「私はこれから政務に向かいます。急ぎでしたら歩きながら話してください」
私はなるべく動揺を隠して凛とした顔と声で答える。
「それで結構です。では参りましょう」
南草は頷くと瑠璃の隣を歩きはじめた。その距離は近く、手が触れそうで触れない距離。瑠璃はその距離感に少しの寂しさを覚えた。
(幼い頃は何度もこの暖かい手に救われた。でもそれは過去のこと。お勤めのことを聞いてからお互い距離をとるようになったからこの手を握られることなどもう2度とない)
そう思うと心が痛んだ。ふっと涙がこぼれそうになったので、心持ち顔を尊大に見えるように持ち上げると、隣を歩く南草が何を思ったのか瑠璃の手を握ってきた。
「南草!無礼ですよ。まだ婚姻を結んでいない今は主従の関係です。控えなさない」
あまりの混乱に私はつい口調を強めにそう告げてしまって少し後悔した。
本当は嬉しかった。久々に握る南草の手は、日頃の鍛錬のためか硬く大きくなっていて、昔とは随分違う手になっていて驚いた。
「申し訳ございません。つい…幼い頃を思い出してしまい。もう肌に触れぬことお約束します」
相変わらず鉄面皮で何を考えているのか読めないが、南草はもしかして瑠璃に気持ちがあるのだろうか。
わずかな期待を持ってしまったが、そんなことはないと慌てて淡い思いを打ち消した。
「わかれば良い。今度このようなことのないように」
そんなことを話しているとあっという間に執務室についてしまった。今はまだ南草は瑠璃の近侍ではないためここで別れることとなる。瑠璃は何か言いたかったが、星天公子から臣下への言葉は基本、特に何か国のために良きことを行なった者にのみ与えられるもの。
(ここで贔屓はいけないわ。私は星天公子よ。瑠璃ではない)
「それで要件とは?」
「はい。今後の会食などの同席についてです。近侍の三国殿を差し置いて自分が横に立つのはどうかと思いまして。婚姻を結んで正式に宰相になるまで控えさせていただきたくお願いに参りました」
(南草もギリギリまでは私と距離を空けたいというわけね。まあ。その方が都合がいいのだけれど)
「わかりました。ではそのように手配しておきましょう。他には?」
「いえ。それだけです」
「では下がりなさい」
「はっ。御前を失礼致します」
南草がそう言って頭を下げている間に瑠璃は執務室に三国を連れて入って行った。
振り返りたかったが三国以外の目もあったため、それもできず。もやもやした気持ちで執務机に座り、今日の分の書類仕事に取り掛かった。
「ねえ三国。南草はなぜあんなことをしたと思う?」
順番待ちをしていた官吏の波が落ち着いて少し休憩をとっていた時、瑠璃は三国に尋ねた。
「それは…私の口からは何も申し上げられません。ただ…そうですね。1ヶ月後の婚姻が終わったらきっと何かが変わるでしょう」
南草は幼い頃から仕えてくれている誰よりも信頼できる従者であり、密かに兄のように思っている男だ。
そんな彼からの言葉は素直に聞くことができた。
「そう…そうね。まだ1ヶ月先だもの。私は今日の業務が終わったからこれから書庫に篭ります。この後、予定はなかったわよね?」
「はい。ご安心ください。では後の処理は俺が片付けておきます。今回は国庫の禁書の棚をご覧になってはいかがでしょうか?星天公子になったらあそこは自由に閲覧が可能になる場所ですので」
禁書。それは一般の者。たとえそれが王族の血を引いていても閲覧することができない。唯一星天公子のみ閲覧が許された禁書中の禁書だった。
(そこに秘匿されている情報にもしかしたら南草を救うヒントが隠されているかもしれない)
瑠璃はそう思うと軽く昼食を済ませて博物館並みに広大な書庫の一番奥。星
天公子が受け継ぐ首輪についている飾りを鍵穴に嵌め込むと今まで硬く閉ざさされていた禁書のコーナーの扉が開く。この中に護衛どころか従者すら入ることを禁じられているため、シンと静まり返った書庫の中は静寂に包まれていた。
「まずは片っ端から読んでいくしかなさそうね」
ポツリと呟いてまず最初に一列目の一番端の本を手に取る。それは…いわゆる房中術の指南書で瑠璃はすぐに本を閉じて棚にしまった。
(なんなの!?いきなりすごい本をひいてしまったのだけど!?)
瑠璃は赤くなった顔を手で覆って呼吸を整える。
(この棚はよくみたら房中術の本ばかりだから飛ばして良さそう…)
そう考えて次の棚から本を引き出す。そこには子育ての指南が書かれていた。赤子の世話の仕方が事細かに書かれていて、これは見るだけで微笑ましかった。他の本はうっすら塵が積もっていたがこの本は綺麗なまま。きっと母が瑠璃を育てるために何度も読み返したのだろう。瑠璃はその事実に気づいて涙が溢れてきた。
今の力は母の命を削って得た力。そしてそれを追って死んだ父の願い
(絶対に無駄にしない。時間は限られているけれど、私は誰がどう言おうと運命に抗ってみせる)
今朝の南草を思い浮かべた。自然に握られた手の温もりを思い出して涙ぐむ。あの時は立場があったからああ言ったが、本当は嬉しかった。もっと手を繋いで欲しかった。
ただ。不思議だったのは、南草はもう私に興味がないはずなのになぜあんなことをしたのかということ。
(南草も私に気持ちがないのに…なぜなの?)
禁書の並んだ広大な棚を見ながら瑠璃はため息をついた。