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第38話 実地演習 平穏の裂け目

「あとで汗流したいけど……この辺、まだ井戸頼りなんだよな〜。水は貴重だし、俺らが勝手に使うわけにはいかねーよなぁ」


 完全に集中を切らし、自分のシャツをクンクンと嗅ぐアイザックに、ケイランが返す。


「仕方ないだろ。水栓魔具でもあれば、井戸だけよりは水を気兼ねなく使えるんだが……この街には魔術具師もいないみたいだからな」


 水栓魔具は、魔石に蓄えた魔力で水を生み出す簡易設備だ。内部には複雑な魔術陣が描かれており、対応する魔石をはめ込んで使用する。携行型の水栓魔具も存在するが、今回の訓練では持たされていない。


「魔術具は、魔力がなくても作れる。けど、魔術陣に対する深い理解が必要だ」


 汗を拭いながら、ケイランはアイザックの方を見ることなく淡々と続ける。


「つまり、それが学べる環境が整ってなきゃいけない。家系や工房で技術を受け継ぐか、奇特な魔術具師に弟子入りする。そうでない限り、専門の教育を受けられる大都市に集中するのは道理だ」


 ケイランの台詞を引き取るように、レオナルドが言った。


「そうすると、王都から取り寄せるしかない。水栓魔具は魔術具にしては長持ちするが、消耗品であることには変わりない。ここは行商人が通る街とはいえ、定期的に仕入れるには資金面が足を引っ張る」


 アイザックがまた「もういい」のポーズをするが、レオナルドは止めてやらない。


「それにあっちは公共スライム層の設備が整ってる。極論、金さえあれば水栓魔具を設置して、流路管を繋げば全部済む。だがここは私設だ。『お前がなりたいらしい』スライム層の管理官がいない。点検を素人任せのまま、いたずらに汚水を増やすことはできない」


「なんで俺がスライム層の管理官になりたいって話……クラウス! 話したな!」


「話しちゃまずかったのか?」


 キョトンとした顔をするクラウスに、アイザックは「いや……」と肩を落とす。『こいつにはなんの悪気もない』とすぐに気付いたのだ。


 優しく、素直で、単純。

 アイザックはクラウスの性格をよく理解していた。そして何より、そんな軽口を叩いた自分が悪い。


 くっ……と悔しげに、アイザックは顔をしかめる。


 そこへまた、レオナルドとケイランが追い打ちの正論爆弾を落としていく。

 そんな“いつもの光景”を、クラウスは「自分の次に、レオナルドに躾けられてるのはアイザックだなぁ」と、ほんわかした気分で眺めていた。


 しかし次の瞬間、彼は「あ」と声を漏らし、レオナルドの背後、遠くの気配へ視線をやる。


「レオナルド」


 その呼びかけだけで、レオナルドは即座に意図を汲み取り、「シッ」と人差し指を口元に立てる。


 アイザックとケイランはそれに頷き、黙々とスコップを動かし始めた。


 そして、ちょうど一分後。


「……調子はどうだ?作業は進んだか――早いな。さすが、優秀と聞いていただけある」


「ありがとうございます」


 爽やかな、それでいて誠実な笑顔で、レオナルドが答える。


「何か話してるように見えたが、気のせいだったか?」


「いえ、流水路について議論していました。本日は我々がこちらの清掃を行いましたが、毎回そういうわけにはいきません。タイミングを逃せば詰まってしまい、疫病の温床になるおそれもあります」


 レオナルドが言葉を切ると、ケイランが次を担った。


「資金にも限りがありますし、役人を通じて住民の意識を高めることが大切かと。その方策について話していたら盛り上がってしまい……騒がしかったでしょうか?」


「あはは! すごいな! いや、大丈夫、騒がしくなんかなかったよ。だけど――やっぱり君たちみたいなのが上に立つんだろうな。俺なんてさ、そんなこと考えたことなかったよ」


「いえ、教官が街の方々と話す姿を見て、我々も学ぶところがありました」


 レオナルドは、『尊敬』を噛み締めるような表情を浮かべて、そう言った。――本当の心がどこにあるかは、敢えて語るまい。


「ありがとう、照れるな。この辺は魔獣被害も少ない分、いろいろと整備が後回しにされがちなんだよな。俺は仕方ないと思ってたけど……そっか、そういう観点もあるのか」


 今回レオナルドたちの現場監督となったこの教官は、軍人学校を出ていない。非エリート――いわゆる“叩き上げ”である。



 軍人学校を出た者は、階級認定を受けて尉官から始まる。

 だが、そうでない者が高位に就くには、狭く厳しい道を進まねばならない。


 たとえ彼らが腕っぷしに優れ、現場対応に長けていたとしても、組織運営や戦略思考、大軍の指揮といった軍そのものを動かすための教育は受けていないからだ。

 そのため、現場の人間は荒っぽい者が多い。


 それにしては、この教官は話し方も対応も穏やかで、学生の意見に耳を傾けることもできている。

 レオナルドは内心で、その器量を高く評価した。


 ――使える。

 卒業後、自身の指揮下に置いても支障はなさそうだ。有効な駒となるだろう。


 彼の頭の中で、“今後関係を維持すべき現場人材リスト”に教官の名が静かに加わった。



「魔獣被害と疫病対策は、また別の話ですからね。今回の演習では、『民の生活を守る』という点で、我々に何ができるか――学ばせていただきます」


 レオナルドの言葉に続くように、四人は右手の拳で左胸を軽く叩いた。

 軍での「敬礼」の所作である。


 教官は、彼らの様子にはにかむように微笑むと、自身も右拳で左胸を叩いた。



 そんな暖かな空気を破るように、一人の街人が血相を変えて走ってきた。

 クラウスたちはそれに気が付き、すぐさま彼のもとへ駆け寄る。


「どうかしましたか」


 ぜえぜえと息を切らす男の背をさすりながら、教官が訊く。


「はぁ、はぁ……大変なんだ! 魔獣が……商人たちが襲われてっ……役人さんに伝えなきゃ……!」


 教官の表情が、ピクリと険しくなった。

 もちろん、クラウスたちも同様だった。


「我々が救出に向かいます。場所と規模は分かりますか?」


「場所は分かる。だが、規模は……分からん。……なんだ、あれは。まるで、空が裂けてるみたいで……まさか、あれが“渦”か……?」


 “渦”という言葉に、一気に緊張が走った。

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