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第3話:現代の残響

六月の名古屋は、梅雨入り前の蒸し暑さを纏っていた。

街路樹が風に揺れ、大学の講義棟の窓から見える空は、どこか遠い異国の空のように感じられた。

佐倉陽菜は、教室の片隅で黙ってプリントを整理していた。


周囲では友人たちの雑談が飛び交っている。

就活、恋愛、履修の失敗談。

けれど彼女の耳は、それらの音をただの“雑音”としてしか捉えていなかった。


藤崎悠真――

彼が姿を消してから、もう一週間が経っていた。


「……また、来てないんだ」


小さく呟いた言葉は、誰にも届かない。

届かないと、わかっていた。

陽菜の心は、深い霧の中にいるようだった。

彼のいない日常は、まるで色彩を失った写真のよう。


---


講義後、陽菜は一人でキャンパスを出た。

目指すは、かつて悠真が立ち寄ったと言われる広場。

週末にフリーマーケットが開かれていた、あの場所。


雑多な品々が所狭しと並べられていたはずの空間は、今はただのコンクリートの空き地になっていた。

風が紙屑を舞い上げ、陽炎がアスファルトの上で揺れる。

人気のないその場所で、陽菜は立ち尽くした。


だが、陽菜の中には確かな感覚があった。


(この場所で、何かが起きた)


風が吹いた瞬間、彼女の髪がふわりと揺れた。

その時――


──カチリ。


確かに聞こえた。

ごく小さな、微かな、歯車が噛み合うような金属音。

周囲に目を凝らしても、何も見えない。

けれど彼女の中で、何かが“繋がった”。

それは、悠真が失踪したあの日から、夜ごと陽菜を悩ませていた悪夢の断片と、酷似していた。

巨大な機械音、眩い光、そして、光に吸い込まれていく悠真の姿。

最初は気のせいだと片付けていたその夢が、

今、この場所で、現実と結びつこうとしていた。


---


自室に戻ると、机には数冊のノートが積まれていた。

その表紙には「藤崎悠真/調査メモ」と手書きのタイトル。


・最終目撃:6/14(土)午後/フリーマーケット会場

・所持品:スマホ、鞄、ノートPC、そして懐中時計

・最後のLINE:14:02「面白いの見つけた」

・以後、端末は圏外/GPS反応なし

・警察の捜査:現在、自主失踪の線で捜査縮小。家族は半ば諦め。


陽菜はノートの一ページをめくり、丁寧に書き記された情報を読み返す。

それはまるで、“この世界に彼が存在していた証明書”のようだった。

彼の友人たちは、口々に「あいつなら、きっとどこかでゲームでもしてるさ」と笑い飛ばしたが、陽菜は信じなかった。

悠真は、約束を破るような人間ではない。不器用だが誠実で、誰にも告げずに姿を消すなど、ありえない。

その確信が、陽菜を動かしていた。


---


彼と最後に交わした会話が、脳裏に鮮やかに蘇る。


──「時計って、面白いよな。止まってるのに、何か動いてる気がする」

──「また理系のこじつけ?」

──「違う違う。……この世界の“時間”って、本当に一つなのかなって」

──「悠真くんの難しい話はパス」


当時は笑って流したその言葉が、今になって胸を締め付けた。

彼の話す「量子力学の多世界解釈」や「並行宇宙論」は、いつも陽菜には理解不能だった。

だが、その時、悠真の瞳が輝いていたのを陽菜は知っている。

真剣な、純粋な探究心。

そして、今。目の前の現実が、彼の「難しい話」を肯定しようとしている。


(もしかしたら、あの時すでに――彼は、世界の“異変”に触れてた?)


陽菜は、スマホに保存された懐中時計の写真を開いた。

悠真から見せられた、煤けた真鍮の光沢、精巧な歯車のレリーフ、裏面に刻まれた“Chrono Rex Machina”の文字。

あの写真を見るたび、胸の奥で、微かな不安と期待が渦巻く。


「……この時計が、彼を連れて行ったの?」


そんな突飛な発想を、誰が信じてくれるだろう。

警察は「事件性なし」と判断し、友人たちは日常に戻っていく。

陽菜だけが、取り残されたように感じていた。

でも陽菜は確信していた。


“世界のどこかに、もう一つの現実がある”。

そして、そこに悠真がいる。


---


数日後。

陽菜は大学図書館の地下資料室にいた。

薄暗い通路には、古びた紙と埃の匂いが充満している。


誰もいない静寂の中で、彼女は“世界の境界”に関する文献を漁っていた。

「並行世界」という、悠真の口からしか聞いたことのなかった言葉。

量子力学、形而上学、そして……錬金術。


・多世界解釈

・並行宇宙

・異界転移症候群

・エーテルとアストラル理論

・時空を繋ぐ「鍵」の概念


怪しい話ばかりが並ぶ。

けれど、その中には――

“懐中時計を媒介とする異界共鳴”という記述が、確かに存在した。


「共鳴……」


その言葉を呟いた瞬間、懐中時計の写真が保存されたスマホが震えた。

通知はなかった。だが画面が一瞬、わずかに滲んだように見えた。

それは、まるで、遠い世界の悠真が、陽菜の存在を呼ぶような、そんな錯覚を覚えさせる。


(感じた……?)


五感のどれとも違う。

けれど、“そこ”に確かに何かがあった。

空気の密度が変わるような、目には見えない“ズレ”。

それは、悠菜が以前話していた「世界の歪み」と酷似している。

陽菜の理系的な思考が、非科学的な事象を「現象」として捉えようとしていた。


---


帰宅途中。

陽菜はふと、悠真が消えた広場に隣接する、ある空きビルの壁に手を触れた。


そこには、黒ずんだ焼け焦げのような跡があった。

それはまるで、熱で溶けたような痕跡。

指を近づけると、ほんのりと、生暖かい熱を感じる。

まるで、何かが“ここから”通り抜けたかのような、異質な痕跡。


(ここから……誰かが抜け落ちた?)


そんな妄想じみた直感が、彼女の中で現実に近づいていた。

悠真は、きっと、ここからいなくなったのだ。

そう確信した時、陽菜の心に、これまで以上の覚悟が芽生えた。


---


夜。

自室のベッドに腰掛け、陽菜はノートに一行書き加える。


「藤崎悠真は、“この世界の外”にいる可能性がある」


そしてその下に、もう一行。


「私が、彼を連れ戻す」


その文字は、決して消えることのない、彼女の決意そのものだった。


---


彼女は気づいていなかった。


その時、部屋の片隅に置かれた目覚まし時計が、

何の操作もなく――針を、ひとつ、カチリと動かしたことに。

そして、その時計の文字盤には、微かに、

懐中時計と同じような歯車の紋様が浮かび上がっていた。


世界の歯車は、静かに、しかし確かに動き始めていた。

もう一人の“真実”を求める者の手によって。


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