんわ。しっかりと危機は認識しておりますもの。けれど、だからといって怯える必要もありませんでしょう?」
余裕たっぷりに微笑みながら扇を閉じ、そっと口元に寄せた。
「それに、カッシュ様も助けてくださいましたしね」
ヴァンツァーは微かに目を細めた。
しばしの沈黙の後、静かに口を開く。
「……カッシュ?」
ヴァンツァーの声が一段と低くなる。
その名を口にした途端、彼の目が鋭く細められ、僅かに指が握り込まれる。
「ええ。彼が駆けつけてくださったおかげで、余計な手間をかけずに済みましたの」
ヴァンツァーは腕を組み直し、わずかに息を吐いた。
だが、わずかに指先が震えているのが見えた。
「……お前は、よほどカッシュを信頼しているようだな?」
低く押し殺した声が、じわりと冷たく響いた。
まるで、自分以外の誰かに頼ることが気に入らないとでも言いたげに。
(カッシュのことを言った途端に機嫌が悪くなったな……何か気に入らないことでもあるのか?でも、カッシュはコイツの側近でもあるし……う~ん、わからん)
レオノールはゆっくりと目を瞬かせる。
「特別に頼ったわけではございませんわ。ただ、結果として助けて頂いただけのことですわ」
「だが、お前は自分で倒したと言ったな」
「ええ、ですから自分で対処いたしましたわ。ただ、さすがに一人では不利な場面もございましたので」
「……そうか」
ヴァンツァーは短くそう言い、腕を組み直した。
(あからさまに機嫌悪くなってない?)
顔には出さないが、わずかに空気が張り詰めたような感じがする。
(なんでこんなに不機嫌になるんだよ……?)
内心で首を傾げつつ、なるべく自然に話を締めくくることにした。
レオノールは、まるで余裕のある貴婦人のように微笑み、優雅に一礼する。
「ともかく、私はこの通り元気でございますので、どうぞご心配には及びませんわ」
ヴァンツァーは一瞬、何かを言おうと口を開きかける。
しかし、それを飲み込むと、代わりに静かに鼻を鳴らし、あくまで冷静な態度を装った。
「心配しているわけではない。ただ、お前が勝手な行動をして問題を起こされては困るという話だ。己の立場をわきまえろ」
その横柄な口調に、レオノールは内心で舌を打つ。
(んなこと、分かってるって!だからこそ、こうして大事にしないようにしてるっていうのに……!)
レオノールは、にこりと微笑みながらも、扇をひらりと翻した。
「ご忠告、肝に銘じますわ」
ヴァンツァーはまだ納得していない様子でレオノールをじろりと一瞥したが、それ以上は何も言わなかった。
(はぁ……面倒なことにならなければいいんだけど)
婚約破棄を目指しているはずなのに、こうして王宮に通い、妃教育を受け、ヴァンツァーと顔を合わせる日々を過ごしている。
それが当たり前になってしまっている気がして、なんだか 無性に焦る。
(……オレ、ちゃんと婚約破棄できるのか?)
そんな疑念が頭をよぎる。
けれど、いざ行動を起こせば、サヴィア公爵家の名にも傷がつくかもしれない。
貴族である以上、無責任に全てを投げ出せるわけじゃない。
それが分かっているからこそ、こうして 適当にやり過ごしてしまうのだ。
このままずるずると妃教育を受け続け、王宮での日々に馴染んでしまったら……。
小さく息を吐き、レオノールはふと空を見上げた。
(結局、婚約破棄できないのが一番の問題だ!!)
心の中の叫びが、王宮の庭園に虚しく響いた。