時計店のおじさんが僕を優しく見つめて話す。
「婚約すればエンゲージリングを買いに来る。そして婚約返しに女性から男性へは腕時計が贈られることが多くてね。一緒に見に来るんだよ」
――そうだ。宝石店に来る男女の話を聞いている所だった。おじさんのことばかり見ていてすっかり忘れていた。
「プロポーズの時に箱を取り出して結婚してくださいっていうのはないのですか?」
「彼女の指のサイズを把握しないといけないからね。それに指輪のデザインは好みのものを自分で選びたい女性の方が多いかな」
「なるほど……」
僕は一生懸命メモを取った。
「熱心だな。恋愛小説かい?」
「はい……でも僕、恋愛経験がないのです」
「へぇ……意外だな」
「これまで身近な人を好きという気持ちになれなくて……友達として付き合いたいとは思うのですが、その……キスしたいと思えないのです。それ以上のことも」
「なるほど。でも書きたいのは恋愛小説か」
「はい、ドラマや漫画は楽しめるのですが現実世界だとどうもうまく考えられないのです。もともと文章を書くのが好きなので、ヒューマンドラマを書いていました。だけどある日、素敵な恋愛小説を書くユーザさんをサイトで見つけたのです。その人ともっと交流したくて僕も恋愛小説に挑戦し始めました」
時計店のおじさんにここまで喋ってしまって僕は急に恥ずかしくなり、俯いてしまった。
「いいね。素敵な恋愛小説を見て自分も書きたくなるなんて――その作者さん喜んでいるよ」
「はい、今朝もメッセージを送りました。『君の笑顔も涙も全て僕のもの』というところが気に入っているって」
僕がそう言った途端、おじさんの作業の手が止まった。ゆっくりと身体ごとこちらに向けて僕の方を見つめる。またおじさんに見つめられて、そして心地良い香りまで漂ってきて僕の胸の奥がトクンと鳴った。
しばらくして、おじさんが僕の目を真っ直ぐに見て言った。
「その小説、俺が書いたんだよ」
――――え?
あの美しくて色気もある恋愛小説。この文章を書いたのがおじさんなの……? 繊細で美しくて読む人の心を豊かにするような書きぶり。
メッセージのやり取りも丁寧で、優しくて温かいものばかりで僕は――いつもあなたのことを考えていた。
「本当……ですか?」
「君はもしかして『メンダコの趣き』さんかい?」
「そうです! 僕です! あなたは――」
「真珠の涙だ」
「……っ!」
僕は驚きのあまり手で口を押さえる。
「だよなぁ。俺みたいなイカついのがああいうの書いているのだから」
「ぼ……僕……ファンですっ……嬉しい……」
真珠の涙さんがこのおじさんであれば――納得できる。
「ずっと憧れていました。僕は誰かを愛した経験がないけれど、真珠の涙さんが書く恋愛小説はどれも美しくて感動しました。いつか僕もあなたのような恋愛小説を書きたい。そしてできるならああいう恋愛をしたいと思って練習を始めたんです」
「そこまで言ってくれて嬉しいよ。俺は好き勝手書いているし、フォロワーだって少ない。いつも『メンダコの趣き』さんが応援してくれて、たくさんメッセージをくれたからここまで書いてこられたんだよ」
おじさんが穏やかな笑顔を見せる。立派な身体つきに渋い色気、ほのかに漂う香り。どうしてだろう、こんなにドキドキするのは。
――抱かれたい。
そう思うのに時間はかからなかった。今朝読んだばかりの『この温もりが永遠でないと分かっていても、今はこの姿であなただけを包みたい』といった文章が浮かんできて僕は身体が熱くなってくるのを感じた。
このおじさんが僕を包んでくれたら。
その視線に包まれるような感覚。
鼓動がますます速く波打つ。
頭がぼんやりしてきて、立っていられない。
バタン
「おい! しっかりしろ!」
※※※
気づいた時には僕は広いベッドの真ん中にいた。隣におじさんがいる。外はもう真っ暗だ。
「気づいたか?」
「あ、ごめんなさい」
お店で意識が遠のいていったのだっけ。おじさんが僕を自分のマンションまで抱えて連れて来てくれたようだ。そういえば何となく心地よく揺られていたような気がする。
「そうだ。時計の電池交換できたぞ」
「ありがとうございます」
「小説書いてるんだろう? 疲れが溜まってたんじゃないか?」
それもあるかもしれないけれど。
――あなたに抱かれたことを考えてしまったのです、なんて言えない。
「熱はなさそうだな」
おじさんが僕のおでこに手を当てる。顔が近すぎて僕の心臓が飛び上がりそうだ。
「僕……何かおかしい……」
「ん? 体調が悪いのか?」
違う……おじさんの部屋で2人きりで……しかもおじさんの格好がぴったりとしたタンクトップ一枚だから余計にドキドキしてしまうんだ。
隆々とした身体中の筋肉が僕を誘う。そしてゾクゾクするように全身が熱くなってくる。
「僕……身体が熱くて……どうしよう……」
「大丈夫か?」
「あの……お願いがあるのですが」
「ん? 水でも持ってこようか?」
「じゃなくて……」
こんなこと頼んだら、変だと思われるかもしれない。それでも今、この胸のざわめきをどうにかしたい。
「僕を……抱き締めてください……!」
「えっ……」
おじさんは驚いたが、ベッドにあがり僕のことを優しく抱き寄せてくれた。汗と香水のようなものが混じったいい匂いがする。僕を包むような大きな身体に逞しい腕の筋肉。どうしてうっとりしてしまうのか。
「心地いいな……」
「そうか――もしかして君が興味を持つのは女性ではなくて、男性かもな」
「えっ……」
「今どういう気持ちか?」
どういう気持ちだろう……時計店のおじさんの筋肉ある色気に包まれて抱かれてずっとこのままでいたい。
「おじさんと……こうしていたいよ」
「フフ……やっぱりそうだったんだな」
おじさんはどこまでも優しい目で僕を見ていた。
「大丈夫さ。初めての気持ちは、戸惑うものだから」
その笑顔を見てまた僕はトクンと音が鳴るのを感じた。
「名前、聞いてなかったな」
「僕は……
「俺は
薫さん……本当にいい薫りがしそうな名前だ。
「ゆいって呼んでいいか?」
僕は顔を赤らめてこくりと頷く。
「か……薫さんっ……」
「ゆい……」
薫さんの顔が目の前にある。
僕はこのまま――どうなってしまうのだろう。