その日は時間も遅かったので
――まさかこんなことになるなんて。
真珠の涙さんはあの時計店のおじさんだった。
その事実は僕の気持ちをどれほどまで熱く、そしてどれほど高いところまで突き抜けて行くのだろう。
色々と思いながらも今日はたくさん考えてしまって疲れたのか、僕は気づけば眠りに落ちていた。
※※※
「おはよう、ゆい」
「……っ!」
「フフ……何驚いてる。よく眠れたか」
「そ……それはっ……」
薫さんの上半身は素肌に黒いジレ一枚だけ。
ジレだから前が全開で、薫さんの胸元や腹筋の割れ具合までが目の前にある――立体感に溢れる肉体の全て。
それ以外何も目に入らない。
「薫さんっ……何ですかそのっ……」
「ん? あ……先にこれを着てしまったな。うっかりしてた」
いや……そこ間違えるの? どう考えても僕に見せたかったんじゃ。いけない、人間誰でもうっかりすることはある……うん、ある。それでもジレを素肌に着る人なんてやっぱりいないと思う。もうどっちかわからないよ……。
「先にシャツ着ないとな」と言いながら薫さんはチェストから白のTシャツを出し、僕の前でジレを脱ぐ。
「……っ!」
薫さんの上半身があらわになる。
肩幅が大きく胸元の筋肉が盛り上がり、腹筋までの全ての山々が僕を誘うかのようにこちらを見ている。そして前から見た姿以上に背中の筋肉がくっきりと浮かび上がり、その逆三角形に僕は目眩がする。
――今すぐ僕を抱いて。
そう言いかけそうになったが、薫さんはすぐにTシャツを着てその上からジレを羽織った。
何だったんだ、今の一連の流れは。
「ゆいも着替えるか?」
「えぇっ……!?」
「さっきから驚きすぎだぞ?」
「だって……だって……」
そうだ。昨日はパジャマ代わりにTシャツとハーフパンツを薫さんから借りて着ていたんだ。薫さんはとにかく大きいので、僕にはかなりブカブカだった。ブカブカすぎてハーフパンツは今――
――布団の中で脱げてしまっているなんて言えない。
顔を真っ赤にした僕を見て薫さんは「ゆっくりでいいからな」と言って、僕の頭を撫でてくれた。そしてベッドから離れようとした薫さんは何かに気づいてしゃがむ。
「……フフッ。脱げてるぞ」
薫さんの手には、あのハーフパンツ。
「あ! 嘘……! そこに落ちていたんだ……やだ……恥ずかしいよ」
僕は布団を頭まで被って隠れる。
穴があったら入ってしまいたい。
何ならこのベッドと一体化したい。
ん? そうしたら毎日薫さんがっ……!
その時だった。
「おっとゆい……隠れるのか?」
薫さんが布団を勢いよく剥ぎ取ってしまった。
僕のボクサーパンツ姿を思い切り見られる。
そんなに見ないで……いや、もっと見て……じゃなくてもうわからない。
「うぅっ……すみません薫さん」
「謝ることないさ、俺の方こそサイズ合うものが用意できなくてすまなかったよ」
「いや……いいんです。僕は薫さんのハーフパンツが」
――これ以上は言えなかった。
※※※
朝食を一緒に食べると体調も落ち着き、僕は自宅に戻った。昨日からの出来事全てが夢のようだった。ベタだけど頬をつねってみたら普通に痛かったので、現実であることはすぐにわかった。
「早速書こうかな。僕の恋愛小説を」
机に向かってノートを広げたが……すぐに閉じた。ノートなんかなくたって、あれだけの出来事があったんだ。すぐ文字に起こせる。
僕は今までにないぐらいに夢中になって執筆を進めていた。薫さんへの想い。薫さんの横顔、胸元、背中、身体、ジレ、ハーフパンツ……24時間経っていないのに文字数だけは3日間の出来事になりつつある。
「この想い――届け」
薫さんへ向けた僕の気持ちは誰かに繋がるだろうか。
できれば「真珠の涙」さんに直接見てもらいたい。
※※※
(薫の視点)
ゆい……可愛いかったな。
まさか自分の家に泊めてしまうとは。
よく酔い潰れた奴が来るから慣れてはいるが、彼は俺のことが好きなようだ。
初めてだ――同性相手にこのような気持ちを抱くのは。
だからこそ戸惑った。しかも相手は学生だ。
彼は俺の身体ばかり見ていたような気がするが、何故か嫌じゃなかった。むしろ、透明感のある彼の素肌が美しく感じて触れたくなったぐらいだ。
抱き締めると柔らかくて愛おしく思った。頭を撫でるとさらさらの黒髪に「綺麗だ」と言ってしまいそうだった。父親のような気持ちなのか、それとも本当に俺も彼のことを心から好きになったのか。
今日は時計店に別の従業員がいる。久しぶりの土曜休みだ。早速ジムへ行く。
本日のメニューは……ラットプルダウンで背中を強化だ。広背筋の逆三角は俺の全て。まぁこの年なので無理はできないがバタフライマシンにも寄っておくか。
「よぉ薫」
いつもの元気な声が聞こえてきた。
彼は俺と同年代の筋トレ仲間、
「あとでベンチプレス、勝負しないか?」
「倫太郎……またかよ。仕方ないな」
「140キロまでもう少しだぜ? 俺たち」
「どうだか」
倫太郎も俺と似たような体型なのでベンチプレスの勝負相手にぴったりだ。
結果は――いつも通り2人とも120キロで限界である。
※※※
ジムから帰ってからまた考えてしまう――ゆいのこと。
「俺も今日はちゃんと書くか」
午後の眠くなるこの時間にあえてPCへ向かい、まずはいつもの投稿サイトを見た。まさか「メンダコの趣き」さんがゆいだったとはな。
そう思いながら彼のページに飛ぶと新作が公開されていた。
「これは――俺のことか?」
時計店での描写、一晩自分の家で過ごしたことが詳細に記載されている。ただ出来事を書いただけではない。彼の気持ちがその文章にすべて表れていた。
俺の心に届いてほしいその気持ちに、心の奥底から熱いものが込み上げてくる。
――俺だってゆいのことを想っている。
気づいたら彼の作品にメッセージを送っていた。
「私も同じ想いです」と。