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第26話 兄は妹の面倒をみないといけないらしい。

 王宮でヴァンツァーに会った三日後の午後。

 レオノール――男の姿の彼は、広々とした訓練場で剣を振るっていた。

 鋭く振り下ろされた剣が空を裂き、乾いた音を立てる。

 息を乱しながらも、レオノールは何度も同じ動作を繰り返した。

(考えるな……余計なことは……)

 汗が額を伝い、視界がぼやける。

 だが、それすらも気にせず剣を振るう。

 ヴァンツァーに会ったあの日から、なんとなく心が落ち着かなかった。

 いや――あの日だけじゃない。

 自分が婚約破棄を目指しているはずなのに、なぜか、妃教育を受ける日々が『当たり前』になりつつあることが、どこか恐ろしかった。

(オレ、本当に婚約破棄できるのか?)

 そう思った瞬間、動きが一瞬だけ鈍った。

 その隙を突くように、鋭い声が飛んでくる。

「ずいぶんと熱心だな」

 ピタリと動きを止め、振り向くと、そこにはカッシュ・グラードが立っていた。

 いつもの淡々とした表情で、じっとこちらを見つめている。

「……珍しいな、カッシュがこんなところに来るなんて」

 レオノールは剣を肩に担ぎながら、呼吸を整える。

 カッシュは静かに歩み寄ると、単刀直入に尋ねた。

「レオフィアはいないのか?」

「ん? ああ、出かけてるよ」

「また街か?」

「今日は違うよ。用事があるって言ってた」

 カッシュは一瞬目を細め、軽く腕を組んだ。

「……そうか」

 カッシュは目を伏せると、軽く息を吐いた。

 短く応じた後、しばし沈黙が続く。

 そして、カッシュはまっすぐレオノールを見据え、低い声で問いかけた。

「お前からも、今回の件について言っているのか?」

 レオノールの心臓が、一瞬だけ跳ね上がった。

(――また、か)

 レオフィアのことになると、こうやって周囲の誰もが「兄として忠告しろ」と言う。

 世間にはレオフィアの兄として認識されている以上、それが当然の反応なのかもしれない。

 だけど―――。

「……話はしたけど、どうだろうな」

 どこか曖昧な答えを口にすると、カッシュの表情がわずかに険しくなる。

「なら、彼女はどう答えた?」

「……まあ、相変わらずだよ。いつも通り、平然としてた」

 レオノールは小さく息を吐き、剣を鞘に収めると、カッシュと向き合った。

「お前も気にしてるんだな」

「当然だ」

 カッシュの声音は迷いなく、どこまでも冷静だった。

「彼女は決して弱くはない。それは理解している。だが……強い者ほど、自分の負担を見せようとはしない」

 レオノールは、その言葉を噛み締めるように黙り込んだ。

(――強い者ほど、自分の負担を見せない)

 それは、まさしくレオフィアのことを的確に言い表していた。

「……レオフィアは、自分のために助けを求めるような奴じゃない。自分でなんとかしようとするタイプだ」

 カッシュの瞳が鋭くなる。

「お前は彼女の兄だ。誰よりも近くにいる存在のはずだ。お前も、彼女に何か言ったのか?」

 カッシュは淡々とした口調で言ったが、その目は静かに鋭さを増していた。

 その言葉が、レオノールの胸に突き刺さる。

(分かってるよ、そんなの)

 レオフィアが何を考えているのか。

 それは誰よりも、自分が一番理解している。

 だって、オレがオレを一番理解してるに決まってるだろ。

 まあ、色々思うことはある。

 怒りや焦り、恐怖だってゼロじゃない。

 でも、そんなものを顔に出しても仕方がない。

 公爵令嬢として、小公爵として、そして婚約破棄を目指す者として。

 やるべきことは決まっているし、それはレオノールでもレオフィアでも変わらない。

 レオノールとして、動くときは動く。

 レオフィアとして、演じるべきときは演じる。

 それだけのこと。

(でも……なんか、ちょっと違う気もするんだよなぁ)

 婚約破棄のために動いているはずなのに、最近はその日常に慣れ始めている。

 王宮での妃教育、ヴァンツァーとの会話、カッシュとのやり取り。

 どれも予定通りのはずなのに、どこか引っかかる。

 まるで、歯車が少しずつズレているみたいに。

(オレ、本当に婚約破棄するつもりがあるのか?)

 いや、違う。

 オレは『いつか』じゃなくて、『ゲームが始まるまでに』婚約破棄しないといけないんだ。

 前みたいに『男とバレる前に』じゃなく、期限が決まってる。

 だって―――ラフィーナと知り合ってしまったから。

 彼女は、あのゲームのヒロインだ。

 そしてオレは、彼女をいじめる悪役令嬢になるはずの存在。

 そんなの、絶対に嫌だ。

 ラフィーナは、今のところ普通の少女にしか見えない。

 だけど彼女が『聖女の力』に目覚めるとき、きっとオレは敵になる。

 それだけは避けなきゃならない。

 いや、それだけじゃない。

 ラフィーナを傷つけたくない。

 彼女は、オレにとって大切な友達 なんだ。

(でもさ……)

 もし、本当にゲームの時期に入ったら?

 もし、強制力みたいなものが働いて、知らないうちにラフィーナをいじめてしまったら?

 今はそんな気はない。

 でも、絶対にないとは言い切れない。

 そうなったら、どうする?

 もし、ラフィーナを傷つける自分になったら。

 婚約破棄をするためなら、ゲームのシナリオに沿って悪役令嬢になればいい。

 ヴァンツァーとの関係をこじらせて、ラフィーナを追い詰めて、破滅の道を選べば……。

 でも―――。

(したくない。したくないんだ)

 そんなの、オレが望んでることじゃない。

 オレは、ラフィーナの敵になんかなりたくない。

 婚約破棄はしたい。

 でも、その方法は、絶対に違う。

(ゲームが始まるまでに、終わらせる……絶対に)

 そのために、ここで足を止めるわけにはいかない。

 全身がざわつき、焦燥感が胸を締め付ける。

 でも、ここで迷ってる暇はない。

「……分かってるさ」

 レオノールは絞り出すように答え、カッシュから視線を逸らした。

 まるで、その問いに即答することを避けるように。

「なら、いいんだがな」

 カッシュはそう言いながらも、微かに眉を寄せた。

 言葉とは裏腹に、その瞳には鋭い光が宿っていた

 納得しているようには見えない。

 それでも、これ以上は踏み込まないという意思が感じられる。

 けれど、それが妙に引っかかった。

 カッシュはそれ以上、何も言わない。

 しかし、その目はまるで「お前は本当に分かっているのか」と問いかけているようだった。

 気づけば、レオノールは無意識のうちに拳を強く握りしめていた。

(……オレ、本当に大丈夫なのか?)

 婚約破棄の道を進むつもりが、いつの間にかその場に適応してしまっている。

 でも、それは『演じている』からじゃないのか?

 必要だから動いているだけ。

 そう、必要だから――。

 小さく息を吐き、剣を握り直す。

 考えるのは、あとだ――今はただ、剣を振るう。

 そうしなければ、この胸のざわつきを振り払えそうになかったから。

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