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第14話 「水中都市」

彼女の声は落ち着いていて、まるで劇場の開幕前のような静けさをもっていた。


「まず、魔王様から預かった言葉です。よろしいですか?」




エンリカは小さく頷き、隣でぺたりと座る。その腕の中の人形が、かすかに揺れた。




「“トオル、お前の中にあるものがまだ眠っているうちに決めろ。その扉をこのまま開き続けるのか、それとも閉じるのか。決めた先にあるものは誰にも責任を取れない”……とのことです」




「……」




誰も口を挟まなかった。少しして、エンリカが声を絞る。




「……あの、扉って……あのへんな魔物が出てくるやつ、ですよね……?」




メルセデリアが静かに頷く。




「はい。あれともう一つ。次元の境を繋げているようなタイプの扉。私たちはそれしか知らされていません。けれど、トオルさんは──」




「意図的に、あの扉を“開いた”んですよね」




その言葉に、エンリカが肩を震わせる。




「えっ……そんな……うそ……本当に、できたんですか……?」




メルセデリアがカードを一枚、宙に浮かべた。




「それが事実ならば……厄災の使徒に関わる情報の階層が一段階上がったことになります。魔王様が警戒するのも当然です」




そう言った後、彼女は透の表情を見つめながら静かに尋ねた。




「今、あなたはどこまで使いこなせているのですか? その扉を。“次に何が来るのか”さえ予測できるなら、私たちも動きやすくなる」




エンリカがそれに続けるように言う。




「そ、それと……その、えっと……トオルさん、これから“水中都市”に行くって、言ってましたよね……?」




言い方こそおどおどしているが、内容は鋭い。




「たしか名前は……ノーディア、だったかな?う、海の底、もっと深く……地盤の亀裂の中に築かれた、魔素の反転領域にある都市……」




メルセデリアが情報を補足する。




「もとは魔族の死者の街だったと言われています。ですが、最近“死んだはずの者たちが戻ってきた”という噂もあります。そして──そこには、“あなたの行く先を知る者”がいるかもしれません」




エンリカは人形を抱きしめながら、小さな声で付け足した。




「……気をつけてください、トオルさん。そこ、“普通じゃない”です……きっと……」




メルセデリアは最後に一言だけ、低く。




「あなたが選ぶ方向に、魔王様は手出しをしません。『選べ』──それが最初からのあの人の方針です。閉じた扉を二度開けるかどうか、それを決めるのは……トオルさん、あなたですよ」




空気がゆっくりと戻り、虫の声と風のざわめきが再び耳を満たす。




そして、ノーディアの名が夜の空に沈んでいった
















朝靄の残る丘の上、ひんやりとした空気の中で馬車が軋んだ音を立てる。


その後ろには紫と黒の装いの女──メルセデリア


うさぎの人形を抱いた少女──エンリカが立っていた。




二人は、別れの言葉を交わすことなく、ただ静かに手を振っていた。


彼女たちの周囲には沈黙が漂い、朝の冷たさよりもどこか重たい空気が残っている。




「なーなー、トオルォ~! オレ、あいつらにビビってねぇからな!なんかすっげー無言でうなずいてたけどよォ!アレはアレだ、気圧とか気圧のせい!しゃーねぇってやつだ!」




ギルメザの叫びが車内に響く。




亜人──鮫の獣人である彼は、今日も絶好調のイキリ全開モードだ。


身長は透の腰あたりしかないが、存在感は馬車の中でもぶっちぎりだった。




「なぁ聞いてんのかよトオル! 無視か!? てめぇマジでぶっ飛ばすぞコラ!!!」




透はその横で、手すりにもたれながら目を伏せていた。ギルメザの声は慣れたかのように右から左へ抜けていく。




(ノーディア……死者の街、か)




メルセデリア達から聞いたその都市の名前。


最初に聞いた時はただの伝説めいた話だと思っていたが、あの空気を断絶した魔法領域の中で話された“現実”は、重たく胸に残っていた。




(魔族の死者が集う都市……それが死者の街と呼ばれる理由か?)




噂だと、死んだはずの者たちが戻ってきた、とも聞いた。


ただのゾンビ都市、というわけでもないらしい。何かが「生きている」……存在として、戻ってきている……?




「おーいってばよ!! オレさっきからずっとしゃべってんのに返事ねぇとか調子乗んなやッ!!それともあれか!?あの女たちのどっちかのこと好きとかかッ!?あ゛ぁ゛?!」




「……何言ってんだお前」




「なに照れてんだよ!キショッ!キモすぎんだろ!!」




透はそれ以上返さず、額を指で押さえた。


ギルメザの声量に、頭痛すらしてくる。


だが、彼の騒がしさが逆に今の不穏な思考をかき消してくれるのもまた事実だった。




馬車はゆるやかに山道へと入っていく。




だが、進むにつれて、道は次第に傾斜を増し、地面は岩や崖崩れの痕跡で覆われていく。馬車は何度も大きく揺れ、車輪が浮いたり、止まりかけたりを繰り返す。




「すみませんが……これ以上は無理です。ここから先は徒歩でお願いできますか」




馬車を引いていた男が振り返り、そう頭を下げた。




「あ゛ぁ!?オレに歩かせんのか!?ふざけんなよテメェ!!ぶっ飛ばすぞオラ!!!」




透はため息をつきつつ黙ってギルメザの口を塞いだ。




「んぶっ?!ん〜〜〜ッ!!!」




「これで足りそうか?」




透が金貨を男に渡す。男は満足したようで、馬車をUターンさせていった。




「お前マジで余計なこと言うなよ…」




もう慣れた。これくらいのやりとりは亜人の村を出た頃から毎日のように繰り返されている。




二人は石だらけの山道を登り始める。




空は晴れていたが、木々はほとんどなく、直射日光が岩肌に反射して目に痛い。




「つか、こっから徒歩ってマジでバカだろ!!馬車で連れてくのが仕事なら最後まで連れてけよなあいつッ!!」


ギルメザの悪態は止まらない。




「トオル、聞いてんのか!? てめぇのせいでここ登ってんだからな!? 水中都市ぃ? バカかてめぇ! 何でそんなとこ行くんだよ、もっとこう、強いやつと戦うんじゃねぇーのかよ!!」




透はうんざりした顔で、前を向いたまま答える。




「……喋ってる暇あんなら少しでも前に進めよ〜」




「ハァ!?てめぇ今なんつった!? もっかい言ってみろ!こっちは歩幅が狭いんだよクソが!つかマジで調子乗りすぎだろテメェ!!」




「黙ってついてこいって言ってんだ」




「ッッッ!!! トオルてめぇぇぇ!!」




ギルメザは全力で地団駄を踏むが、傾斜がきつすぎて足を取られて転びそうになる。




「いてっ……マジでこの道バグってんだろ……オレの足ヒレに石入ったし!!」




透はそれを無視しながら少しだけ笑った。


死者の街──ノーディア。その名を思うたび、胸に不安がよぎる。


けれど隣で騒ぎ続けるこの小さな獣人の存在が、どこか現実に引き戻してくれていた。




岩場を越える。木々の影が長くなり始め、辺りは徐々に薄暗くなっていく。




道は……まだまだ、険しい。








夕陽が海と空の境を消し去る頃、ようやく──本当にようやく、崖の上に到達した。




透とギルメザの足取りは重かった。昼をとっくに過ぎ、夕刻に差し掛かってもなお続く登山行。ギルメザの文句はすでに枯れ果て、今やただ荒い息を吐いて地面を睨みつけているだけだった。




「……な、なんだよこれ……」




崖の頂に立った瞬間、透の言葉が自然と漏れた。


息を飲む──とは、こういうことかと思った。


目の前に広がる景色は常識の一歩も二歩も外側にある。




風が吹く。


汗まみれの額を冷やす風が、透の心の芯まで貫いていく。




眼下には、空を映すような完璧な海。


それだけじゃない。




その海の上──いや、「上に浮かんでいる」ようにすら見える──そこにはまるで空中庭園のような都市が存在していた。




「は、はぁ……? え、なに? これが……ノーディア?」




呟きながら、知らず知らずのうちに一歩、また一歩と前に出ていた。




目を凝らす。




都市全体を覆うのは、透明なドーム状の魔力障壁。


まるでガラス細工のようなそれが、夕陽を乱反射し、七色のきらめきを放つ。


幾つもの層になった円形の建造物が幾何学的に重なり合い、まるで“空間そのもの”をねじ曲げて建てられたかのような、不自然なまでの秩序がそこにはあった。




そして──




都市を照らすのは、空に吊るされた青い炎。


灯火としての役目を果たしているそれは、燃えているのに煙を出さず、揺れず、音もない。


青い……いや、時折その色は紫にも、白銀にも変化する。




透はまばたきを忘れて、ただその神秘に見惚れていた。




「……すげぇ……」




思わず笑った。


笑ってしまった。


こんな世界、現実にあってたまるか。


でも──ある。ここは『異世界』なのだから。




「なァ〜〜〜!! トオル!!見てねぇで降りるぞコラァ!!しっかりしねぇと転がり落ちるっつーの!!!」




背後から怒鳴るような声。


ギルメザ・ザッハーク。身長110cm程度、態度は1200cm級。




透は笑ったまま、頭の後ろで手を組んで背伸びをした。


体はクタクタだ。脚も棒。のどはカラカラ。


けれど、その景色に触れた今、透の中の何かが確実に熱を取り戻していた。




「……やっと来たんだな、俺たち」




短く呟くと、透は再びギルメザと並び、長い長い坂道を見下ろした。




坂は──崖の外側をぐるぐると巻くように延びていた。


しかも斜度は思った以上に急で、地面はゴツゴツと尖った岩だらけ。




透が限界まで詰め込まれた荷物を手放し、ギルメザをじっと見つめる。




「…はァ!?荷物持てってか!? オレが!? 持つの!?バカか!?ふざけんなマジでっ!!!」




「知らねぇよ〜、いいから持て、馬車乗ってきた時“ついてきたのは自分の意思”だって言ってたろ?」




「おいッ!!トオル!!マジでコロすぞ!!オメェみてぇなチビ人間の命一個なんて軽いんだよ!!覚えとけコラァ!!」




崖の空気が清涼な分だけ、ギルメザの声は無駄に反響した。




「つかなんでこんな山道なのか説明しろッ!! 水中都市って名前なら海に浮いてろバカ!!! 誰がこんなとこ登って、下って、しかも徒歩で入るんだよォォォ!!!」




「もうすぐ行けるって……たぶん……」




「“たぶん”? たぶんじゃねぇよバァカ!!!! 信用ねぇんだよてめぇは!!! あーもう最悪!!! なんでこんなとこ来たんだオレ!!!」




(うるせぇな……うるせぇ……うるせぇ……)




心の中で透が唱えた呪文は効果ゼロだった。




──それでも、足を動かすしかない。


崖のふもとに見える“都市の入り口”に、近づくために。




そして、やっとの思いで辿り着いた坂の下。


夕闇が完全に落ちる直前、入り口の前に──二人の“門番”がいた。




彼らはただの衛兵ではなかった。


持っている武器は、三叉の槍──トライデント。


青い金属で作られたそれは、魔力を纏ってわずかに揺らめいている。


装甲は銀と紺を基調とし、都市の調和を壊さぬよう計算された意匠だった。




透とギルメザが歩み寄ると、ひとりが低く、重い声をかけてきた。




「……ここはノーディア。死者の都市と呼ばれし海中の国。来訪の理由を述べよ」




その瞬間。


“死者の都市”という響きに、透の背筋がひやりと冷えた。




──本当に、ここは“死者の都市”なのか。


かつて誰かが、そう呼んでいた理由とは……





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