「眠れないのか?」
もう感覚としては深夜も深夜。
電灯がないこの世界では、夜は本当に暗く、月の隠れた夜などは世界がまるごと漆黒の闇に囚われたかのようになる。
まあ、今夜は月がきれいだから、リビングにいるマリナを判別できるくらいには明るいのだけど。
ソファの側に所在なく佇むマリナのシルエット。
窓から差し込む月明かりが逆光になり、その表情は窺えない。
なにか用事だろうか。
「……主どの? いま、来たのでありますか……?」
マリナが口を開く。
深夜だからか、抑え気味の声音。
「ん? 見てのとおりだけど。なんで?」
「姫がさっきまでベッドにいなくて……ついさっき帰ってきたんで、主どののところに行っていたのかなぁー? ……なんて」
「そうなの? 俺は今の今まで、向こうで仕事してたよ」
どうなんだろう。
シャマシュさんやオリカのところに遊びに行ってたってわけでもないだろうし、今日は月がきれいな晩だ、ディアナ一人でお月見でもしてた可能性もある。
……いや、まあ、多分あいつは俺を待ってたんだろう。
それで、いつまで経っても来ないから、諦めて寝たとかそんなところじゃないだろうか。
うぬぼれかもしれないが。
マリナは俺の答えに、胸を撫で下ろすような仕草をした。
「……それならよかったのであります。マリナ、てっきり――」
途中まで言いかけて、口淀む。
「てっきり?」
「いっ、いえ、なんでもないのであります。なんでも」
マリナはなんでもハッキリ言う
こんな風に慌てるような仕草をするのは珍しい。
「なんだよ、気になるな」
俺がそう言うと、マリナは観念したかのように、胸の前で両手を握りこんだ。
「マリナ、てっきり……」
「うん」
「その……姫と主どのが……ふたりでいたのかなぁって…………」
いやいやいや。
「……俺とディアナとふたりでいることなんて、けっこうよくあるだろ」
「そ、それは……その通りなんでありますが……。今日は夜で、屋敷だからか……なんだか変な気持ちになって……気になって眠れなくなってしまったのであります……。こんなの変でありますか……?」
「いや……」
いやいやいやいや。
なんなのこの子。
かわいい事言っちゃって。
少しだけ目が慣れて、おぼろげにマリナの表情が見えるようになってきた。
恥ずかしそうに胸の前で両手をいじいじとさせ、上目遣いで所在なさ気にこちらを見ているマリナ。
「変じゃないなら、良かったのであります。……主どのに嫌われたくないでありますから」
後半は小声だった。
嫌われたくない……か。
つい勘違いしてしまいそうになるが、奴隷であるマリナにとって、主に嫌われるというのは、イコール捨てられるということなのだろう。
俺とマリナは、主人と奴隷だ。
俺にとっては、いや、もしかするとマリナにとっても、歳の近い異性であり、距離的にも近く、どうしたって
その関係性は、「そんなの関係ない」と主人側から言えるほど、生半可なものではない。お金で買って、精霊契約で縛っているのだから。
「俺がマリナのことを嫌うことなんてありえないよ」
俺はそう言ってから、立ち話もなんだなと、ソファに腰掛けた。
ソファは部屋の奥のほうにあるから、自然とマリナの横を通り過ぎることになる。
通り過ぎざま、こちらを見詰めるマリナと視線がぶつかった。
その透き通るような紫色の大きな瞳は、もう何度も見ているはずなのに、月明かりを反射しドキリとするほど鮮やかに輝いていた。
「主どのはずるいのであります……。そんな風に言われたら勘違いしちゃうのであります……」
目を伏せ、自らの両腕を抱き、小さく呟く。
ずるいと言われようと、本心だから仕方がない。俺がマリナを嫌うことなんてありえないだろう。
マリナはつくづく可愛い。
彼女の手も足もそのすべてが俺のものだ。
奴隷なんだから、いやらしい意味でも、現実的にもそうなのだ。
だが、だからこそ、その気持ちを踏みにじりたくない。
月光を浴び、闇に浮かび上がる今日のマリナは、俺には特に神聖なものに見えた。
マリナをついジッと見詰めてしまう。そんな俺の視線に気付いたマリナが、
その頬をサッと朱に染めた。
んんん?
そんなエロい視線だっただろうか。
今日に限ってはそういう気分で見てたわけじゃないんだが……。
「あ、あ、あ、主どの!」
「ん?」
「もう寝るんでありますよね! マリナ、邪魔してしまったのであります?」
「いや、ぜんぜん大丈夫だけど。なんでそんなに慌ててるんだ?」
キョロキョロと周りを見回すマリナ。
当然誰もいない。
俺とマリナだけだ。
「い、意図せずふたりきりになってしまったのであります、そのことに気付いたからってわけじゃないのであります、あります……」
「そっか。そういえば、マリナとふたりってあんまりなかったもんな」
「ないのであります。あります……」
「ないのかあるのかどっちなんだ……」
マリナと出会って結構経つが、確かにふたりきりになることはほとんどなかったかもしれない。
基本的にいつもディアナがいっしょにいるし、ふたりきりだったとして、エリシェで行動するときや、店番をしてるときぐらいだっただろう。
こういう、プライベートな空間でふたりきりというのは初めてかもしれないくらいだ。
「主どの」
突然、意を決したように一歩前に出るマリナ。
「そ、その……いつもは……なかなかふたりきりにはなれないのであります。今日は……その、良い機会なので……主どのと……少しだけ、少しだけでいいので、お話をしたいのであります」
「ん、ふたりで話したこと、あんまりなかったもんな」
「……どうでありますか?」
「もち、いいよ」
別にいやらしい意味ではなく、ただふたりで話をする。そんな機会もあるようでなかった。
のんびり暮らしていたけど、意図せず、こちらの人たちとの深い付き合いを避けていたのかもしれない。
それとも、ただ単に人間関係の構築が下手くそなだけか。
ずっと一緒にいたマリナのことだって、知っているようで、知らないことばかりだ。
マリナと出会っておよそ半年。
妄信的と言えるほど、忠誠を誓い側にいてくれるから、ただそれだけで安心して、満足していたのかもしれないな。
「じゃあ、立ってないで座れば」
「では、今日は隣に座らせてもらうであります。……いつもは、姫の指定席でありますからね」
そんなことを言いながら、ちょっと遠慮して腰掛けるマリナ。
別に並んで座ったことがないわけじゃないけど、確かにマリナは俺の斜め後ろに陣取っていることが多かった。
それが奴隷としての矜持なのか、それとも騎士としての矜持なのかはわからないが、常に横にいるディアナとは対照的だ。
ソファにふたり、並んで腰掛けて、いろんな話をした。
最初は、なんだか緊張していたマリナだったけど、少しずつ静かに話は弾んでいく。
マリナが母親と暮らしていた村の話。
母親と離れ離れになったときの話。
奴隷商で過ごした2年間の話。
俺と出会った時の話。
月明かりだけの静謐が支配する部屋で、ふたりの話し声だけが響き、夜に溶けていく。
「主どのに出会ってから、ずっと……ずっと楽しい生活を送らせてもらってるのであります」
いつもより、少しだけ口調の砕けたマリナの整った横顔がすぐ側にある。
「姫のことも好きでありますよ。ちょっと世話が焼ける姉って感じであります。こんなこと私が言っていると知ったら、きっと怒るでありますね」
優しく微笑むマリナの横顔を盗み見てしまう。
「今、こうして主どのを独り占めできるのも……」
ふいにマリナがこちらを向く。
視線が交差する。
「……ふふ、さっきから私ばっかり喋ってるのであります」
とろけるように微笑む。
そして、身体を預けるようにして、躊躇なく抱きついてきた。
頬と頬。耳と耳とが触れ合うような抱擁。
まさか、マリナのほうから、こういうアプローチをしてくると思わなかったので、驚きに心臓が跳ねあがる。
「主どのには本当に感謝しているのであります。でも、その気持ちをどう表していいものかわからないのであります。今の……この気持ちだって…………主どの……」
「マリナ……」
「マリナは……わたしは……自分自身くらいしか捧げられるものがないのであります……」
俺の首に腕を廻し、ギュッと、少しだけ力を入れて抱きしめて、そんなことを呟いた。
俺とマリナは、主と奴隷。
友達でも、まして恋人同士でもなんでもない。
主と奴隷なのだ。
ふと、マリナと出会った日の夜のことを俺は思い出した。
抱きしめられた喜びは霧散し、俺は言い様のない気持ちに支配される。
悲しみなのか、憤りなのか。自分でも理解できない感情。
この気持ちは、俺のワガママから来たものだろう。
奴隷としてずっと一緒にいて欲しい。
でも、男として好かれたい。
なんなら愛されたい。
お互いの立場は忘れて、そうあってほしい。
奴隷として買ったくせに。
そういうワガママだ。
――とにかく、俺は主人として答えるしかなくなってしまった。
「そんな重苦しく考えるなって」
俺はマリナの身体を引き剥がし、軽く答えた。
前にも……そう、初めての夜に「奴隷だ奴隷だ」とハシャいで失敗したことがあった。マリナがガチガチに緊張して、でも仕方ないことだからと受け入れていたのを見てショックを受けた。自分がなにをしようとしていたのか、改めて考えて自己嫌悪に陥った。
その失敗……いや、トラウマと言ってもいいかもしれない。
とにかく、もうそういう方向では嫌なのだ。
童貞の戯言かもしれないけれど、間違ってはいない……はずだ。
「でも……わたしは……」
「マリナ。奴隷として買われたんだから、働いて自分自身を買い戻して自由になってやるーってぐらいの気持ちでいいんだよ」
もちろん手放す気はない。
ないが、マリナがもしも自由を望むなら――
「……主どのは、わたしに自由になって欲しいんでありますか?」
「…………いや。ずっと側にいてほしいって思ってるよ」
俺はいまどんな顔をして、こんなセリフを吐いているのだろう。
今が夜でよかったなと、つくづく思う。
「ふふ……。主どのは矛盾しているのであります」
そして、なぜかまた強く抱きしめられる。
ルクラエラでの一件以来、抱擁に対する心理的なハードルが下がっているのだろうか。
そうかもしれない。一度はしたことだから。
密着する身体と身体。
夜の
お互いの心臓の音まで聞こえるほどのゼロ距離。
俺がその一歩を踏み出せないのは、決定的に深い人付き合いをしてこなかったからだろう。
地球でも、異世界でも、そこは変わらない。
心に触れようとすれば、お互いに不可侵の領域にまで踏み込むことになる。
それには必ず恐怖を伴う。
俺は、それが嫌で逃げ続けてきたのだ。
「……主どの? ……震えているであります」
「マリナだって」
「私も震えてるであります? 別に主どのが怖いからじゃないでありますよ? それとも、主どのはマリナが怖いでありますか?」
少し
怖いのだろうか。俺はマリナを怖がっているのだろうか。
……怖いんだろうな。
そうでないなら、それこそとっくに――
「……主どの、わたし、あの夜のこと……実はずっと後悔していたのであります」
マリナが俺に抱きついたまま、吐露するように告げる。
「あの夜?」
「初めての夜、宿屋で……」
「あ、ああ……。いや、でもあれは」
まさかマリナから、あの夜の話が出るとは思わなかった。
だが、マリナにとっても、あの日のことは忘れ得ない出来事なのかもしれない。
「時々、思うのであります。あの時、その……主どのに抱かれていたらって」
「…………」
いつも元気で、なんにも考えてなさそうなマリナが、そんな風に思ってたなんて、少し驚きだ。
「今の関係が嫌ってわけじゃないのでありますよ? ……ただ、あの時にすれ違ってしまったのが、今の今までずっと尾を引いてしまったのかなって。あの日から、ずっと気を使わせてしまっていたのかなって……ときどき、そう感じる時があるのであります」
「…………」
俺はなにも答えることができなかった。
それは、確かにその通りだからだ。
正しいことがどちらかなんてのは、関係なく。
確かに俺はマリナに気を使っている。
だが、それは人間同士なら当然のことでもあるのだけれど。
「主どの」
マリナが少しだけ身体を離し、話題を変えるかのようにハッキリと口にする。
「私……あの日の、朝。実は起きていたのであります」
「……朝? えっと……あ」
サッと、血の気が引く。
マリナが寝ていると思って、ついつい寝ている彼女の胸に触れた……いや、揉んでしまった時のことだ。
ええー……、起きてたの……? マジで……?
もう半年くらい前のことなのに、居たたまれない!
至近距離で真っ赤な顔をしたマリナと目が合い、つい下を向いてしまう。
そこにはあの時確かに触れた豊かな胸の谷間が。
「……いいでありますよ。主どの」
「えっ……」
言うなり、マリナは俺の右手首をソっと掴んだ。
そして、俺の手のひらを、ムギュっと自分の右胸に押し付ける。
「んっ」
マリナの口から吐息が漏れる。
パジャマごしなのに、吸い付くように柔らかいマリナの胸の感触。脳みそはオーバーヒート寸前だ。
心臓が弾けるほど高なり、ついその右手に力が籠もってしまう。
マリナの熱を感じる。
全身に多幸感が広がる。
一つ揉むごとに、マリナの口から吐息が漏れる。
「あんっ、す、少し痛いでありますよ」
「あっ、ごめん……」
つい揉んでしまった。揉みすぎてしまった。
気付いたら両手で揉んでいた。
静まれ! 俺の両腕!
「……なぜだか、ドキドキしてるのに、安心するような心が落ち着くような不思議なきもちであります。主どのも嬉しそうであります。……ずっと触りたかったのに、我慢していたのでありますか……?」
「お恥ずかしながら……」
マリナの胸から手を離さず答える。
いかん、ダメだ。頭がバカになってる。
これは麻薬みたいなもんだ。抗えない。
「ふふ……主どの、子どもみたいであります。……ねぇ、主どの。……これからは、いつでも触っていいのでありますよ。あっ、ん……私も……触られると、気持ちいいのであります……ん……」
耳元でそんなことを囁かれたら陥落せざるを得ないじゃないか。
「マリナ……」
気持ちいい。
お互い気持ちいい。
WINWINの関係だ。
嬉しい。
布ごしがもどかしく、マリナのパジャマのボタンを外していく。
「あっ……それは、まだ……恥ずかしいであります……ダメであります……」
マリナが慌てたように、パジャマの前をかき寄せる。
目の前には、顔を真っ赤に染めて、眉を寄せるマリナ。
俺は少しだけ冷静さを取り戻した。
恐ろしい
無我夢中という言葉がこれほどピッタリくる体験はそうないだろう……。
「そ、そんなに見られると恥ずかしいのであります」
照れ照れと髪で頬を隠すようにするマリナ。
やさしい月の光が、マリナのアメジスト色の髪と瞳を輝かせる。
「マリナ、これ以上は心臓が破裂しちゃうのであります。……いまは、これが精一杯」
そう言い、目をギュッと閉じて、俺に顔を寄せ、そして、控えめに俺の頬に口付けた。
数秒間だけキスをして、すぐにさっと俺から身を離し「えへへ」と笑い、
「主どの、大好きであります」
と、そう言った。
そして、言い逃げるように、「キャーキャー」言いながら、部屋に帰っていった。
「お、おおう」
つい声が漏れる。
嬉しい。
一人残された部屋で、しみじみと喜びがこみ上げてくる。
好きと。
マリナは確かにそう言った。大好きだと。
俺は、肉体的な接触がどうとか、童貞がどうとか、そんなことに惑わされていたのかもしれない。
やっぱり大事なのは心の交流だ。
いや、さんざんおっぱい揉みまくっておいて、なんだという話だが。
それに、考えてみたら、こんな風に告白されたのって初めてじゃないか?
とにかく、嬉しい。
胸から湧き起こるこの喜び。やはり俺は好かれたかったんだな。
今日、この日が来たことを考えると、やはり出会った夜に、マリナを抱かなかったのは(正確には抱けなかったのだが)正解だった。心の底から。
脳裏に浮かぶ、月夜の精のような鮮やかな紫色の瞳を宿したマリナの姿。
「アメジストは愛の守護石……か」
かつて、何度もアメジストを売った時にうそぶいたウンチク。
驚くほどマリナにぴったりだ。
「……俺も寝るかな」
もちろん、リビングで寝る前に一度自室に戻ったのは言うまでもない。
あんなことがあった後で、そのまま寝れる男なんかいるわけないだろ!
◇◆◆◆◇
朝、目覚めるとそこは知らない天井だった。
いや、知っている天井だった。余裕で知ってる。屋敷のリビングで寝たのだった。
「おはようございます。ご主人さま」
ふいに真横で、声がする。
ディアナが目の前で俺の顔を覗きこんでいた。
「ん、おお。おはよう、ディアナ」
「昨日待ってましたのに、ご主人さまは何時に寝たのです? いくらなんでも夜更かししすぎなのです」
やっぱり俺を待っていたのか。
この言い分からすると、その後にマリナが来ていたことには気付いていない模様。
いや気付いていたら、ディアナの性格では確実に邪魔しに――もしくは混ざりに来ていただろうけど。
それとも、昨夜のことは夢かなにかだったのかもしれない。
性欲的なものが見せた幻みたいなものだったのかも……。
「いつも寝るのは、あんな時間だよ。日本人は夜更かしなのさ」
「夜更かしをする人間は不幸になるのです。昔から伝わる言葉なのですよ。次は、早く寝ましょうね」
「そうだな」
適当に返事しつつ、俺はついマリナの姿を探した。
台所にはいないようだが――
「マリナは?」
「馬の世話をしているのです。珍しく今日はマリナより私のほうが先に起きたのですよ。起きてからもやけに眠そうでしたし、怠けているのです」
マリナ……。昨日、夜更かししたからな……。
いや、それほど遅い時間ではなかったけど。
まあ、それはとにかく顔を洗ってくるかなと立ち上がると同時に、天職板が飛び出した。
お導きの達成&クランランクアップである。
てか、そうだ。そのために屋敷に泊まったんだった。
昨夜の出来事のインパクトで忘れてたぜ。