「カメリア、完璧な令嬢になりなさい。絶対にならないといけないのよ」
物心ついた時からカメリアは、母のフローラからこの言葉を呪いのように言い聞かされてきた。カメリアの1日のスケジュールは全てフローラに決められ、座学やダンスなど教養のレッスンを1日中受け続けた。更に、毎日きついコルセットを着けて食事の制限もされ、常にお腹が空いている状態だった。できない、辛い、やめたい、逃げ出したい。カメリアが弱音を吐こうものなら、フローラは部屋から出ることを禁じ、食事を与えなかった。毎日が苦しく、夜になるとこっそり夜食のサンドイッチを持ってきてくれるニーナの腕の中で泣きじゃくった。
一方、本宅の敷地内にある別邸に住んでいた異母妹のヴィオレッタは、常に愛嬌のある笑顔を浮かべ、母のルイーズからも父からも愛情を一身に受けて伸び伸びと天真爛漫に過ごしていた。ルイーズと一緒に笑顔で庭園を歩くヴィオレッタの姿を、窓の外から見ていたカメリアは、羨望と嫉妬の思いに駆られた。だが、ホワイトリバー侯爵の愛情を盾に、密かに正妻の座を狙うルイーズと、侯爵家の正当な血筋を主張するヴィオレッタへ憎悪を抱いていたフローラは、どす黒く冷たい鋭利な眼差しをカメリアへ向け、囁いた。
「図々しくも穢らわしい女狐の親子とあなたは、住む世界が違うの。見るのも話すのも駄目よ。あなたまで穢れてしまう」
カメリアを帝国一の令嬢に育てあげ、ゆくゆくは皇族に嫁がせようと画策していたフローリアは、ほくそ笑みながら更に言葉を続けた。
「カメリア、あなたはいずれ皇家に嫁ぐの。ホワイトリバー直系の血筋を受け継いだあなたなら絶対にできるわ。そうなったらあの人は妾を捨てて私の傍で大人しくしているはずよ」
フローラの言葉はカメリアの心をがんじがらめに縛り付け、母の言う通りに生きなければいけないと思い込むようになった。
10歳を迎える頃には感情と共に涙は枯れていき、フローリアの言う通り完璧な令嬢となるべく一層厳しいレッスンにも耐え続けた。
カメリアは、自由に生きたいという想いを心の奥底にしまい込み、自分の一生は母の欲望を満たすためにあると暗示のように思い込ませた。
それから6年後、16歳になったカメリアは、フローラの思惑通り美しく賢く成長し、帝国一のレディとして知れ渡り、数々の求婚状が届いたが、フローラはそれらを全て断った。社交界のトップである公爵夫人の懐に入ったフローラは、皇族に嫁いだ公爵夫人の親類との縁を結び、第三皇子にカメリアを紹介するお茶会の席を設けることに成功した。
これには父も喜び、普段はルイーズとヴィオレッタにだけ見せる笑顔を、フローラとカメリアに向けた。絶対に婚約させると父の前で意気込むフローラの横で、婚約が現実味を帯びて目の前に近付いてきていることを知ったカメリアは、心の奥底にしまいこんだ想いがふつふつと湧き出てくるのを感じた。
婚約なんてしたくない。
政略結婚なんて嫌。
自由に生きたい。
笑みを浮かべている両親の前で口を開きかけるが、高揚した声音のフローリアに遮られた。
「カメリア、あなたは私たちの自慢の娘よ。あなたが皇族に嫁げば、ホワイトリバー侯爵家は一層高貴な血筋になって、お父様の事業も更に繁栄するわ」
父はすっと笑顔を引っ込め、眉間に皺を寄せて鋭い眼光をカメリアに向けた。
「第三皇子の前で粗相など絶対にあってはならない。婚約を申し込まれるよう最大限の努力をするように」
「……はい」
カメリアは表情筋を失くした顔でぎゅっと口を引き結び、頭を下げた。
第三皇子とのお茶会を前に、ドレスを新調すると息巻くフローラと共にカメリアも馬車に乗り、帝都一のブティックへ向かった。高級店が建ち並ぶ中央通りに出る前に、馬車は平民の店が道の両脇に並ぶ小道を通っていった。カメリアは窓から外を覗き、活気溢れる平民たちに目を向けた。声を張り上げて客を呼び込む店員や、笑い声を上げて店員と話す客など、着ている者も店に並んでいる商品も質素で粗末なものだが、貴族社会では見ることができない、気取らない人間らしい姿がそこにはあった。
外の世界に釘付けになっていると、ぼろぼろの服で花を売っている少女が目に飛びこんできた。そのすぐ後に怒声が聞こえ、ぼろきれを身に纏い、パンを抱えたやせ細った少年に、男が太い棒で殴りかっている場面を目にした。
「盗人め! ガキだからって容赦しないぞ!」
怒りをあらわにした男の声が遠ざかっていく。
「カメリア、外を見るのはやめなさい。平民は見るだけでも目が腐りそう」
カメリアは窓から目を逸らし、先ほどの少女と少年のことを考えた。
きっとあの子達はスラム街の子供たちよ。私はあの子達に比べたら恵まれているわ。
質の良い最高級ドレスを着て、最高級の料理を食べ、広い邸に住んでいる私は、持てる側の人間。持てない者より良い生活を送って豊かな人生を歩んでいる。
そのはずなのに、心は空っぽ。人間らしい笑顔や生きることに必死な顔で生きている平民の方が、自由な人生を生きているように見える。
豊かな生活が保障されている代わりに、人間らしい感情と自由ははく奪される。貴族家に生まれたからには、自分の意志とは関係なく家のために生きることが義務なのだから私もそう生きるべきなのよ。
自分自身に言い聞かせるカメリアだが、心の奥底に閉じ込めた想いが再び顔を覗かせ、囁きかける。
持てるものとして一生を誰かのものとして過ごさないといけないの?
自分の意志がひとつもない不自由な生涯を送らないといけないの?
耳を塞いでも、聞こえないふりをしても、静かな水面にひとつ小石を落としただけで大きく広がる波紋のように、目を背けてきた欲望が心の中に広がっていく。
自由が欲しい。誰のものでもない自分のためだけの人生を歩みたい。
カメリアの中で欲望の声が響いた瞬間、馬車の馬が嘶く声と御者の叫び声が聞こえたと思ったら馬車は大きく横に傾き、横転した。
気づいたら、潰れた馬車の残骸に押しつぶされ頭から血を流した母が上に覆いかぶさっていた。
「お、お母様」
手を伸ばそうとするが、全身が痛んで動かすことができない。痛みで意識を失いそうになっていると、母の傍にしゃがみ込む男の姿がぼんやり見える。母は血で真っ赤になった顔を上げて男に何かを言い、男が頷き、カメリアの方に手を伸ばしてきた。そこでカメリアの意識は薄れていき、目の前が真っ暗になった。