「じゃあ、俺たちも行こうか」
水瀬さんに腕を引かれるままカフェを後にした俺は、ふたりの後を追うことに。駅前はたくさんのひとで賑わっていることもあって、間にひと組挟んで後ろを歩いていてもまったく気付かれない。
「で、東雲くんと彼はどういう関係?」
水瀬さんはやっと俺の腕を放してくれたけど、このまま
そんなわけ、ないよね。
「······一緒に住んでる幼馴染、です」
本当のことは、言えない。
水瀬さんがどういう反応をするのか。もし拒絶されたら? 俺は同じ職場で白い目で見られるのだろうか。それともそれさえも理解して、相談に乗ってくれたりするのだろうか。わからなくて、怖い。
俺たちの家族や
「そっか。ただの知り合いじゃないってことだね。ちなみに、彼には恋人がいたりする? ほら、さっき言っただろう? 隣にいる子、俺の知り合いというか、元カノなんだよね。色々あって三日で別れたんだけど」
水瀬さんって、やっぱりモテるんだ····って、三日で別れるって、いったいなにがあったらそんなことになるんだろう。海璃の横にいる女性は楽しそうだった。海璃は····どこか上の空という感じ?
「えっと······もし仮に付き合ってるひとがいたら、なにかあるんですか?」
「うーん。あの子、ちょっと特殊な
「····癖、ですか?」
癖ってなんだろう。
水瀬さんは顎に手を当ててなにかを考えているような仕草をした後、俺の方に視線を向けた。
「あんまりひとのこと悪く言うのは好きじゃないんだけど、東雲くんにとって彼は大切な友だちでしょ? 今ならまだ引き返せるかも?」
「引き返せるって······どういう?」
「浮気、させられちゃうかも?」
········え?
ええっと、浮気?
(海璃が浮気? でも確かに、最初にふたりを見た時、俺····もしかして、って思っちゃった。今も不安で心臓がもやもやしているし)
でもそんなことはあり得ない。
誕生日に『これから先も、ずっと一緒にいて欲しい』って言ってくれたばかりなのに、そんなことするはずがない······ない、よね? でも、いつもなら事前に約束のない誘いは断るようにって言っていたのに、今日に限ってはいいよって言ってくれた。てっきり『ダメ』って言われると思っていたのに。
それってつまり、俺のことはどうでもよくなったってこと?
「彼女の癖っていうのは····、」
水瀬さんが続きを話そうとしてくれた時、女性が海璃を裏道の方へと誘うように腕を引くのが見えた。そっちの道って、もしかして····。
「まずいかも。このままホテルに入られたら、追えなくなる」
駅前の明るい通りから裏側に入ると、雰囲気ががらりと変わる。昼も夜も関係なく、この辺りはほとんどカップルしか歩いていない。彼ら彼女らが向かう先は····。
「私、七瀬くんのこと好きになっちゃったんだ。いつも優しくて、真面目で、仕事もできて、一緒にいると楽しいし。君の恋人に負けないくらい、君のことを夢中にさせる自信があるよ?」
角を曲がったすぐ先で、ふたりが抱き合っていた。海璃越しに女性と視線が合う。それに対して海璃は驚いているようだったが、明確な拒絶はしなかった。目の前で行われている行為に、俺は思わず海璃の名前を呟いてしまう。
ぜんぶ、嘘だったのかな?
俺が海璃を好きって知って、優しい海璃は話を合わせてくれてた?
それとも途中から、好きじゃなくなった?
やっぱり女のひとの方が良かった?
「······打ち合わせって、嘘だったの?」
そのひとと一緒にいるから、俺のことが邪魔だったのかも。俺に気付いてる? どうして違うって否定してくれないの? 俺のこと、見てくれないの?
「····海璃のばか······水瀬さん、行きましょう!」
俺は水瀬さんの手を取って走り出す。水瀬さんは戸惑ったような声を上げていたけど、なにも考えられなかった。時にぶつかりそうになりながら通りを駆ける。気付けば水瀬さんの方が前を走り、ぼんやりしている俺の手を引いてくれてくれていた。
「大丈夫? ほら、こっち。とりあえず乗って?」
いつの間にか駐車場にいて、カフェまで乗せてきてもらったあの車の前に立っていた。そのまま助手席に促され、扉が閉められる。すぐ後に運転席の扉が開いて水瀬さんが乗り込み、エンジンがかかる音と洋楽アーティストの歌が流れ始めた。英語なので歌詞はわからないけどすごく心地好い声だと思う。
でも今は、そんな音楽さえも響かない。
「あんまり踏み込むのも良くないってわかってるけど、東雲くんが心配だからあえて訊いてもいいかな? 彼は、ただの幼馴染? それとも君にとって特別な····、」
「それは、」
俺は水瀬さんの問いに言葉を詰まらせる。
「気付いてた? あの子、君が"彼の特別"だってすぐに嗅ぎ分けたんだよ?」
「····さっきのひと、好きって言ってました」
「まあ、そういう演技というか。彼女の作戦というか。通常運転というか」
演技? 作戦? 通常運転?
「あの子はね、そういう癖なんだよ。恋人がいるひとを自分に夢中にさせて、相手の関係をぶち壊すのが楽しいんだって。その時は本気で好きになるらしいんだけど、目的が達成されると興味がなくなっちゃうらしい。俺が三日で別れたのは、またちょっと違う理由だけど。とにかく、そいういう癖としか言えないっていうか」
つまり、俺の反応を見て一瞬で海璃の恋人だって見抜いて、すぐに行動に移したってことかな?
「彼は君の恋人ってことで合ってる?」
俺が言うまでもなく、水瀬さんが躊躇うことなく直球で訊いてきた。穏やかな声はそのことについて拒絶するようなものではなく、普段の彼そのものというか。だからこそなんでも話してしまいそうになる。このひとになら話しても大丈夫かもしれないという安心感が、そうさせるのだろうか。
「彼とは高校生の時からずっとお付き合いをしてて······でも好きになったのは幼稚園の頃で。それから色々あって疎遠になったり、近くなったかと思えば離れたり。本当に色々あって、両思いになって。お互いの両親にも話して認めてもらって。今はふたりで一緒に暮らしてるんです」
「そっか。じゃあ、俺が君と一緒にいたらまずいんじゃない? 君が彼に対して感じたのと同じ感情を、彼も感じちゃうかもしれないよ? 事実、目の前で俺と逃げちゃったわけだし」
でも、海璃は引き留めなかった。
名前すら呼んでくれなかった。
「東雲くん、気を付けた方がいいよ?」
ふいに伸ばされた左手は、俺の右頬にそっと触れてきて····。
「恋人以外にそんな顔見せたら駄目だよ」
まっすぐに見つめてくるその瞳は、どこか困ったような色を浮かべていた。
エンジンはかかっていたかけど、ここから動き出す気配がない。
「その涙を拭って慰めた後、弱って判断能力がない君を、どうにかしようとする悪い大人がいるかもしれないよ?」
水瀬さんがなにを言いたいのか、俺にはよくわからなかった。
「でも、水瀬さんは違いますよね? だってあなたはすごくいいひとだから」
彼には全然関係ないことなのに、俺なんかに付き合ってくれてる。本当のことを言っても普段通りに接してくれている。そんな水瀬さんが悪い大人なわけがない。
「俺、海璃と話をしてきます」
さっきからずっと薄い上着のポケットの中でスマホが震えていた。水瀬さんの指先は俺の頬に残っていた涙をそっと拭った後、そのままゆっくりと離れていった。
「うん、頑張って。もしひとりでどうにもならなかったら、俺に電話して? 俺はこう見えて口が上手い方だから、なんとかしてあげられると思うよ、」
冗談っぽく言って、水瀬さんはにっこりと笑った。その笑顔と言葉に背中を押された俺は、「ありがとうございます」と頭を下げて車から降り、その場を後にした。そして再び雑踏に紛れ明るいところで取り出したスマホの画面を見て驚く。
そこには着信が99件。
メッセージが50件。
「俺、もしかして今から海璃に殺されるのかな?」
冗談でも笑えない。
あれからまだ十分くらいしか経っていないはず。
目を疑うような件数の着信とメッセージ。
『白兎、今どこ?』
『話がしたい』
『電話出て』
『絶対に見つける』
『逃げても無駄だからな』etc.
みなさんお察しの通り、大量の着信履歴も送られてきたメッセージも、ぜんぶ。
海璃からのものだった····。