「あっちぃ」
行けども行けども近づいてる気がしない山を目指して歩き続ける。
ゲイルのいる街を旅立って、もう3日も経つ。
なのにいつまで経っても隣の街に辿り着かない……街と街はかなり離れているって話だったけど、いくらなんでも遠くね? 不便じゃね? 貿易とかどうしてんの?
とはいえ、ハヌマーンが「旅に出るなら、俺の馬を使うか?」って提案してくれたのに、「せっかくだから歩く」って断ったのは俺だ。文句を言う筋合いじゃない。
それに今回は食い物も水も潤沢にあるし、さっき川を見つけて水浴びもした。行き倒れてゲイルに拾われた時のことを考えれば超快適。
歩きはきついが、細っこくても男子である。健脚にだけは自信がある。嘘。足だけじゃなくて胃袋の頑丈さも相当なもんだと思う。かなり不衛生な飯とか食ってもほとんど腹壊さないし。
あと知ってる? 日本人が海外……たとえばインドとかに行くと必ず下痢するんだけど、逆にインド人が日本に来ても、やっぱり下痢する。他の国でも同じ。多分水の質とかが合わないんだろう。
でも俺、3年くらい世界中回ってるうちに、どこの国に行ってもお腹を壊すってことがほとんどなくなったんだよな。
ほとんど、ってことはたまには壊すってことだけど、旨いものや珍しいものを食うのに、そんなことは気にしてはいけない。
旨いは正義なのだ。
▽
今を遡ること十日前。
ハヌマーンが「沙汰を待て」と言ったあの日から数日経った頃、ゲイルの店にサーリハがやってきた。
あのアラビアンナイトみたいなエロい格好――なんなら「夜の蝶スタイル」のサーリハだが、なんとそのままの格好で店の裏まで来やがった。
ヘソとかめっちゃ見えてんの。
はしたないこと極まりなし。
びっくりしたわ。
「サーリハ?!」
「ザジ。ハヌマーンから手紙」
「えっ、俺文字読めないけど」
「……お茶」
「はいはい」
お茶を出すと、サーリハが封筒から手紙を取り出して、代わりに読んでくれた。
曰く。
▽
1. ザジをイェニチェリの幹部候補として認める
2. 本来なら5年以上功績を積み、厳しいテストを通過しなければ幹部候補にはなれないルールだが、特別任務を引き受けることを条件に特例を認める
3. ハヌマーンを寄り親とする。
4. 各街や国を巡り、料理人が謀反を起こしたり、義務を怠っていないかを観察し、もし不正を発見したらスマホで証拠を撮り、現地のイェニチェリ支部からハヌマーンに報告せよ
5. イェニチェリ幹部候補であることは秘匿せよ。また、可能性は低いがイェニチェリ支部自体が不正を働いている可能性もあることにも留意せよ
6. 秘匿について、ザジが職務上必要と判断した場合はその限りではない
7. 行き先をこちらが決めると発狂するとの報告により、行動の自由を認める。ただし、旅立つ前に目的地を報告せよ
8. 最低限の金銭は提供するが、基本的には自分で稼げ
9. スマホの存在は秘匿せよ。また、壊さないように注意せよ
10. 全て自己責任とする。ザジの行動に対して、イェニチェリと寄り親は一切責任を持たないものとする
11. 鍋をひっくり返す時は、全てに優先して料理人としての義務を果たせ
12. 数年に一度でいいのでラジャスに戻り、ゲイルに顔を見せろ
13. もしも俺の変顔写真を人に見せた場合は必ずぶっ殺す。なんならできる限り苦しめて殺す
▽
……などなど。
おい、一体何項目あるんだ。
ポツポツ意味がわからない箇所もあるし、考えるだけ無駄か。
「うわー」
「……ザジ、ハヌマーンに気に入られた」
「ありがたいこってす」
じゃあ殺すとか言うなよ。
あの顔で言われたら洒落にならんのよ。
「いつ、ここを出る?」
「そうだなぁ、一週間くらいしたら出るよ」
「ゲイルが寂しがる」
「俺も寂しいけどさ」
その寂しさがいいんじゃんか。
もし、去る時に少しも寂しくないってことは、そもそもそこが好きじゃなかったってことだ。
いい土地を訪れれば、別れは必ず寂しい。
つまり、寂しければ寂しいほどいい。
それも旅の醍醐味なのである。
「サーリハは? 寂しい? 寂しくない?」
「寂しくない」
「ほぉん」
「……こともない。それなりに寂しい」
おっ、デレた。
「そういや、ひとつ質問なんだけどさ」
「何」
「サーリハって男だよね」
「……よくわかった、すごい」
「いや、サーリハって男性名じゃん」
最初に名乗られた時からちょっと気になってたんだよね。
「なんで女の格好してるの?」
「女の格好、してない」
「あれ? そうなの? じゃあその格好は?」
「ハヌマーンの愛人、全員この格好。私だけじゃない」
「そういや、ケージ持ってきた兄ちゃんも同じような格好してたな……」
って、サーリハってハヌマーンの愛人だったのか。てっきり幹部なのかと思ってた。
そういや、テンを傷つけようとして自分で怪我してたっけ。
つまりサーリハは料理人じゃないってことだ。
「私、前世の記憶、ある。言葉も知ってる。ハヌマーンに便利。愛人になった」
「なるほど?」
「ハヌマーン、好み、もっと男らしい男」
あー……女性っぽいのが好きなら、そのまま女性と付き合えばいいもんね。
うわー、俺ハヌマーンの好みから外れててよかったぁ……。
俺? ちょい年上くらいの優しいお姉さんが好みです。
「…………」
「……何?」
「いや、ほんと女性にしか見えないなぁと思って。本当は二十四〜五歳くらいのお姉さんだったりしない?」
「しない。私、17歳。男」
「え!? サーリハって17歳なの!?」
えっ、サーリハって16ヶ国語くらい話せるって言ってなかったっけ?!
もしそうだとしたら、前世はどんだけエリートだったんだよ。
って、俺も17歳から勉強始めてギリ13ヶ国語話せるから、不可能じゃない……のか? でも全部カタコトっていうか、日常会話も厳しいっていうか、ボディランゲージ併用じゃないと全く通用しない。
サーリハみたいに翻訳とか絶対無理だわ。
やべーなこいつ……。
「そっかぁ……やっぱ男だったかぁ……」
いや、好みじゃないから別に残念ではないんだけど。
それに世界には女性より男性のほうが着飾る文化とかもいっぱいあるし、驚くには値しない。
「信じてない?」
「いや信じてるけど……まぁ、パッと見では女性に見えるね」
「おっぱい触る?」
「いえ、いいです……」
「じゃあ、おちんちん舐める?」
「何でや! いらんわ!」
前言撤回だ。どういう文化だよ。
びっくりしたぁ。
「冗談」
「そすか……。いや、そもそもそんな格好しなきゃいいじゃん」
「これは安全のため」
「は?」
「でないと、強姦魔に襲われる」
「……どういうこと?」
「……旅に出るなら知っておいた方がいい」
▽
そこから語られるサーリハの説明は衝撃的だった。
この世界では、他者を傷つけようとすると自分が傷つく。
他者を傷つけることはできず、必ず自分に返ってくる。
……という法則により、女性が襲われることはほぼ 100% ないんだそうだ。
実際には、手を出そうとして股間にもうひとつ穴が空いて悶絶死した男はいたそうだ。そんなやつ死んで当然だと思うけど、死に様が壮絶すぎるだろ……怖すぎる。
じゃあ男相手の場合はどうなるか。
もちろん、女性だろうが男性だろうが傷つければ自分に返るのは同じ――しかし、一部の酔狂な変態は、なんと
つまり、無理やり手籠にしても相手にはダメージが一切ないが、自分に返ってくるそのダメージこそが目的。それはそれはめくるめく強烈な快感なんだそうで……
「怖い!!!」
俺は悲鳴を上げた。
「だから、ハヌマーンは愛人には性別がわかりづらい格好をさせる。安全のため」
「怖い怖い、めっちゃ怖い……じゃあ、サーリハはそんなはしたない格好でも、襲われる心配はないんだ」
「はしたなくない。それに、この格好になってから一度も襲われてない」
「……なってから、ってことは、それまでは……?」
「何度か襲われた。体には何も影響ないけど」
「ないけど?」
「ものすごく気持ち悪い」
「ですよね!!!」
もうやだこの世界!!
地球帰るー!!
「ザジも、旅をするならこの服装おすすめ」
「嫌どす! でも、俺は料理人……ではないけど、殺す権能があるからなぁ……なんとかなる、かな?」
「襲われても体は何も感じない。無事。大丈夫」
「体の純潔は守れても、心の処女が守れない。論外」
俺、もし襲われたら、うっかり殺すかもしれん。
うわっ、パキスタンで俺を手籠にしようとした絨毯屋のおっさんのこと思い出しちゃったじゃんか……間一髪助かったけど、睾丸を蹴り潰した感触で自分のまでなんか痛くなって、ぴょんぴょん跳ねながら逃げたもんな。
「それはそうと、イェニチェリ支部から連絡って、どうやんの?」
「電話がある」
「電話あるの?!」
「ある。割符を差し込むと使える。あと、たまに
「ほーん」
「いつも人手が足りない。だからザジの存在は僥倖」
視察のときだけちゃんとして、見てないと好き放題する料理人もいるそうだ。
たしかに、まさか俺みたいなのが視察員だとは思うまい。素の姿を観察するなら適任だろう。
便利に使われてるなぁ、俺。
とはいえ、条件を見る限り「飼い殺し」「強制」といった俺のタブーを最大限考慮してくれてるっぽい。ありがたい話だ。
じゃあ、できる限りお役に立ちますか。
自分で決める分には、相手の都合に合わせるくらいはしますよ。
▽
ところで、商社時代に有給を取ってイランに行く予定を立ててたら、なんと出張先もイランだったことがある。
今まさに行きたかった国だから一瞬喜んだけど……それが「強制されて行く」という条件に抵触したせいでめちゃめちゃ苦しかった。
死ぬかと思ったもん。
同じ場所に同じ条件で行くにしても、自分で決めるか、強制されるかでこの差。
俺ってば、とことん社会人に向いてない。
▽
そんなわけで、ゲイルにお礼を言いまくってお別れをして、手始めに隣街へ向かうことになったわけだ。
しかしゲイルってば、実はめっちゃ涙脆かったんだな。
まさか泣かれるとは思わなんだ。
思わず俺まで泣いちゃったじゃないか。
きっとまた帰ってこよう。
帰る場所があるってのも、旅の条件のひとつだから。