レオナルドが台から降りる。それと同時に、広場には歓声と拍手が広がった。
そのとき、クラウスはそっと声をかける。
レオナルドの言葉通りに動けば、自分はここに残らなければならない。
だが、クラウスはアイザックたちのもとへ行きたかった。
理由はうまく言えなかった。ただ、どうしても行かねばならない気がしていた。
だが、レオナルドは首を横に振った。「駄目だ」と、短く、けれどクラウスが納得できるよう説明する。
「ここは、民を守る最後の砦だ。飛翔型の魔獣が現れた場合、或いは、万が一あちらで魔獣を逃した場合。ここにお前がいなければ、彼らを守れない」
言葉に続けて、クラウスの鳩尾に拳を軽く当てる。
「――何より、彼らには今、“希望”が必要なんだ。王国の盾たるアイゼンハルトの一人、“クラウス・アイゼンハルト”という希望が」
クラウスも、レオナルドの言葉が正しいと分かっていた。そうすべきだと理解していた。
それでも、「行きたい」という迷いが、首を縦に振らせなかった。
そんなクラウスに、レオナルドは静かに告げる。
「俺が行くんだぞ」
クラウスは、レオナルドの瞳を見た。
そこにあったのは、人前に立つときの“レオナルド・シュヴァリエ”ではなく、いつもの“レオナルド”の色だった。
「さっきの演説には、ひとつだけ嘘を混ぜた。分かるだろ?」
商人を“勇敢”だと仕立て上げた件は、レオナルドにとって「嘘」ではない。目的のための、些細な方便にすぎない。クラウスもそれを理解している。
なので一瞬だけ、なんのことだろうと思った。
だがすぐに、レオナルドがニッと笑った顔を見て、察する。
「この場で一番強いのは、お前か?」
その一言を聞いて、クラウスは思った。
レオナルドは、「この場において最も強いのはクラウスだ」という“嘘”をついたのだと。
だから、レオナルドに託した。
「……分かった。頼む」
たしかに、レオナルドは今、嘘を吐いた。
けれどそれは、演説の中ではない。
「演説にはひとつだけ嘘を混ぜた」――その言葉自体が、“嘘”だった。
つまり演説で語った「クラウスが最も強い」という言葉は、レオナルドにとって、紛れもなく真実だった。
レオナルドはいつだってクラウスと対等であろうとしてきたし、喧嘩をすれば本気で勝ちにいく。
だがそれは、『現実を見ない』というわけではない。
彼は、『この場において最も強いのはクラウスだ』と認識している。クラウスの強さを、誰よりも確信している。
それでもレオナルドは、クラウスに対し、自分も“最強”であるかのように振る舞った。
クラウスが、『自分とレオナルドは対等だ』と考えていると知っているからだ。
クラウスにとって、“一番強い”のはクラウスではない。クラウスとレオナルド、二人ともが“一番強い”。
だからレオナルドは、笑って言った。
「俺という“最強”が行くんだから、何も問題ないだろう」と。
そうすれば、クラウスは頷くから。
レオナルドは、クラウスが納得したことを読み取ると、地図を渡す。
もし合図があれば、この丸で囲った範囲に〈障壁〉を展開してほしい。そう告げた。
そこには広場と教会が含まれていた。範囲は広い。これほど大規模な魔術、大がかりな術陣や高価な魔術具などの補助なしでは――いや、あったとしても、通常は不可能だ。
だが、アイゼンハルトの血統魔術ならば、話は別だった。
血統は、家にとっての宝だ。少なくとも、レオナルドはそう考えている。
ゆえに「血統魔術を使ってくれ」とは言わなかった。
彼はただ「〈障壁〉を展開してほしい」とだけ伝え、どのように張るのかはクラウスに委ねた。
「長くとも一日持ちこたえれば、王都の即応部隊が来るはずだ。来たら、彼らの指示に従ってほしい」
「分かった。レオナルド――死ぬなよ?」
レオナルドは大丈夫だ。死ぬところなど想像できない。
そう思いながらも、その強さを知っていながらも、口に出した。
それはクラウスの“弱さ”だった。
レオナルドは、その弱さを鼻で笑う。
「はっ。俺が、たかだか街一つのために死ぬと思うか? ……できるから守ってやるんだよ」
クラウスは、レオナルドの有り様を、価値観を知っている。
だからこそ、その言葉がストンと胸に落ちた。
レオナルドにとって、命は平等ではない。
レオナルド・シュヴァリエの命と、この街の人々の命とを比べたとき、彼にとっては前者の方が遥かに重い。
彼は国のために死ねる。だが、この街のためには死ねない。
ここで『前に出る』のは、この規模の渦では『死なない』と分かっているから。
そして、もし“マズそう”になれば逃げ出すと、最初から決めているからだと、クラウスに伝わった。
クラウスは「ふは」と笑った。
張り詰めていたものが、ふっと緩んだ気がした。
その顔を見て、レオナルドは満足げに肩を叩く。
「じゃ、よろしくな」
そう言い残し、レオナルドは行政官に用意させた馬に乗って、街を出た。
街の門を抜けると、風がレオナルドの顔を撫でた。
手綱を引きながら、視線を前方の谷へ向ける。
「谷までは二十数分か」
――実は『馬』よりももっと速く動く手段を彼は持っている。『彼自身』だ。
より正確に言えば、〈魔術〉を使った移動が、レオナルドにとって最も速い移動手段だ。
例えば、魔力を足に纏わせ、軽くジャンプしながら硬質化させる。そして自らの後方から前方へ〈氷槍〉を放つ。
次の瞬間、〈氷槍〉が右足裏に当たる。その衝撃を推進力として、そのまま跳躍。
着地点の前にまた〈氷槍〉を放ち、左足裏で受け止め、跳ぶ。
〈氷槍〉を撃ち、受け止め、跳ぶ。撃ち、受け止め、跳ぶ。――その繰り返し。
攻撃魔術を自分の足に当てているのだから、普通は足がもげる。下手をすれば死ぬ。
だが、レオナルドは“普通”ではない。精神力も、魔術の制御も、身体の使い方も、すべてが常人の域を超えている。
やろうと思えば、できる。
より単純に、高さを利用してもいい。
自身に攻撃魔術を向けて空へと跳躍し、空中に氷の滑走路を形成して、そこを滑り降りる。
もちろん、そんな方法を取るのは頭がおかしい。目撃した人間も驚く。いや、理解が追いつかない。
故に、よほど追い詰められた状況で、他になんの手立ても無くなったときでなければ、レオナルドはそんなバカみたいな真似をしない。
そして現在、レオナルドは追い詰められていない。
それで短縮できる数分と使用する魔力や集中力、周囲への影響を秤にかけ、常識的に馬での移動を選んだ。
なお、自分自身に攻撃魔術を向け、それに乗り速度を上げる方法は、クラウスと喧嘩するうちに身につけたものだ。
クラウスの速さや巨体にどう立ち向かうか、と考えたときに、そんなバカな方法を思いつき実践した。
おそらくクラウスと本気で喧嘩することがなければ、レオナルドは永遠にそんな常識はずれな発想をしなかった。