ラフィーナを見送ったあと、レオノールはベンチに腰を下ろし、果実水のカップを傾けた。
甘酸っぱい風味が口の中に広がるが、さっきから続いている胸のざわつきは、どうにも収まらない。
(ラフィーナはレオフィアを褒めていた……いや、オレを?)
彼女の言葉を思い返しても、それがどちらを指していたのか、判然としない。
レオフィアとして振る舞ったのはオレだ。けれど、彼女が見ていたのは「レオノール」ではなく、「レオフィア」だった。
(まあ、あの場では完全にレオフィアだったしな)
分かっているはずなのに、なんとなく引っかかる。
称賛されるのは嫌じゃない。むしろ、嬉しくないこともない。
けれど、それが「レオノール」としてではなく、「レオフィア」として向けられたものだと思うと、どうにも複雑な気分になる。
ふと、噴水の水面に目を向ける。
昼下がりの陽を受けた水は、キラキラと光を反射し、揺れる水面に映る自分の姿もまた、少し歪んでいた。
「……レオフィア様と一緒に、か」
ぽつりと呟き、レオノールは軽く肩をすくめた。
今さらながら、自分の立場のややこしさを実感する。
――と、そこで。
「ほう、お前がひとりで街を歩いているとは珍しいな」
すぐ背後からかかった低い声に、レオノールは思わず背筋を伸ばした。
ゆっくりと振り返ると、そこにはひとりの青年が立っていた。
端整な顔立ちに、鋭い眼差し。
まるで探るような視線がこちらを射抜く。
「……カッシュ?」
思わず名を呼ぶと、青年――カッシュ・グラードは静かに微笑んだ。
「何か考え事か?」
じっと見つめられると、胸の内まで見透かされそうで落ち着かない。
「……別に。ただ、少し考えごとをしていただけだ」
カップを弄びながら適当に返すと、カッシュは微かに口角を上げた。
「そうか。ちょうどいい、お前に話しておきたいことがある。だが――こんなところでは話せんな」
そう言いながら、彼は街の喧騒を一瞥する。
レオノールもそれに気づき、肩をすくめた。
「確かに、街中で話すことじゃなさそうだな」
「場所を変えよう」
カッシュはそう言い、二人は飲み屋へ向かった。
まだ開店前の薄暗い飲み屋に足を踏み入れる。
店主がカウンターの奥で準備をしていたが、客の姿はない。
「すまないが、個室を借りたい」
カッシュが店主に声をかけると、男は怪訝そうにこちらを見た。
「開店前なんだがな……」
「それでも構わない」
カッシュが無言で金貨を一枚握らせると、店主は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐににやりと笑った。
「へぇ、お得意さんか。好きに使いな」
店主はあっさりと金貨を懐に収め、奥の個室の扉を指さした。
「助かる」
そう言って、レオノールとカッシュは店の奥へ進んだ。
個室は簡素だが、静かで人目につかない。
扉を閉めると、カッシュは椅子に腰掛け、軽く指を組んだ。
「さて――ここなら問題ないな」
レオノールも向かいの席に腰を下ろし、テーブルの上に肘をついた。
「で、本題は?」
「……お前、今回の件でどこまで知ってる?」
「貴族の子供が狙われたってことくらいか。身代金目的だろ?」
「それだけじゃない。親の弱みを握るためのケースもある」
「弱みを?」
「ああ。権力があるほど、隠したい秘密も増えるものだ。たとえば――」
「……誘拐された子供の無事と引き換えに、不正を見逃せ、ってか」
「察しがいいな」
レオノールは肩をすくめた。
「まあ、それくらいのことは想像がつく。でも、平民の子供まで狙われてたんだろ? そっちは何のために?」
「人身売買だ」
「……」
レオノールは思わず息を詰めた。
「そっちは身代金なんかじゃなく、最初から商品扱いってことかよ」
「そういうことだ。そして、そういう連中を裏で庇護している貴族がいる」
「貴族が……?」
カッシュは軽く肩をすくめ、冷めた目で続ける。
「珍しい話じゃないさ。表向きは平穏でも、裏では汚い取引が行われているものだ」
レオノールは拳を握り、わずかに奥歯を噛みしめた。
嫌な話だが、ありそうな話でもある。
世の中、清廉潔白な貴族ばかりじゃないのは知っている。
「で、お前がこれをオレに話すってことは?」
「当然、お前に知っておいてほしいからだ。だが、レオフィアには言うな」
カッシュはわざわざ念を押すように言った。
レオノールは、すぐにその意図を察する。
「……なんでだ?」
「アイツは、きっと首を突っ込んでくる。無茶をしてな」
「……まあ、それは、うん、否定はしない」
言われてみれば、レオフィアの性格的に何かしら動きそうではある。
「危なっかしいんだよ、あの性格は。だから、お前がしっかりと手綱を握っておけ」
「……馬じゃないんだから」
思わず呆れたように返すと、カッシュは少し笑った。
「言い得て妙だろう? あの性格、放っておくとどこまでも突っ走る」
「それは……まぁ、確かに」
納得せざるを得ない。
我ながら、レオフィアとして動いているときの行動力は、自分でも驚くほどだ。
そして、それが周囲から見れば「突っ走る危なっかしい妹」と映るのも、理解できる。
「レオフィアには知らせない。でも、だからって、このまま放置するつもりもない」
「ふむ」
カッシュはレオノールを一瞥すると、満足そうに頷いた。
「なら、頼りにしてるぞ、兄上」
「……いちいち嫌味ったらしいな」
「お褒めに預かり光栄だ」
どこかからかうようなカッシュに、レオノールは肩をすくめるしかなかった。
とはいえ、彼の言うことは間違いではない。
自分がすべきことは何か。
それを考えなければならない。
レオノールは、再びテーブルの上のカップに視線を落とした。
自分が何をすべきか、少しずつ輪郭が見えてきた気がする。
(とりあえず、やられたらやり返すっていうのが『悪役令嬢』らしいよな)
レオノールはゆっくりと口角を上げ、悪戯っぽく笑った。