マルグリットは、クラウスを嫌っているわけではない。むしろ、大切に思っている。
末っ子ということもあり、いくら身体が大きかろうと、顔つきが強面だろうと、いまだにかわいい。
だが同時に、彼女はアイゼンハルト伯爵家の夫人であり、クラディアンとクラヴィスの母であり、そしてクラウディウスの妻でもあった。背負うべき義務があった。
ただの"クラウスを愛する母"として、存在するわけにはいかなかった。
貴族の家から軍の名門に嫁いだ以上、家の秩序を守る必要がある。
アイゼンハルト伯爵夫人としてふさわしくあらねばならない。
三人の息子を等しく愛している。だから、平等に接さねばならない。
クラウディウスに厳しくされているからといって、クラウスだけを特別扱いすることはできなかった。
ただ「可愛い息子」として抱きしめることは、許されなかった。
勉学に向き合えず、貴族としてのふるまいができないクラウスを、叱らなければいけなかった。
甘やかしたくとも、貴族の三男として正しく導かねばならなかった。
マルグリットは、クラウディウスの「軍人」としての教育方針に口を挟むことはできなかった。
彼女は「軍人」ではなく、「軍人の妻」だからだ。
けれど本心では、十四歳になったクラウスの頭を撫で、抱きしめたかった。それは長男にも、次男にも同じだ。
きっと全員に嫌がられると分かっていても、それでも母としてそうしたかった。それほどまでに、彼らを愛している。
だが――彼女はアイゼンハルト伯爵家に嫁いできたのだ。
もしも夫が「この息子を切り捨てる」と言えば、諾々と頷く。その覚悟を持っていた。
でなければ、名門の秩序を保つことはできない。
そんな彼女にとって、クラウスが顔を見せてくれたことは、とても嬉しい出来事だった。
元気そうな様子に、心からホッとした。それに友人を連れてきたことも、彼女の心を静かに満たした。
しかし同時に、マルグリットは伯爵夫人としての役割を忘れていなかった。侯爵家次男であるレオナルドという少年を、見極めるつもりだった。
何を目的としてクラウスの傍にいるのか。何故、この家に訪れたのか。性格、能力、そして野心。
母としてだけでなく、当主の妻として、確かめなければならない。
一方で、レオナルドもまた冷静だった。
彼は事前にクラウスから、家族との関係やそれぞれの人物像を、時間をかけて丁寧に聞き取っていた。
他人を介した噂話ではなく、クラウス自身の言葉で、彼が何をどう思っているのかを知りたかった。
「クラウスの友人」としてアイゼンハルト伯爵家に乗り込むための情報が欲しかった。
クラウスは訊かれるままに答えた。
父がどんな人物か、どのように関わってきたか。
兄たちについては、成長するにつれて距離ができたため、知っている範囲で。
そして母についても話した。
クラウスは、母に愛されていることにちゃんと気付いていた。
だけど、自分の
だから、どう接すればいいのか分からなかった。
レオナルドには未だ、ディスクレシアであることは言えていなかった。だから、その話はしなかった。
だけど、勉強ができなかったこと。怒られたこと。悲しかったこと、そして、寂しかったこと。
クラウスはそれらを、ぽつぽつと話した。
レオナルドは、その寂しさに寄り添いながらも、冷静に情報を整理していった。
――レオナルドは、正しく優秀な貴族令息だ。物心ついた頃からずっと「独りで立つ」ことを当然としてきた。
だからこそ、クラウスの背中を見るまでは、"孤独"というものを知らなかった。
そしていまもなお、「寂しい」も「悲しい」も感じたことがない。
クラウスの話を聞き「クラウスが寂しかったこと」は理解したし、寄り添おうとは思ったが、共感はできなかった。
彼なりに整理した「クラウスと家族の関係」は、こうだ。
母との関係は、いたって普通。むしろ貴族家としては比較的情が深い。噂に聞いていた「軍の名門アイゼンハルト伯爵夫人」の印象よりも、愛情を持っているようだ。
彼女にとってクラウスが「大切」なのであれば、クラウスの“親友”としての顔は、見せておいた方がいい。
父との関係は想像通り。
クラウディウスは「正しい軍人」であり、「合理的な貴族」である。価値観はレオナルドと近い。
自分の能力や思考を明確に提示すれば、一定の評価を得られるだろう。
長男・次男については情報が少ない。だが、彼らはアイゼンハルトを継ぐ者と、そのスペアだ。
「クラウスは政治に向いていない」という理解を示し、「クラウスを政治に向かわせるつもりはない」という姿勢を見せておけば波風は立たない。
もちろん、これは初対面時の振る舞いの方針にすぎない。状況に応じて、都度修正するつもりだ。
――この時点で、レオナルドの政治的な読みと準備は、すでにクラウスの兄たちを凌いでいた。
その冷静さと鋭さは、とても十五歳の少年のものとは思えなかった。