レオナルドは、最も効率的に魔獣を屠れるのは自分だと理解していた。
自らが前に出れば、魔獣への対処は容易くなる。そう考えていた。
だが彼は、それを選ばなかった。
――敵は、魔獣だけではない。
未知の災害を目前とした今、“混乱”こそが、多くの命を奪いかねない、もう一つの敵だった。
魔獣が街に来たとき、人々が混乱していれば、守り切るのは難しい。
いや、たとえ魔獣が来なくとも、“混乱”は街を壊す。
たとえば、混乱に乗じて強奪を企てる者が現れるかもしれない。
火を消し忘れた家が燃え上がるかもしれない。
逃げ惑う人々の中で、転んだ子供が踏みつけられるかもしれない。
じわじわと広がる恐怖は、疑念を生み、心を殺し、やがて人を堕とす。
自分だけは生き延びようと、騒乱を煽る者さえ出るかもしれない。
今この瞬間“生かす”だけでは、不十分だ。
彼らには、明日も、明後日もある。それを忘れさせてはならない。
街を、機能させ続けなければならない。
不安と未知が入り混じり、まだ現実を受け入れられずにいる民を効果的に動かすには、レオナルド自身が街に残り、全体を統率するしかなかった。
「不安は混乱を招きます。体力も余計に奪うでしょう。しかし、役目を持てば人は強くなれます。子供でも、できることはある。火を消す、水を運ぶ、それだけでもいい。誰もが“何か”できるのだと伝えてください」
言葉を受けて、その場にいる者たちは了解の意を示した。
レオナルドは彼らを見渡しながら、一人ひとりに対して具体的に、どの役割を任せるか指示していく。
これまでの会話と、それぞれの役職や立場から、誰に何を任せるのが最も効果的か、レオナルドは把握していた。
――彼らが「レオナルドが後ろにいなくとも大丈夫だ」と思えるようになるまでは、自分は前線には出られない。
レオナルドは小さく息を吐き、言葉を続ける。
「皆様にも細かな指示を伝えます。市街地図を貸してください」
行政官に向けて言うと、地図が渡された。部屋に残った役人たちとともに、それを囲む。
「……この地図、少し古いようですね」
「えっ」
驚きの声を漏らした担当行政官に、レオナルドは淡々と返した。
「先ほどの任務中に見た建物が記載されていません」
場がザワつくが、レオナルドが指で軽く机を叩くだけで、すぐに鎮まる。
「この地図の他の情報も、正確である保証はありません。道が一本違えば、救助が遅れます。その遅れが、生死を分けることもある」
静まり返った空間に、誰かが生唾を呑んだ音がかすかに響いた。
緊張が、部屋の温度を数度下げたかのように、空気を冷たくする。
「街を守るには、まず“駆けつける”ことが前提です。地図が古ければ、避難誘導すらままなりません」
レオナルドは、街の各区画を管轄する役人たちを指名し、確認を指示した。
「あなたは南西の区画をお願いします。あなたは中央通り周辺を――それぞれの区域について、地図と照らし合わせ、現状との相違点を洗い出してください。家の増改築、撤去、通れなくなった道……どんな些細なことでも構いません。誰かがその道を通るとき、それが命を繋ぐ情報になるかもしれない」
ぐっと手を握ったのは、『建物が記載されていない』と言われた区画を担当する役人だった。
「申し訳ありません。すぐに反映します。他の方の区画も私が書き込むので、順に報告してください」
レオナルドは彼の言葉に、「お願いします」とペンを渡した。
地図をなぞるように指先を走らせながら、レオナルドは的確に指示を飛ばしていく。
「このあたり、細い路地が多いはずです。通り抜け可能かどうか、中央通り側との接続を含めて確認してください」
頷く役人たちに、レオナルドは視線を走らせる。
「ほんの少しの道の違いが、大きな犠牲を生むこともあります。現状を知る皆さんの協力が必要です」
“役割”という名の秩序が、混乱の淵にあった空気を、確かに引き締め始めていた。