エルドリアの街に、再び静寂が戻り始めていた。大時計台からの不協和音は止み、狂った時間の流れも徐々に修正されつつある。しかし、夜空にはまだ不安の余韻が漂い、市民の疲労は隠しきれない。魔法省の警備兵も、ようやく重い息をつき、事態の収束を喜び合った。
だが、アメリア、ルナ、ガウス警部、セドリックの胸中には、新たな謎への確信が深く刻まれていた。オペラが去り際に残した、あの「奇妙な歯車」。
アメリアは細心の注意を払って歯車を回収した。それは、大時計台に設置されていたどの歯車とも異なり、見るからに古代の様式を持っていた。触れると、指先に微かなざらつきと、何とも言えない奇妙な感覚が伝わる。まるで、その小さな塊の中に広大な空間が閉じ込められているかのようだった。
「これは……大時計台の歯車とは全く異なる素材と構造よね。まるで……時間そのものを閉じ込めているかのよう……」
アメリアは、歯車をまじまじと見つめながら呟いた。羅針盤の紋様と酷似した意匠が、その歯車の中心に彫り込まれている。それは、羅針盤と同じく、時間に関する特殊な力を持つ魔導具の一部であると強く示唆していた。
セドリックが苛立ちを抑えきれない様子で尋ねる。
「なぜ、あの怪盗オペラは、こんなものをアメリア殿に置いていったのだ?」
アメリアは歯車を分析装置にかける準備をしながら、静かに答えた。
「さぁ?でも、もしかしたらオペラは、私たちに何かを伝えようとしている……?それとも、試しているのかしら?彼女は羅針盤の力を使いこなしている。この歯車も、その力の新たな一部なのかもしれないわ」
彼女の頭の中では、羅針盤、この奇妙な歯車、そして図書館で見た「光る眼」、失われた禁書が、複雑な網目のように繋がり始めていた。すべてが、何か大きな「時間」に関する謎に繋がっている。
オペラは、ただの怪盗ではない。彼女は、この世界の「時間」の根源に迫ろうとしているのかもしれない。アメリアはさらなる調査を進めることを決意した。
翌日の午後、アメリアはルナを伴って、喫茶店「時の砂時計」を訪れた。昨夜の騒動の余韻が残る街とは裏腹に、店の中は穏やかな空気が流れている。コーヒーと古い本の混じったような、懐かしい香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
店に入ると、明るい笑顔で出迎えてくれたのは、店員のクレアだった。彼女はいつも通り、手際よくテーブルを拭き、アメリアとルナを席に案内する。クレアは、まるで昨夜の騒動などなかったかのように落ち着いた様子で立ち振る舞っていた。
「いらっしゃいませ、アメリアさん、ルナさん。昨夜は大変でしたね。街の時計がみんな狂ってしまって……あ。とりあえずアイスコーヒー2つでいいですか?今お持ちしますね!」
クレアの声は優しく、その表情には街の人々を気遣う気持ちが表れていた。アメリアは、エレノアに相談するため、昨夜回収した「奇妙な歯車」をテーブルに出そうとした。その時、クレアが運んできたアイスコーヒーのトレイを置きながら、アメリアが持つ歯車に強い関心を示した。
「あら?アメリアさん。その歯車、とても珍しい形をしていますね?なんか、この前話していた禁書?の紋様に似てますね!」
クレアの瞳が、歯車の細部に吸い寄せられるように見入る。その視線は、単なる好奇心ではなく、まるでその複雑な構造を解析しようとしているかのようだった。アメリアは、クレアが禁書や羅針盤の紋様と酷似した意匠に気づいたことに内心驚きながら、歯車の由来を簡潔に説明した。
「ええ、これは昨夜、大時計台で怪盗オペラが残していったものなのよ。大時計台の歯車とは明らかに異なる古代の様式で……どうやら、時間に関する特殊な力を持つ魔導具みたい。まだ詳細は分からないけど」
アメリアの説明を聞くと、クレアは歯車をそっと手に取った。彼女の指先が、歯車の表面を滑らかに撫でる。その仕草は、まるで古の魔導具を扱う研究者のようだった。
「なるほど……この金属の組成、そしてこの紋様……確かに、エルドリアの現行の魔導技術とは全く異なる様式ですね。特に、この歯車の歯の形状……通常の歯車のように等間隔ではない。これは、特定の魔力や電磁波の波長に合わせて、微細な『時間の摩擦』を生み出すための構造に見えますね?」
クレアの言葉に、アメリアは驚きを隠せない。彼女が推測していた古代の素材や、歯車の構造、さらには内部に込められた魔力の特性について、クレアは的確な質問を次々と投げかけてくるのだ。その質問は、単なる好奇心から来るものではなく、技術者や魔導具研究者のような専門的な知識に基づいていることを示唆していた。
まさか、クレアさんがここまで……?彼女はただの店員ではなかったの……?
アメリアは、クレアの知識の深さに驚きを隠せない。隣で話を聞いていたルナも、目を丸くしてクレアを見つめている。
「……私の話していることがうつったかしらクレア?」
「え。エレノア様?」
「ほぼ毎日一緒にいると、無駄な知識ばかりついてしまいますね」
そう微笑みながらエレノアは言う。クレアは歯車をアメリアに返すと、再び穏やかな笑顔を見せた。
「これは、とても興味深いものです。アメリアさんがこれをどう解き明かすのか、私も楽しみです!」
喫茶店での会話を終え、アメリアとルナは工房に戻り、「奇妙な歯車」の本格的な解析を始めた。クレアの言葉は、アメリアにとって大きなヒントとなっていた。
「アメリア様どうかしましたか?」
「……クレアさんの言った通り、この歯車の歯の形状には、何か特別な意味がありそうね。ルナさん、この歯車の詳細な形状を、高精度スキャナーで記録してくれるかしら?特に、この微細な段差や角度に注目してほしいの」
「あっはい、分かりましたアメリア様!」
ルナは、アメリアの指示を正確に理解し、繊細な作業をこなしていく。彼女は以前よりも、実験器具の扱いに慣れ、アメリアの意図を汲み取れるようになっていた。スキャナーの光が歯車をなぞる間、ルナは集中してモニターに映るデータを読み取る。
「次に、羅針盤の紋様から読み取った電磁波の周波数を当てて、歯車の魔力反応を測定するわ。クレアさんの言った『時間の摩擦』という概念が、この歯車にどう影響するのか、探る必要があるし……」
ルナは、アメリアが調整する電磁波発生装置の隣で、魔力反応測定器を操作した。数値は刻一刻と変化し、そのデータはアメリアの解析に不可欠なものとなっていく。
アメリアは、ルナの成長ぶりに目を細めた。危険な大時計台での任務を成し遂げたこと、そして今回の精密な補助作業。ルナは、もはやただの助手ではなかった。彼女は、科学の道を孤独に進んできたアメリアにとって、かけがえのない支えになっていた。
「ん?何でしょうかアメリア様?」
「ルナさん、あなたのおかげで解析がとても捗るわ。本当に頼りになるわね」
「え?はっはい!アメリア様の、お役に立てて嬉しいです!」
ルナははにかみながら、嬉しそうに答えた。彼女の顔には、少し前まであった不安の色はほとんどなく、自信と充実感が満ちていた。
歯車の解析は、さらに深い謎の扉を開いた。歯車が羅針盤の紋様と同じ周波数の電磁波に反応すると、内部から極めて微弱な、しかし明確な時間の歪みが発生することが判明したのだ。それは、まるで時間を粒子のように分解し、再構築しようとしているかのようだった。
「この歯車は、羅針盤の力を増幅させるか、あるいは別の形で時間の操作を行うためのもの……?」
アメリアは、解析結果を前にして、眉根を寄せた。オペラの狙いは、ただの混乱では終わらない。彼女は、この世界の「時間」そのものに、何か決定的な変化をもたらそうとしている。その巨大な計画の全貌は、まだ闇の中だった。
だが、アメリアは、一歩ずつその真実へと近づいていることを確信していた。次のオペラの行動が、その謎を解き明かす鍵となることも。