息の詰まる夕餉を終え、木蓮は縁側で湿った夜風に吹かれていた。現在が西暦何年の何月何日か分からない。いや、不思議な”力”が存在する時点で、この村は百合子からすればファンタジー、空想や夢の世界だった。瞼を閉じて耳を澄ますとコオロギや鈴虫の鳴き声に癒された。すると虫の音が止み、玉砂利を踏む足音が近付いて来た。木蓮が身体を強張らせ暗がりに目を凝らすと、一人の青年の姿が浮かび上がった。
「木蓮さん」
それは記憶の奥深に眠る、恋しい人の声だった。
「孝信さん」
孝信は月見草を手に、丸眼鏡の奥の瞳を細めて微笑んだ。簡素な袴から覗く剣の鞘が、月明かりにキラリと光った。はい、これ。と差し出された月見草を木蓮が受け取る時、指先が触れ顔を赤らめた二人は弾かれるように離れた。百合子にしてみれば初めての恋、いや、婚約者だった。
(彼氏いない歴二十四年に、婚約者はハードル高いってー!)と心で叫んだが、孝信の温かい手に木蓮の記憶が疼き、百合子は混乱した。
孝信は木蓮から少し離れて縁側に腰掛けた。
「馬から落ちたと聞いて、驚きました」
「私も驚きました」
木蓮は舌をペロリと出すと頭を掻いた。孝信は木蓮に向き直ると彼女の手に手を重ね、真剣な表情で語りかけた。指先から温かい血潮を感じた。木蓮さんが生きていて良かった、その目は僅かに潤んで見えた。木蓮は彼の熱い視線に耐えられず、思わず目を逸らした。
「父から縁談のことを聞きました」
「ごめんなさい、こんなことになってしまって」
孝信は木蓮の手を両手で握り、胸に抱き留めた。突然の出来事に木蓮は驚き、心臓が高鳴った。
「僕は木蓮さんが良いのです」
「・・・・え」
「木蓮さんに”治癒の力”がなくても構いません。父を説き伏せてあなたを迎えに来ます」
「孝信さん、良いんですか?叱られますよ?」
百合子はテレビドラマで聞いたセリフを並べたが、恥ずかしさに耐えかねこの場からダッシュして逃げ去りたかった。だが、孝信の腕の力は強く、木蓮を抱きしめた。お互いの心臓の音が重なり、耳にうるさかった。
すると彼は木蓮の顎を優しく上げ、顔を近付けた。(おーい!初めてのキスがファンタジーの住人かーい!)百合子は毒づいたが、孝信の唇が重なった瞬間、木蓮の恋心に胸が締め付けられた。百合子は(社畜人生で恋なんて無縁だったのに、この恋を守るにはどうすればいい!?)と頭をフル回転させた。
「睡蓮は孝信さんとの縁談を楽しみにしています」
「僕には木蓮さんしかいない」
もう一度、二人が唇を重ねた時、村の向こうの山が動いたような気がした。影の輪郭に、烏のような羽と鋭い目が一瞬だけ月光に映った。それを初めて見た木蓮は背筋が凍り、悍ましさに身を震わせた。
「孝信さん、あれはなに?」
「それも忘れてしまったの?」
「ええ、あれは鳥なの?すごく大きいわ」
木蓮は初めて見る奇怪な存在に息を呑んだ。
「あれはクスノキの森の、天狗様だよ」
「天狗・・・妖怪なの?」
「神様だよ、村の人たちからは天祥様と呼ばれているんだ」
山から響くけたたましい鳥の鳴き声と共に、黒い翼のような影がクスノキの森を飛び回った。それは、村の神話に語られる天祥様そのものだった。天祥様の鳴き声が響くたび、木蓮は心の奥でざわめく不安を感じた。あの叫び声は、彼女の運命と繋がっている気がした。
リーリーリー
虫の鳴き声が響く庭の片隅で、仲睦まじい二人を窺う目があった。髪を振り乱した睡蓮だ。握った手は爪が肌に食い込み、噛んだ唇は血が滲んでいた。目は激しい憎悪でギラギラと光っていた。
(木蓮、許さない・・・!)
その時、睡蓮は何かを思いついたように含み笑いをした。彼女はクスノキの森を睨みつけ、いやらしく口を歪めた。睡蓮の頭に、天祥様の力を借りて木蓮を村から追放する計画が浮かんだ。クスノキの森に眠る古の儀式が、その鍵になるはずだった。