「ふんふんふ〜ん♪ 夜の港は冷えるねぇ。血の巡りも悪くなるよ、ったく…」
花バァは星空の下、厚手のストールをぐいと首に巻き直し、ひとり倉庫街をそろりそろりと歩いていた。月明かりに照らされて、金ピカサングラスがやたらと反射している。
手には愛用のガラケー。ボタンを押す指は節くれているが、操作は手慣れたもんだ。録音モードも、ちゃんと使いこなしている。
(探偵なんて柄じゃないけどねぇ。……でも、鼻が利いちまうんだよ、こっちは)
ことの発端は、ナナちゃんの妙な様子と、どうにもキラキラしない星光石。
おまけにハルトが「海キラリで見たかも〜」なんて言うもんだから―
(こちとら駄菓子屋でもあり、町の目でもある。気になったら、見に行くしかないじゃないか)
商店街から外れたこの辺りは、昔ながらの倉庫や小屋が点在している。
その中で最近やたら目立つのが、この“トレーラーハウス”。
(観光協会の臨時拠点とか聞いたけど、どうも腑に落ちないね)
昼間は静まり返っているくせに、夜になると物音と人影が増える。様子見だけのつもりで、重ね着して港までやってきたのだ。
「……いやね。夜は足が冷えるよ。腰まで痛くなってきたよ」
自分にそう言い聞かせながら、トレーラーハウスの近くの古い木箱に腰を下ろす。
物陰からそっと様子をうかがうと、明かりの漏れる窓の向こうに人影が揺れていた。
「黒タグ分は裏に隠しておけ。表に出すな。あれは観光客用じゃねえ」
「了解ッス。パッケージ変えりゃバレませんって」
(黒タグ? パッケージ? ……これは、におうねぇ)
スッと思わず背筋を伸ばす。
サングラスの奥で、視線が鋭くなる。
そのとき—カラリ、と中のドアが開いた。
「……誰か、いるか?」
しゃがんだまま息を殺す。すぐに逃げたり転がったりはしない。背後にあった廃材をそっと足先でずらし、小さな音を反対方向に鳴らした。
「……猫か」
男が戻っていく気配を確認して、花バァはようやく、ホッと肩の力を抜いた。
(ああもう……肝が冷えた。腰も固まるわけだよ)
そのとき、ガラケーがブルっと震えた。
《おばぁちゃん、あの……最近、お店に変な人が来るんです。しかも……ブレスレットの件で……私……少し怖くて……》
ナナちゃんからだった。
画面の文字をじっと見つめながら、小さくうなずいた。
(メールじゃオーラは見えない。けど、言葉の隙間に染みるもんは、あるよ)
メールから伝わるのは、ナナちゃんの不安と躊躇い。心の奥に小さく震える、黒い気配。
(ナナちゃんも、こりゃあ巻き込まれたね……)
再びトレーラーの方を見ると、サングラス越しに見えた男の姿が。
どこか見覚えがある。
いや、“匂い”だ。言葉じゃない、人間の放つ空気の記憶。
(……観光協会の……そう、大石!!)
その瞬間、足元の缶が転がった。
「誰だッ!?」
とっさに、近くの金属パイプを手のひらで叩く。
違う方向に音を飛ばし、身を屈めてそっと物陰から抜け出した。
(はぁっ……忍者映画じゃないんだから……)
息を整え、身体を起こす。小さな達成感と、腰の重さが同居していた。
ガラケーを開くと、録音はばっちりだった。
(ふふん。ガラケーだって立派な相棒さ。壊れても魂が残ってるのよ)
夜も更けた頃、ナナちゃんからもう一通。
《ごめんなさい、やっぱり……誰かに見られてたかも。怖くて、外に出られません》
しばらく画面を見つめ、それから静かにサングラスを外した。
(冷たい風が画面から吹いてくるようだよ……ナナちゃん、今ほんとにギリギリだ)
立ち上がり、膝を軽く叩く。ミシミシ鳴るが気にしない。
「さ、町のバァさんの出番だね。偽物に飲まれちまう前に、ひと肌、いや、三枚くらい脱いでやらなきゃ」
ガラケーを胸ポケットにしまい、ゆっくりと歩き出す。
「本物のキラキラってのはね……手間も気持ちもかかるもんだよ」
海風が、少しだけぬるくなった気がした。