ある春の晴れた日、クラウスは大きな産声をあげて生まれた。
母が笑いながら「三人の中で一番大変だったわ」と語るほどの、大きな赤子だった。
軍事の家系・アイゼンハルト伯爵家は、今なお武力を尊ぶ名門である。
世襲制ではない王国軍で、代々その頂点に立ち、戦場の最前線で国の安寧を守り続けてきた。
そんなアイゼンハルト伯爵家の三男として、クラウスは生を受けた。
クラウスは、話し始めるのも歩けるようになるのも早かった。
力も強く、好奇心旺盛。
見た目も祖先の特徴を色濃く引き継ぎ、父・クラウディウスが期待するのも無理がないことだった。
クラウスには二人の兄がいた。
六つ上の長男・クラディアンと、四つ上の次男・クラヴィスだ。
クラディアンは、年の離れた弟であるクラウスを、それなりに可愛く思った。
だがクラヴィスは、クラウスに向けられる期待を早くから察してしまい、複雑な気持ちを持っていた。
伯爵家を継ぎ、次に軍のトップとなるのは兄・クラディアン。
そして軍人として、アイゼンハルト家の人間として最も期待を寄せられているのは弟・クラウス。
そう感じ取ってしまっていた。
だからといって、クラウスをいじめるような真似はしなかった。ただ、関わり方が分からなかった。
長男は、そんな次男の心に寄り添った。――将来長男を支えることになるのは、次男だから。
クラウスは無邪気に兄たちを慕い、トテトテと後ろに付いて歩いた。
年の離れた兄の歩幅に付いていけず転ぶこともあったが、それで泣くことはなかった。
クラウスは感情表現豊かな子供だった。
絵本の読み聞かせをするとケタケタ笑い、わぁわぁ泣いた。一度読み聞かせをした話はすぐに覚え、「ここがすき!」と好んだ内容をそらんじることができた。
成長を考え、早いうちから読み書きを教えることになったが、クラウスは文字に興味を示さなかった。
文字を教えようとしてもイヤイヤと首を振る。
物語なら好きだろうと読み聞かせながら本を見せても、声を聞くだけで、目は文字を追わない。
指を掴み、文字を追わせながら話を聞かせても、瞳が正しく文字を追うことはなかった。
――クラウスは、ディスクレシア(読字障害)だった。
だけど、その特性を理解してくれる者はいなかった。
クラウスは次第に、お話を読む時間が嫌いになった。
ある日クラウスは、無理に本に向かわせようとした乳母を振り払った。
子供のささやかな抵抗のはずだった。彼に、大きな力さえなければ。
乳母は小さなクラウスに振り払われ、思い切り転び、軽い怪我をしてしまった。
クラウスはそれにショックを受けた。
優しいクラウスは、人を傷付けてしまったことに、傷付いたのだ。
それからは乳母に反抗するのではなく、ただ逃げ回るようになった。
勉強から逃げだしたクラウスは、広い屋敷の中を隠れながら散歩した。
そんな中、剣を振るう者たちを見かけた。アイゼンハルト家に仕える兵士たちだ。
アイゼンハルトは軍の家だ。彼らは本気で稽古をしている。
クラウスはそこに「混ぜてほしい」と言った。
兵士たちは、クラウスの脱走癖について耳にしていた。
しかし、幼少期は自分たちも同じようなものだった。少しくらいは気を晴らしてやってもいいだろうと考えた。
そうして彼らは、剣の握り方を教えてやった。もちろん木剣だ。だが、子供用の木剣はそこにはなかったので、大人用の物を渡した。
「坊ちゃんはまだ幼いから持てませんね。勉強をして、大きくなったら一緒に訓練しましょう」
そんなふうに言うつもりだった。
しかし、彼らの予想に反して、クラウスは剣を振ることができてしまった。
自由に伸び伸びと木剣を扱い、先ほど見ていた兵士たちの動きの真似をした。四つ上の次男・クラヴィスでもまだできないことが、できてしまった。
兵士たちは異様な才能を前に、呆然とするほかなかった。
この出来事を知った父・クラウディウスは、学問に真剣に取り組むよう、以前にも増して厳しく指導した。
アイゼンハルト家としての期待もあるが、それ以上に、力ある者はその使い方を知らねばならぬと考えたからだ。
勉学から逃げ回るクラウスを捕まえられる者はほぼいない。
乳母の件、そして剣を振るえてしまった件から、クラウスを思い切り叱れる者も、多くはなかった。
目の前の才能に、恐れも嫉妬も抱かず、ただまっすぐ向き合える者は少なかった。
自然と、クラウディウスが直接叱ることが増えた。
椅子に縛って机に向かわせることもあれば、地下の牢に閉じ込めることもあった。
それだけの厳しさが必要なほど、クラウスの才能は飛び抜けていた。
クラウスは、黙って本や授業に向かうこともあったが、隙があれば抜け出した。
父のように押さえ付ける者に対しては、ひどく反抗することもあった。机を叩き、大声を出し、全身で「文字が分からないのだ」と伝えた。
だけど、「文字が読めない」など理解されなかった。
ただの勉学嫌いの言い訳、子供の癇癪にしか思われなかった。
クラウスは根が優しくまっすぐだ。
大きな声を出すことや、物を叩くことあっても、暴力を振るうことはなかった。
声を荒げるのも、全身で「読めない」「嫌だ」と表すのも、それに対応できる者に対してだけだった。
力の弱い者に対してそれを行うことはなかった。
怖がらせたくなかった。傷付けたくなかった。
クラウスは剣や体術も学び始めた。
学問だけでなく、身体を操ることも大切だからだ。
身体を動かすことは好きだった。楽しかった。
勉強から抜け出し、兵士たちの剣の訓練を覗くことが増えた。
彼らに見つかると勉強をサボっていることが言い付けられてしまうので、訓練に混ざることはできなかったが、それでも読めない文字に向かうよりは断然楽しかった。
クラウスには、才能があった。
見るだけで、剣の扱いを、身体の扱いを、学べてしまった。こっそりと覗き見るだけでも、強くなれてしまった。
訓練するとともに、成長するとともに、自分より強い者はいなくなった。
声を荒げ、自身を伝えようとできる者はいなくなった。
守らなきゃいけない者しか、いなくなった。
クラウスと対等な者でいてくれる者は、いなくなってしまった。