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第3話 木蓮

 閉じた瞼に、LEDライトの残像が残る。後頭部の微かな痛みに気付いた百合子は、恐る恐るその場所に触れてみた。小さな膨らみを指先に感じたが、大怪我ではなさそうだ。あの高さから転がり落ちて、よくこの程度で済んだものだ。日頃の行いが良かったのだと、口煩い母親に自慢しようと思った。深い闇の中で、電車のベルの残響が遠ざかり、代わりに湿った土と木蓮の香りが鼻をついた。百合子が薄っすらと目を開けると、そこは病院の白い天井ではなかった。


(な、なにこれ!)


 百合子が見上げた天井には金箔が貼られ、色鮮やかな藍色に白い木蓮と鳳凰が描かれた天井画があった。彼女は目を白黒させると、ゆっくりと辺りを見回して見る。襖にも金箔が貼られ木蓮の花が白いランプのように浮かび上がっていた。欄間には天女が笛を吹き羽衣をなびかせている。欄間の天女の笛の音に、遠くで馬の蹄の響きが混じるようだった。百合子の口の中は緊張で渇いた。


(これは夢!意識不明の重体の私が見ている夢!)


 百合子は自分を納得させようとしたが、確かに後頭部には瘤が出来ている。百合子は絹地の布団から起き上がると胸に触れた。彼女は上質な手触りの白い寝巻きを着ていた。手は白魚のようで儚げで、触れた頬は白桃のような柔らかさと弾力があった。振り向くと、鏡台がある。彼女は四つん這いになると部屋の隅の鏡台へと向かったが、手のひらと膝に畳を感じた。


 西陣織の掛け布をハラリとめくると、そこには百合子ではない女性が驚きの表情でこちらを凝視していた。長い黒髪が絹のように流れ、琥珀色の瞳が自分を映している。


(誰、このお姫様は!?)


 百合子は思わず背後を振り向いたが誰もいなかった。心臓が早鐘のように鳴り、知らない身体に閉じ込められた恐怖が込み上げた。すると障子に人影が映った。百合子は身構え、部屋の隅でうずくまった。人影は腰を屈め正座をすると、優しく落ち着いた声で彼女に話し掛けた。


「お目覚めになられましたか?」


 声色から、年配の女性であることがわかった。


「・・・は、はいっ!」


 障子は音を立てることなく開いた。そこには、かすりの着物を着た老婆は、シワだらけの顔に穏やかな微笑みを浮かべ、白髪を簡素な髷に結い上げていた。猫背の彼女は正座をして百合子に微笑み掛けた。お加減はいかがですか、と問われ、やはり自分は怪我をしたのだな、と百合子は納得した。いや、納得は出来ない。自分が自分でないのだから、この非常事態をなんとかしたい。


「あの・・・・」

「なんでしょうか?」

「私って、誰ですか?」


 すると老婆は顔色を変えた。猫背はどこにいったと言わんばかりの勢いで立ち上がると、慌てて廊下を走って行く。百合子が障子の外を見ると、中庭には立派な石灯籠と錦鯉がゆらゆらと泳ぐ池があった。鹿威しの音が部屋に鳴り響いた。


カコーン


 しばらくすると、先ほどの老婆と白衣を着た年配の男性が慌ただしく百合子の寝ていた部屋に駆け込んで来た。白衣の男性は、時代物の袍のような衣をまとい、黒い鞄から聴診器を取り出して難しい顔をしている。老婆は、先生!いかがですか!と詰め寄り、医者は腕を組んで唸った。


「睡蓮様の”治癒の力”で一命は取り留められましたが、木蓮様は混乱されているようですな」


 医者はファンタジーなことを口走った。映画かなにかの撮影か?老婆はその場に泣き崩れ、アカデミー賞も驚きの迫真の演技をしていた。百合子にはなにがなんだかさっぱり分からなかった。


「あの、良いですか?」


 百合子はおずおずと手を挙げ、絶望の表情の老婆と医者の顔を交互に見た。


「なんでしょうか、木蓮様」

「木蓮って私のことですか?」


 老婆の目から涙が溢れ、唇を噛んで袖で顔を隠した。


「木蓮様でございます!あぁ、梅子のこともお忘れですか!?」

「梅子って、どなたのことでしょうか?」


 なんとなく予想はついたが、百合子は念の為に尋ねてみる。案の定、目の前の老婆はシワの目立つその手で百合子の指先を握り、涙を流した。


「わたくしが梅子でございます!木蓮様の乳母でございます!」

「あー・・・梅子さんね」

「違います!梅子、梅子とお呼び下さいませ!」


 この勢いからして、木蓮とやらはどこぞのお嬢様らしい。百合子、いや木蓮が頭をポリポリと掻いていると、廊下の奥から衣擦れの音がして、一人の女性が現れた。その女性は木蓮に瓜二つだった。華やかな水色の加賀友禅の振袖に白い睡蓮が咲き、琥珀色の瞳が静かに木蓮を見つめた。姉妹というにはあまりにも似すぎ、まるで鏡に映るもう一人の自分だった。


「あら、木蓮。起きていて良いの?」

「は、はい」


 木蓮は唾を飲み込んだ。


「あの、すみません」

「なぁに、お姉様」

「私の名前は木蓮で、あなたの名前は・・・なんと」


 その女性はクッと小馬鹿にしたように笑うと、木蓮と同じ琥珀色の瞳で軽蔑の眼差しを投げた。


「睡蓮よ、あなたの双子の妹の睡蓮。忘れちゃったの?」

「あー・・・すみません」

「どうしちゃったの?馬から落ちて、おかしくなってしまわれたのね。可哀想なお姉様」


 睡蓮は高笑いで部屋から出て行った。その後ろ姿を見送った木蓮は眉間にシワを寄せた。気分悪っ!察するところ、睡蓮は木蓮のことを好ましく思ってはいないようだ。木蓮は心の中で毒づいたが、双子の妹の存在に胸がざわついた。


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