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第2話 ここはブラックダンジョン?社畜の誓いは「定時退社」


手にした絶品トマトの甘さが、佐倉の疲弊した体にじわりと染み渡る。

この異世界で得た「農業チート」は、彼の前世では考えられなかったほどの可能性を秘めていた。

しかし、同時に、彼は自分が「ブラックダンジョン」という危険な場所にいることを強く認識していた。

頭上の重く淀んだ空気が、いまだに彼の肺を圧迫するような不快感を伴っている。


(このトマトで、一時的に飢えはしのげた。だが、生き残るためには、食料の継続的な確保と、何よりも「安全な場所」が必要だ。まるで、会社のサーバーラックを置く場所を探すようだ……いや、それよりはるかに切実な問題だ)


彼の脳内では、前世のシステムエンジニアとしての思考回路がフル稼働していた。

プロジェクト立ち上げ、リスクマネジメント、リソース管理、そして何よりも「無駄をなくし、効率を最大化する」という彼の社畜時代の金言が、この異世界での行動指針となっていた。

目の前の「ブラックダンジョン」という巨大で予測不能な「システム」を、いかに「ホワイトファーム」という「理想の、安定したシステム」へと変革していくか。これは、彼の人生で最も大規模で、そして最も「ホワイト化」に意義のあるプロジェクトになるだろう。

失敗は許されない。

なぜなら、彼の「定時で上がる」という悲願が、このプロジェクトの成否にかかっているのだから。


まずは、現状把握だ。


佐倉は慎重に周囲を見渡した。

このダンジョンの境界領域は、鬱蒼とした、不気味に黒ずんだ木々に覆われ、陽の光がほとんど届かない。

足元は湿っており、腐敗したような土の匂いがするが、スキルを使った場所だけは清らかな土の香りがする。遠くからは、時折、魔物らしき唸り声や、羽ばたくような不穏な音が聞こえてくる。その音は、まるで深夜のオフィスで聞こえる不気味な物音のようで、佐倉の社畜時代のトラウマをかすかに刺激した。


(視界が悪い。これでは奇襲に対応できない。それに、どこから魔物が来るかわからないのは、精神衛生上最悪だ。定時で上がるためにも、無駄な残業(戦闘)は避けるべきだ。理想のホワイトファームでは、緊急対応は最小限に抑えるべきだ)


彼は自身のスキルを再度確認した。

『アース・エンリッチメント』は大地を浄化し、肥沃にする。これは農地を作る上で不可欠なスキルだ。まるで、不良サーバーを最適な状態にチューニングするかのようだ。

『グリーンサムズ・ブースト』は植物の成長を促進し、品質を向上させる。これも素晴らしい。まるで、生産効率を無限に高めることができる、夢のような自動化ツールだ。だが、これらはあくまで「生産」のスキルだ。「防衛」や「拠点構築」には直接は使えない。


(やはり、このままでは不安全だ。このダンジョンで生き残るには、生産だけでなく、最低限の「セキュリティ対策」と「インフラ整備」が必須になる)


彼は周囲の地形を注意深く観察した。

約二十メートルほど離れた場所に、ごつごつとした岩肌が露出した小さな窪地があった。岩壁はわずかながら天然の遮蔽物になりそうだ。窪地自体は小さく、高さもあまりないが、当面の雨風はしのげるだろう。


「よし、まずはここをベースキャンプにするか。簡易的な『データセンター』のようなものだ。」


佐倉は、早速『アース・エンリッチメント』を発動させた。

手のひらを窪地の地面につけると、温かい光がほとばしり、瞬く間に岩の隙間に生えていた奇妙なコケや、澱んだ土が浄化されていく。地面は固く、湿り気を帯びていたが、スキルによって土はサラサラとした感触に変わり、どこか清々しい空気が満ちた。窪地全体が、まるで外界から隔絶された小さな聖域になったかのようだ。彼は試しにそこで横になってみた。硬いながらも、浄化された土の柔らかな感触と、清浄な空気に、前世では味わえなかった安堵感が押し寄せた。


「ふむ。これなら、とりあえず寝る場所は確保できる。次に必要なのは……水だな。

 生命の維持に不可欠な資源だ。安定供給が何よりも重要になる。」


彼は水を探して周囲を探索し始めた。

ダンジョン内を闇雲に歩き回るのは危険だが、生命線である水を無視するわけにはいかない。

五感を研ぎ澄ませ、注意深く進む。約10分ほど歩くと、かすかに水の流れる音が聞こえてきた。その音は、疲弊した彼にとって、まるで天の音楽のように心地よかった。


(ビンゴ!やはり水源は重要だ。これはまさに「業務効率化」の第一歩だ。安定した水資源は、安定した生産に直結する)


音のする方へ進むと、苔むした岩の間から、細いながらも清らかな小川が流れているのを見つけた。

水は透き通っており、瘴気に侵されている様子はない。彼は、小川の源流を辿ろうとしたが、深奥からさらに強力な魔力を感じ、危険だと判断した。やはり、まずは目の前の安全な範囲で最大限の成果を出すべきだ。

佐倉は安堵のため息をついた。水源の確保は、ホワイトファーム設立の最重要課題の一つだった。


彼は小川のほとりに座り込み、湧き水を一口飲んだ。冷たく、澄み切った水が喉を潤す。前世の、水道水の塩素臭い味とは比べ物にならない。生きている、という実感が全身に満たされた。彼の体は、まさにこの清らかな水と、スキルで浄化された大地の恵みを求めていたのだ。


(さて、これで拠点と水源は確保できた。次は、本格的な開墾計画だ。まずはこの小川の周辺を浄化し、水源として整備する。そして、その水を効率的に活用するための「灌漑システム」を構築する必要がある。拠点周辺の土壌も、さらに広範囲に『アース・エンリッチメント』で浄化し、本格的な農作物栽培を開始する準備をしなければ)


彼の頭の中には、すでにホワイトファームの青写真が描かれ始めていた。

「生産ライン」の確保。作物はトマトだけでなく、このダンジョンで生き残るために必要な、より栄養価の高いものも育てたい。例えば、肉の代わりになるようなキノコ類や、薬草、繊維質の植物など。そのためには、もっと広い土地が必要だ。

そして、何より「労働力」が。彼は自身の体力と時間には限りがあることをよく知っていた。前世での一人ブラック残業の苦痛が、それを嫌というほど教えてくれていた。


彼はふと、ダンジョンから聞こえる獣の咆哮を思い出した。あれは魔物の声だ。


(まさか、魔物を「従業員」にするとか……?いや、いくらなんでもそれは無茶だ。だが、このダンジョンで一人で全てをこなすのは、間違いなく「サービス残業」に繋がる。俺はもう、絶対にブラック労働はしないと誓ったんだ。理想のホワイトファームでは、ワークシェアリングは必須だ)


佐倉は、固く拳を握りしめた。彼の「定時退社」への執念は、この異世界でも健在だった。

いや、むしろ前世の経験から、より強化されていた。彼の目は、目の前の小川の清らかな水面を映し出し、その奥には、彼が築き上げる理想の農場の姿が浮かび上がっていた。


「このブラックダンジョンで、社畜を卒業し、真のホワイトライフを築く。

 そのために、俺はどんな困難にも立ち向かってやる。

 そして、必ず、この地で定時で上がる生活を実現する!」


彼は、小川のせせらぎを聞きながら、静かに、しかし力強く決意した。

彼の心の中では、すでにホワイトファームという名の壮大なプロジェクトが、ゆっくりと、しかし確実に動き始めていた。


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