「そういうわけにはいかねぇな」
ハヌマーンが言った。いや実際にはサーリハの翻訳だけども。
「とは?」
「料理人には、生物を殺す権能が与えられている。それには大いなる責任が伴う。わかるか」
「はぁ、まぁ料理人が頑張んないとみんな飢えて死んじゃうわけだし」
「故に、料理人は自分の店を持つか、他の料理人の下で働くのが義務だ」
「あ、無理っす」
即答した。
義務、義務ねぇ……。
いや仕事自体は楽しいよ? ゲイルはいいやつだし、客だってみんな面白いやつばっかりだ。
でも、ダメなのよ。
俺ってば、ひとところでずっと働くのに向いてないんだわ。
向いてないっていうか、無理。我慢してどうにかできるレベルじゃなくて、毎日同じことをし続ける回路が、俺の中にない。
しかし、ハヌマーンは笑顔のまま剣呑な目で俺を睨む。
「無理、とは?」
「自分、ゲイルの店でずっと働くつもりはないっす」
俺の言葉に、ゲイルが目を見開いた。
あ、変な誤解をさせたか?
「あっ、ゲイル、誤解しないでね。ゲイルのことは大好きだし、料理の手伝いだって楽しいよ? 客のみんなとも仲良くなれたしさ、なんの不満もないよ」
「ふむ? 続けろ」
「たださ、俺の魂の根源は旅人なのよ。ゲイルの店がどんなに居心地良くても、同じところに留まってたら、俺はじわじわ苦しみつづけて、しまいには死んじゃう。水の中じゃないと魚が死ぬのと同じかな」
「ふん、なら自分の自由になる店を持つならどうだ」
「もっと無理。調理技術なんてホントお手伝いレベルだし、そもそも出店費用どうすんの」
ゲイルのところでも、お給金が出てるわけではない。ゲイルは小遣いをくれようとするけど断った。
寝泊まりできる部屋を借りて、しかも3食昼寝おやつ付きだぞ。これ以上はバチが当たるわ。
つまり、今の俺は完全無欠の一文なし、スカンピンだ。
まぁいつも通りっていうか。
「その心配はいらん。新しい料理人が見つかれば、我々がサポートする。店を出すのに金は必要ない」
「いや、そーじゃなくて……」
「あるいは採取で生きていくって手もあるぞ」
「採取って、農業とか狩猟みたいなこと? もっと無理でしょ。俺、農家とか酪農家の人たちのこと死ぬほど尊敬してんだよ、だって俺じゃ絶対に不可能だもん」
農業や酪農は、料理人以上に土地に縛られる仕事だ。
つまり料理人以上に俺に向いてない。
てかそうか。生物を殺せるのが料理人である以上、肉は当然として野菜や果物も料理人が採取してんのか。
そういえば、ゲイルんちも木造だったし、そうなるとアレも料理人が伐採したものなのか。料理人とか言ってるけど、一次産業ほとんど全部じゃん。
……料理人の負担、デカくね?
「ハァ……いいか、ザジ。
ハヌマーンは笑みを深くして――怖いっつーの!――言った。
「生物を殺せるということは、つまり
「はぁ、まぁそうですね」
「そして、料理人が足りなくなれば、人は飢える。人口がこれ以上増えれば簡単に餓死者が出る。料理人はとても貴重な存在だ」
「そうですね」
「そんな中、自分の店を持つわけでもなく、人の店で働くわけでもなく、人を殺せる人物を――我々は野放しにできん」
「え、俺、人を殺したりしないけど」
「おそらくそうだろうな。だが、殺せるということ自体が問題なのだ」
いや、言いたいことはわかるけどさぁ……。
「それでも無理っすね」
俺は再度はっきりと宣言した。
選択肢すら出てこない。
無理というのは、「難しい」という意味ではなく、「できない」という意味なんだから。
もし旅をやめることになれば、俺は正気を保てない。
俺は、旅をし続けないと息ができないんだ。
でなきゃ、そもそもバックパッカーなんてやってない。
▽
日本にいた頃、高校から大学時代はとにかくバイトに明け暮れた。
旅行代を稼ぐためだ。
同じ場所で、同じことを繰り返し続けることに耐えられなくて、辛くて、逃げたくて――だから初めて海外に足を運んだ時の衝撃は忘れられない。
ああ、俺の居場所は、旅の中にしかないんだ。
そう確信した。
その後、大学を卒業して、世界中を回れるという理由だけで外資系の商社に就職して、実際にいろんな国を飛び回った。
でも、ダメだった。
ダメなもんはダメだった。
たとえそれが自分にとって楽しくて、目新しいものであっても――決められたルートで世界を見るという行為を、俺は続けることができなかったのだ。
仕事自体はやりがいがあった。
いろんな国に行けて、めっちゃ楽しかったよ?
友達も多かったし、日本という国と文化が大好きだった。
つまり、何か不満があったわけじゃないんだ。
それでも、俺の魂は「旅に出たい」と叫び続けた。
コントロール不能な衝動を意思の力で無理やり押さえつけようとし続けて――しまいには病んだ。
そんなこんなで、めでたくメンタルがぶっ壊れた俺はせっかく入った商社も退職。
抗うつ剤の副作用でゲロ吐きまくりながら体を引きずって、貯金とわずかな退職金をはたいて、それでも無理やりミャンマー旅行を敢行してみれば――なんとたった一日でスッキリ元通り!
わぁ、なにこれ!
息が、息ができるよ!
生きてるって素晴らしい!!
というわけで、俺は確証を得たわけだ。
旅さえ続けていれば、俺はいつだって元気いっぱい。
そのかわり、もし自由を失うと、俺は呼吸できずに死ぬんだと。
だから、俺は。
きっとそういう形に生まれてきた獣なんだ。
▽
「ダメだ」
しかしハヌマーンは首を横に振った。
「人に飯を提供できない料理人は料理人ではない。ただの殺人者予備軍とみなされる」
「はぁ、そうっすか。そもそも俺は料理人じゃないけどね。……じゃあどうなります?」
「我々『イェニチェリ』が処分することに――」
5. 目の前にあるナイフで自分の首を切り裂いて死ぬ
俺は目の前にナイフをサッと掴み、躊躇なく自分の首に走らせる。ナイフに手を伸ばした瞬間にハヌマーンがサーリハを守るために飛び込んできた。残念! 人を傷つけるのは嫌いなんだよね。俺がナイフを自分自身に向けたことでハヌマーンとサーリハが目を丸くする。てっきりひと暴れすると思った? 残念でした! 違うんだなー。逃げることもできず、万策尽きてじわじわ死ぬしかないことがわかった以上、俺はここで死ぬことを選ぶ。苦しんで死ぬのはごめんだ。あの苦しみをもう一度味わうのは死んでもごめんです。さっきのテンと同じだ。殺すなら一息に殺してやったほうがいい。無駄に痛いのとか、苦しいのが長引くのはちょっと。ハヌマーンは予想が外れたせいで一歩行動が遅い。俺の方が速いぜイエーイ。ナイフが首に到達。さっきちらっと見たけど、めちゃくちゃ鋭いナイフだ。日本刀とかとはまた違うタイプの鋭さっていうか、表面がテロッテロの鏡みたいになるまで研ぎ澄まされた分厚い刃。この手の刃物って日本の刃物とはまた違う切れ味なんだよな。刃が通ると一気に深く切れるんだよ。力を加えずとも自由自在に切れる日本の刃物とは全然違うっていうか。首にひんやり冷たい刃物の感触。グッと力を入れて頸動脈を
「あれ?」
俺の手と頭をゲイルが掴んでいた。
ハァハァと息が荒いし、なんかめっちゃ汗かいてる。
何? どうしたのよ。
ナイフは首に当たっている。が、どんなに力を入れてもびくともしない。
ゲイル、力強すぎじゃね?!
「ゲイル、どしたん?」
「おっ、おま、おまえ……っ!」
ゲイルは俺からあっさりナイフを奪い取って投げ捨てた。
おお! ナイフが壁に突き刺さった! 投げナイフって結構難しいんだぞ、さすがゲイル、器用だなー。
「……おいゲイル。こいつが
「……
「わぁ、すごい。何言ってるかわかるぅ」
ゲイルに掴まれたままの腕。万力かよ。握力100キロくらいあんじゃね?
「……サーリハ。ザジは本気で
「……アー。間違いなく。……びっくりした」
「……ヤベェな。どうなってんだこいつの頭ん中」
サーリハは本当に驚いたのか、目を丸くしている。
ハヌマーンの言葉から察するに、多分サーリハは人の心中を読み取るのが得意なんだろう。
「……ザジ。なぜこんなことを?」
ゲイルが鋭い眼光で問い詰めてきた。
んなこと言われても。
「サーリハ、翻訳頼める?」
「アー」
「いやぁ、ゲイルの店で働くにせよ、自分の店を持つにせよ、旅を捨てるってことになるだろ」
「だから?」
「そしたら、俺たぶん二、三ヶ月で狂って死んじゃうと思うんだよね」
「……理解できん。だからってあんな……」
「勝手に旅に出たりしたら、あんたたちに処分されるんだろ? ゲイルはいいやつだし、ハヌマーンも、サーリハもなんかいいやつっぽいしさ。そんなことさせらんないよ」
「……俺の、俺たちのためのつもりだったのか?」
「いや、どうだろ……わかんないけど」
「ザジ、お前、死ぬのが怖くないのか?」
「めっちゃ怖い! 死んだら旅が終わっちゃうじゃん、そんなことになったら俺死んじゃう! 死ぬほど怖い!」
ゲイルはハァ……と大きなため息をつく。
「ハヌマーン。俺にはこいつを扱いきれん」
「……だろうな」
「腕を掴んでるとよくわかる。こいつ、何も考えてない。脈拍が早くない……おそらく平常心なんだろう」
「はぁ?!」
「いやまぁ、飼い殺されるよりはマシかなーって……」
「……なんだこいつ。ガチでやべぇな……」
ハヌマーンは頭を抱え、ガリガリと頭を掻きむしった。
ちなみにハヌマーンとゲイルの会話はサーリハが律儀に翻訳中。
「おっちゃん、あんまり頭皮にダメージ与えると禿げるよ」
「ハヌマーン。ザジ×××、××××××」
「ちょ、翻訳しなくていいよ」
「……もう今この場で処分した方がいいんじゃないか、こいつ」
「そんなぁ」
「調子狂うな、こいつ」
ようやくゲイルが手を離してくれた。
「何もするなよ」というありがたいお言葉付き。
「こんなやつは初めてだ。俺の手にも負えん。ゲイル、お前とんでもないやつを拾ってきたな」
「……アー」
「ねぇ」
サーリハが片手をあげて、
「ザジ。あなた死ぬ、怖い、本当?」
「そりゃそうっしょ。自殺志願者とは真逆の位置にいるよ、俺」
「旅ができない、そんなに辛い?」
「サーリハは呼吸できなかったら辛い?」
「……なるほど」
「そりゃ死にたくないけどさ。死ぬほど死にたくないけどさ。みんなに迷惑をかけながら、じっくりと死んでいくのって最悪じゃん?」
ハヌマーンが「これで迷惑をかけてないつもりなのか……」と呟くと、ゲイルが「ザジ」と言って俺を見つめ、なぜかすぐ目を逸らした。
「……お前は可愛いやつだ。仕事も手早く、愛想も良くて客にも評判がいい」
「わーい、褒められた。サンキューゲイル!」
「えっと、つまりだな」
ゲイルは目を泳がせて、一つ咳払い。
「お前が死ぬと、俺は悲しい。だから馬鹿なことはしないでくれ」
「うぉう」
おおお、なんだこれ。なんだこれ。なんかめっちゃ嬉しい! ちょっとした殺し文句。うっかり落ちそう。いや髭の筋肉だるま親父は俺の好みではないけれど、こうして好意を示されるのは素直に嬉しい。
誰かを悲しませることは俺の本意ではないのだ。
だから俺も頭を掻きながら答えた。
「わかった。約束する。もうしない」
「そうか。……信じるぞ?」
「うん、ゲイルに嘘はつかないよ。あーあ」
どうしよう、選択肢が一つ減っちゃったよ……。