カッシュとの会話を終えたあと、レオノールは店を出た。
外はすっかり夕暮れに差し掛かっており、石畳の道には長く伸びた影が連なっている。
街の賑わいはまだ続いており、屋台からは香ばしい匂いが漂い、人々の楽しげな声が響いていた。
(さて、どう動くかなぁ……)
情報を得た以上、何もしないという選択肢はない。
だが、あまり派手に動けばカッシュに釘を刺された意味がなくなるし、何よりレオノールとして目立ちすぎるのも問題だった。
レオノールの姿で動ける範囲で、まずは様子を見るべきだろう。
「……そうだ。まずは、少し調べてみるか」
つぶやいて歩き出す。
と、その時――。
「……ん?」
遠くの路地裏で、小さな影が二つ、もみ合うように揺れていた。
(子供……か?)
ただの喧嘩かと思ったが、片方の子供が地面に転がり、そのまま起き上がらなかったのが見えた。
明らかに異常な様子。
(これは、ただの喧嘩じゃないな)
自然な動作でその場を離れつつ、路地裏へと足を向ける。
狭い路地の奥に、二人の子供がいた。
一人は怯えた様子で後ずさっており、もう一人――倒れている子供は、明らかに殴られた跡がある。
「おい、大丈夫か?」
レオノールが声をかけると、怯えていた子供がビクッと体を震わせた。
こちらを警戒するような視線を向けてくる。
(これは、なんかあったな……)
慎重に近づき、倒れている子供の様子を確認する。
息はあるが、意識がないようだった。
顔に痣があり、服も乱れている。
「何があった?」
問いかけると、怯えていた子供は口を開こうとしなかった。
「……俺は、ただ通りかかっただけだ。別に咎めるつもりはない。ただ、このままだとこいつが危ない。助けたほうがいいんじゃないか?」
努めて穏やかに言うと、子供は躊躇いながらも、ぽつりと呟いた。
「……あいつ、さらわれそうになったんだ」
レオノールの眉がわずかに動く。
「さらわれそうになった? 誰に?」
「わかんない……。黒い服の男が、急に連れて行こうとして……でも、ミルドが暴れて、逃げ出して……それで、殴られて……」
(黒い服の男……)
カッシュから聞いた話が頭をよぎる。
貴族の子供を狙う誘拐犯、人身売買。
それに関係している可能性は高い。
(となると、これは……調べる価値がありそうだな)
レオノールは倒れている子供をそっと抱き上げた。
「こいつを安全な場所に運びたい。どこか思いつくとこはあるか?」
問いかけると、子供は一瞬躊躇ったが、こくりと頷いた。
「……うん」
「よし。行くぞ」
レオノールは軽くため息をつき、歩き出した。
夜の街に消えゆく夕陽が、長い影を伸ばしていた。
「お前の家はどこだ?」
レオノールは倒れている子供を抱えながら、ジットと名乗った子供に視線を向けた。
「えっと……あっちの方……」
「"あっち"じゃわからん。もう少し具体的に」
「えーっと……ほら、パン屋の裏の道を曲がって……」
「方向音痴の案内か?」
「違う! ちゃんと道わかってる!」
「なら、迷うなよ?」
ジットはまだ警戒している様子だったが、レオノールが特に何かを問い詰める気配がないとわかると、おずおずと道を指さした。
「よし、案内してくれ」
ジットは頷き、先を歩き出す。
街の賑やかな通りを抜け、少し奥まった静かな地区へと進んでいく。
貧民街というほどではないが、そこまで裕福な地域でもない。
道端には屋台の残骸や使い古された木箱が転がっており、壁に貼られた古い布のカーテンが風に揺れていた。
「ここ……」
ジットが立ち止まり、古びた扉を指さす。
外観は古びてはいるものの、壊れた箇所はなく、それなりに整った家だった。
「入るぞ」
ジットが扉を押し開けると、中はこぢんまりとしていたが、しっかりと片付けられていた。
質素な家具が並び、小さなテーブルと椅子、布団代わりの藁の寝床が置かれている。
それなりに生活感があり、決して荒れ果てた様子ではない。
(平民の家としては、ちゃんとしてる方だな……)
レオノールはミルドを寝床へそっと横たえ、毛布をかけた。
「お前、今はここで一人暮らしか?」
ジットは少し躊躇ったあと、小さく頷いた。
「……うん」
「親は?」
「いない……。でも、姉ちゃんがいた」
「いた?」
「二週間前、『いい仕事を紹介してもらえた』って言って、出て行ったんだ。でも、それから帰ってこない……」
ジットの声には、不安と寂しさが滲んでいた。
レオノールは静かに息をつく。
(姉が「仕事」で二週間帰ってこない、か……)
嫌な予感がした。
人身売買の話をカッシュから聞いたばかりだ。
まさか、ジットの姉も――。
「……誰に仕事を紹介してもらったんだ?」
「わかんない。姉ちゃん、あんまり詳しくは言わなかった。でも、『お金がたくさんもらえる』って、嬉しそうにしてた」
ますます怪しい。
レオノールは思わず舌打ちしそうになるのを堪えた。
「姉ちゃんの名前は?」
「リーナ……」
「歳は?」
「十九……」
レオノールは考え込んだ。
貴族の子供を狙う誘拐犯がいるなら、平民の若い女性が狙われてもおかしくはない。
特に「高額な報酬」をちらつかせる手口は、騙される者も多いはずだ。
(リーナがどこに行ったのか、調べる必要があるな……)
その時――。
寝かせたミルドが、うっすらと目を開けた。
「……ジット……?」
「ミルド! 大丈夫?」
ジットが駆け寄ると、ミルドはゆっくりと視線を彷徨わせながら、レオノールに気づいた。
知らない人物がいることに驚いたのか、弱々しく身を起こそうとする。
「動くな。まだ殴られたばかりだろ」
「……あんたは?」
「レオノール。道端に落ちてたお前を拾った者だ」
「……落ちてたって……」
「転がってたろ?」
「うぅ……まあ、確かに……」
ミルドは小さく息をつき、痛む頭を押さえながら呟いた。
「……あいつ、捕まったかもしれない……」
レオノールの眉が動く。
「捕まった? 誰が?」
「黒い服の男……。オレをさらおうとしたやつ……ジットが騒いだから、慌てて逃げた。でも、さっき衛兵がうろついてた……見つかったかも……」
(衛兵が?)
ただの喧嘩ではなく、何か事件が起きたと察知していたのか。
となると、事情を知っている男がすぐに消される可能性もある。
「……ジット」
「う、うん?」
「ミルドのことを頼む。オレは少し外を見てくる」
「え、でも――」
「大丈夫だ。すぐ戻る」
そう言い残し、レオノールは再び街へと向かった。
(姉の行方、誘拐犯、衛兵の動き……少し調べることが増えたな)
気がつけば、夜の街が静かに広がっていた。
レオノールは慎重に街の通りを歩いた。
空はすでに群青色に染まり、街灯がぽつぽつと灯り始めている。
衛兵が動いているとなれば、今夜中に何かしらの進展がある可能性は高い。
(まずは、衛兵がどこで動いているかを確認するか)
大通りを歩くと、すぐに複数の衛兵が警戒しながら見回りをしている姿が目に入った。その中の一人が、露店の店主と話している。
「……ああ、黒い服の男なら見たぜ。子供を連れて逃げようとしてたみたいだが、騒ぎになって逃げたな」
「その後の行方は?」
「さあな。そいつ、南側の路地へ走っていったが、どこに消えたかまではわからん」
衛兵は頷くと、仲間と目配せしながらその場を離れた。
(黒い服の男が、南側の路地に逃げた……か)
レオノールはさりげなくそちらの方へ向かうことにした。
人目を避けるため、建物の陰に入りながら、衛兵の動きを見つつ進んでいく。
しばらく歩くと、南側の路地の奥に、衛兵に取り押さえられた黒い服の男がいた。
「……クソッ、離せ!」
男は腕をねじられ、無理やり地面に膝をつかされていた。
「抵抗するな。誘拐未遂の疑いがある。連行させてもらう」
衛兵の一人が冷静に言い放つ。
(連れて行かれるのはいいが……問題は、こいつがどこまで話すか、だな)
レオノールは少し離れた場所から様子をうかがった。
(う~ん、どうしようか……)
もし、こいつが黒幕の情報を持っているなら、取り調べを受ける前に消される可能性もある。
(……いや、ここはカッシュに任せるとして、こっちも別の角度で探るべきだな)
レオノールは路地の影に身を潜め、衛兵たちが黒い服の男を連行するのを見送った。
男はまだ抵抗しようとしていたが、衛兵に腕をねじられ、力なく引きずられていく。
その姿が通りの角で見えなくなったのを確認すると、レオノールは小さく息をつき、石畳を蹴るように歩き出した。
(ジットの姉の話が気になるし、リーナがどこで「いい仕事」を紹介されたのか、何かわかるかもしれない)
ふと、周囲に目をやる。
昼間の喧騒は落ち着いたものの、夜市の灯りがちらほらと揺れている。
屋台の並ぶ通りでは、香ばしい焼き菓子やスープの匂いが漂い、仕事を終えた人々が酒場へと足を運んでいた。
通りを歩く人々の中に、それらしい情報を持っていそうな者はいないかと、さりげなく視線を巡らせる。
(まずは、姉が仕事を見つけた場所を突き止める。怪しい雇い主がいるなら、そこで何かしらの手がかりが掴めるはずだ)
「さて、アイツらの様子を見て、それから考えるか」
そう呟きながら、レオノールは夜の街へと足を踏み出した。