六月の名古屋は、梅雨入り前の蒸し暑さを纏っていた。
街路樹が風に揺れ、大学の講義棟の窓から見える空は、どこか遠い異国の空のように感じられた。
佐倉陽菜は、教室の片隅で黙ってプリントを整理していた。
周囲では友人たちの雑談が飛び交っている。
就活、恋愛、履修の失敗談。
けれど彼女の耳は、それらの音をただの“雑音”としてしか捉えていなかった。
藤崎悠真――
彼が姿を消してから、もう一週間が経っていた。
「……また、来てないんだ」
小さく呟いた言葉は、誰にも届かない。
届かないと、わかっていた。
陽菜の心は、深い霧の中にいるようだった。
彼のいない日常は、まるで色彩を失った写真のよう。
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講義後、陽菜は一人でキャンパスを出た。
目指すは、かつて悠真が立ち寄ったと言われる広場。
週末にフリーマーケットが開かれていた、あの場所。
雑多な品々が所狭しと並べられていたはずの空間は、今はただのコンクリートの空き地になっていた。
風が紙屑を舞い上げ、陽炎がアスファルトの上で揺れる。
人気のないその場所で、陽菜は立ち尽くした。
だが、陽菜の中には確かな感覚があった。
(この場所で、何かが起きた)
風が吹いた瞬間、彼女の髪がふわりと揺れた。
その時――
──カチリ。
確かに聞こえた。
ごく小さな、微かな、歯車が噛み合うような金属音。
周囲に目を凝らしても、何も見えない。
けれど彼女の中で、何かが“繋がった”。
それは、悠真が失踪したあの日から、夜ごと陽菜を悩ませていた悪夢の断片と、酷似していた。
巨大な機械音、眩い光、そして、光に吸い込まれていく悠真の姿。
最初は気のせいだと片付けていたその夢が、
今、この場所で、現実と結びつこうとしていた。
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自室に戻ると、机には数冊のノートが積まれていた。
その表紙には「藤崎悠真/調査メモ」と手書きのタイトル。
・最終目撃:6/14(土)午後/フリーマーケット会場
・所持品:スマホ、鞄、ノートPC、そして懐中時計
・最後のLINE:14:02「面白いの見つけた」
・以後、端末は圏外/GPS反応なし
・警察の捜査:現在、自主失踪の線で捜査縮小。家族は半ば諦め。
陽菜はノートの一ページをめくり、丁寧に書き記された情報を読み返す。
それはまるで、“この世界に彼が存在していた証明書”のようだった。
彼の友人たちは、口々に「あいつなら、きっとどこかでゲームでもしてるさ」と笑い飛ばしたが、陽菜は信じなかった。
悠真は、約束を破るような人間ではない。不器用だが誠実で、誰にも告げずに姿を消すなど、ありえない。
その確信が、陽菜を動かしていた。
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彼と最後に交わした会話が、脳裏に鮮やかに蘇る。
──「時計って、面白いよな。止まってるのに、何か動いてる気がする」
──「また理系のこじつけ?」
──「違う違う。……この世界の“時間”って、本当に一つなのかなって」
──「悠真くんの難しい話はパス」
当時は笑って流したその言葉が、今になって胸を締め付けた。
彼の話す「量子力学の多世界解釈」や「並行宇宙論」は、いつも陽菜には理解不能だった。
だが、その時、悠真の瞳が輝いていたのを陽菜は知っている。
真剣な、純粋な探究心。
そして、今。目の前の現実が、彼の「難しい話」を肯定しようとしている。
(もしかしたら、あの時すでに――彼は、世界の“異変”に触れてた?)
陽菜は、スマホに保存された懐中時計の写真を開いた。
悠真から見せられた、煤けた真鍮の光沢、精巧な歯車のレリーフ、裏面に刻まれた“Chrono Rex Machina”の文字。
あの写真を見るたび、胸の奥で、微かな不安と期待が渦巻く。
「……この時計が、彼を連れて行ったの?」
そんな突飛な発想を、誰が信じてくれるだろう。
警察は「事件性なし」と判断し、友人たちは日常に戻っていく。
陽菜だけが、取り残されたように感じていた。
でも陽菜は確信していた。
“世界のどこかに、もう一つの現実がある”。
そして、そこに悠真がいる。
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数日後。
陽菜は大学図書館の地下資料室にいた。
薄暗い通路には、古びた紙と埃の匂いが充満している。
誰もいない静寂の中で、彼女は“世界の境界”に関する文献を漁っていた。
「並行世界」という、悠真の口からしか聞いたことのなかった言葉。
量子力学、形而上学、そして……錬金術。
・多世界解釈
・並行宇宙
・異界転移症候群
・エーテルとアストラル理論
・時空を繋ぐ「鍵」の概念
怪しい話ばかりが並ぶ。
けれど、その中には――
“懐中時計を媒介とする異界共鳴”という記述が、確かに存在した。
「共鳴……」
その言葉を呟いた瞬間、懐中時計の写真が保存されたスマホが震えた。
通知はなかった。だが画面が一瞬、わずかに滲んだように見えた。
それは、まるで、遠い世界の悠真が、陽菜の存在を呼ぶような、そんな錯覚を覚えさせる。
(感じた……?)
五感のどれとも違う。
けれど、“そこ”に確かに何かがあった。
空気の密度が変わるような、目には見えない“ズレ”。
それは、悠菜が以前話していた「世界の歪み」と酷似している。
陽菜の理系的な思考が、非科学的な事象を「現象」として捉えようとしていた。
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帰宅途中。
陽菜はふと、悠真が消えた広場に隣接する、ある空きビルの壁に手を触れた。
そこには、黒ずんだ焼け焦げのような跡があった。
それはまるで、熱で溶けたような痕跡。
指を近づけると、ほんのりと、生暖かい熱を感じる。
まるで、何かが“ここから”通り抜けたかのような、異質な痕跡。
(ここから……誰かが抜け落ちた?)
そんな妄想じみた直感が、彼女の中で現実に近づいていた。
悠真は、きっと、ここからいなくなったのだ。
そう確信した時、陽菜の心に、これまで以上の覚悟が芽生えた。
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夜。
自室のベッドに腰掛け、陽菜はノートに一行書き加える。
「藤崎悠真は、“この世界の外”にいる可能性がある」
そしてその下に、もう一行。
「私が、彼を連れ戻す」
その文字は、決して消えることのない、彼女の決意そのものだった。
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彼女は気づいていなかった。
その時、部屋の片隅に置かれた目覚まし時計が、
何の操作もなく――針を、ひとつ、カチリと動かしたことに。
そして、その時計の文字盤には、微かに、
懐中時計と同じような歯車の紋様が浮かび上がっていた。
世界の歯車は、静かに、しかし確かに動き始めていた。
もう一人の“真実”を求める者の手によって。