曇天の空からザー、ザーと雨が降り注ぎ、静かな朝食の席に雨音が響く。肉やスープ、パンなどが並ぶ豪華な食事を前に、ナイフとフォークを動かしながらアリスターは上座の皇后と、自分の向かいに座っている異母弟の第二皇子レオリックをちらっと見た。
薄紫の髪を結い上げ、ルビーのように赤い瞳と真っ赤な唇のリリス皇后は、アリスターが生まれる1年前に隣国から側室として嫁いできた。その翌年に身ごもり、皇族の証である煌めく金髪とリリスと同じ赤い瞳を持つレオリックが生まれた。
リリスはレオリックを皇太子にすることを望んでおり、表向きには将来皇帝になる兄を支えるためという名目で後継者教育を受けさせている。
だが、当のレオリックは事あるごとにプレッシャーをかけてくる母親に気圧され、自分に自信がなくいつもおどおどしている。今もリリスの方をちらちら見ながら食事を口に運んでいる。
アリスターは、幼い頃「兄上!」と笑顔で自分の方に駆け寄ってきたレオリックを思い浮かべた。アリスターの母、前皇后のラヴィニアが病で亡くなるまではアリスターもレオリックを可愛がり、リリスからのプレッシャーで泣いているレオリックをよく慰めていた。
「レオリック」
リリスに名前を呼ばれたレオリックは、ビクッと肩を震わせ、ナイフとフォークを置いて怯えた目でリリスを見た。
「な、何でしょうか?」
リリスは口元をナフキンで拭きながら、アーチ状に目を細めてレオリックに笑みを向ける。
「あなたもそろそろ婚約をしてもいい年齢ですわね」
「しかし、私より兄上の方が先だと思うのですが」
レオリックが上目遣いでアリスターを窺う。
「どちらでも構わないのですよ。陛下が病に臥せっている今、アリスター殿下は次期皇帝としてやるべきことが山積みでしょう。レオリックが先に妃を迎えて、妃と共にアリスター殿下を支えて差し上げれば良いのではないですか? アリスター殿下もそう思われますよね?」
狐のようなすっとした流し目を向けられたアリスターは、ナフキンで口元を拭いて席を立ちあがった。
「さあ、どうでしょう。私の婚約も、レオリックの婚約も最終的に決めるのは父上、皇帝陛下です。私は陛下のご意志に従いますので。それではお先に失礼致します」
アリスターは一礼をして食堂を去って行った。
リリスはナフキンをぎゅっと握りしめ、赤い唇を引き結ぶ。アリスターが出て行った先をぼうっと眺めているレオリックに、リリスはびしっと言い放った。
「しっかりなさい!」
レオリックが目をギュッと閉じて背中を丸める。リリスは壁際に控える侍女たちに聞こえないよう声を落として囁いた。
「あなたの方が皇太子にふさわしいといつも言っているでしょう」
暗い顔でびくびく怯えるレオリックに、リリスは、はあーと溜め息をつく。ドレスの袖から、赤いバラの細工が施されたエメラルドグリーンの小物入れを取り出して蓋を開ける。中には小さく折り畳まれた紙があり、リリスはそれをレオリックに渡した。
「さあ、これを飲んで落ち着きなさい」
レオリックは紙を広げ、包まれていた白い粉を口に入れて水で流し込んだ。暗かった表情が徐々に明るくなり、アリスターに似ている美形の顔に機嫌の良さそうな笑みを浮かべた。壁際の侍女がぽうっと頬を染める。
「ありがとうございます、母上」
「いいのよ。あなたはいつも頑張っているから、疲れが出やすいのよね。よく効く薬が手に入って良かったわ」
リリスはにんまりとほくそ笑み、小物入れのバラの細工を長い指でつーと撫でた。
陛下の寝室の前にアリスターが立つと、扉の両脇に立っている騎士が敬礼をして扉を開けた。
広い室内の奥にある天蓋付きのクイーンサイズのベッドに、ジャレス陛下が横になって目を閉じている。アリスターはベッド横の椅子に座り、浅い呼吸をしているジャレスをじっと見つめた。
「父上……」
そこへ医師が入って来て診察をするが、重々しい表情を浮かべる。
「どうだ?」
「申し上げにくいのですが、、良くなる気配はありません。むしろ……」
医師は首を横に振って言葉を濁した。頬がこけ落ち、土気色の肌をしているジャレスを見て、アリスターは奥歯を噛みしめて両拳を握りしめた。
雨が降りしきる窓の外を眺めながら、ナディアはソファーの背もたれに背中を預けてうーんと首を捻った。ナディアの隣に座ってケーキを食べていたウンディーネが首を傾げてナディを見た。
「どうしたの? 悩みごと?」
お茶を淹れていたソフィーがぴくっと反応し、床に膝をついてナディアの手を取った。
「ナディア様、もしやまたまた主君ですか?」
向かいに座ってティーカップに口をつけているセラフィナが、くすっと笑った。
「この前やらかしたんだからぁ、レイ様だってそこまでまぬけじゃないわよぉ。ねぇ、ナディア様?」
ナディアは苦笑を浮かべ、頬をぽりぽりかく。
「この前のことは勘違いした私が悪いのよ」
「そんなことないよ! 勘違いさせる方が悪い!」
「そうですぞ。他の女子の頭を触るなど言語道断」
「そうよぉ。しかもぉ、二股じゃないかって疑っちゃうほど親密そうだったって、もうアウトじゃない?」
「孤児院で育ったお友達、というより、家族みたいに近い関係だと思うから、親密に見えて当たり前よ」
ナディアの脳裏に、レイヴノールを見ながら頬を染めるネリの顔がよぎってもやっとした思いが沸いてくるが、それ以上考えないように首を横に振った。
「ナディアは優しすぎるよ」
ウンディーネがナディアに抱き着いてくる。ソフィーはナディアの手を握ったまま目を吊り上げた。
「お怒りになってもいいのですぞ」
「私なら頬を平手打ちしてしばらく口きいてあげないわぁ」
頬を膨らませて言うセラフィナに、ウンディーネはさっと片手を上げた。
「それいいね! やっちゃおうよ」
ソフィーとセラフィナも頷く。ナディアはウンディーネとソフィーの頭を撫でて微笑んだ。
「みんな、私のことを思ってくれてありがとう。でも、本当にいいの。悩んでいたのはそのことじゃなくて、指輪のお返しをどうしようかと思って。この間街に行ったけど、結局見つからなかったの」
ソフィーは立ち上がり、紅茶を注いだカップをソーサーの上に乗せてナディアの前に置いた。
「すっかり忘れていましたぞ。そのために街に行ったのでしたな」
「ナディアは本当に優しいんだから。レイは、ナディアからもらえれば何でも嬉しいと思うよ。そうだ、水風船なんてどう? 僕が作ってあげるからレイに渡す時に顔に投げつけてよ。風船が割れてレイはびしょ濡れ。ひひひっ」
いたずらな笑みを浮かべるウンディーネに、セラフィナとソフィーも同意して、真剣に水風船作戦を立て始めようとしたので、ナディアは慌てて3人を止めた。
「そんなことしないわよ。お返しはもう少し考えてみるわ」
「えー、やらないの? 絶対おもしろいよ!」
「お優しいナディア様の代わりに、私たちで決行するのもよいかもしれぬ」
「いいわねぇ。ナディア様も想像してみてぇ。水風船で濡れるレイ様のことぉ」
3人が一斉に水風船を投げつけた途端、風船が割れて全身びしょぬれになって情けない顔をするレイヴノールを思い浮かべたナディアは、思わず笑いが込み上げてきた
「ふふふふっ、ちょっとおもしろいかも」
「だよね! 水風船サプライズやろうよ」
キラキラした眼差しで見つめられたナディアは、うーんと考え込む。
「こら、ウンディー。ナディア様が困っておられるではないか。やはりここは私たちだけでやるべきじゃ」
「さっきは笑っちゃったけど、あんまりレイヴノール様をいじめないであげて」
ナディアに止められ、ソフィーは残念そうにしゅんと肩を落とした。
「そんなに気落ちしないでぇ。ナディア様がそう言うなら仕方ないじゃないのぉ。あら、もうこんな時間」
セラフィナが机の上の置時計を見て、口元に手を当てる。
「ずっと雨で外が暗かったから、時間の感覚狂うよね。ボクは雨好きだからいいんだけどさ」
ウンディーネはソファーから立ち上がり、窓の外を見た。
「ナディア様、お休みの準備を致しますぞ」
気落ちしていたソフィーはすっと立ち上がり、しゃんと背筋を伸ばした。
「お休みなさぁい、ナディア様」
「お休み~」
手を振って部屋を出て行くセラフィナとウンディーネに、ナディアも「お休みなさい」と手を振り返した。ソフィーはてきぱきとティーセットや食器をワゴンに入れて片づけ、ナディアを夜着に着替えさせ、ベッドを整えてあっという間に就寝の準備を終えた。最後に、雨が降り続く窓の外をちらっと見てからカーテンを閉め、ベッドに横になるナディアの傍に来た。
「ナディア様、今のところ雷の音は聞こえませぬが、雨の音が嫌でしたら、今日は一晩中お傍についていますぞ」
「大丈夫よ、ソフィー。あの屋根裏部屋と違ってあまり外の音は聞こえないし、ここに来てから夢みたいな楽しいことばかりだからもう怖くないと思うわ。それに、ソフィーも休まなくちゃ」
「私のことは良いのですぞ。無理しないでくださいませ」
「本当に大丈夫よ」
「では、何かございましたら、私を呼んでくだされ。すぐ駆けつけますぞ」
「ありがとう、心強いわ。お休み、ソフィー」
ソフィーは一礼をして部屋を出て行った。
さっきまで3人と笑いあって賑やかだった室内は一気に静まり返り、思った以上にザー、ザーと強い雨音が響く。気のせいか、遠くの方でゴロゴロと小さな雷の音まで聞こえてきた。ナディアは目を閉じて布団をギュッと握りしめ、自分を鼓舞するように呟く。
「大丈夫、大丈夫」
寝ようとすればするほど雨音が気になって眠れず、雷の音が徐々に近づいてきているように感じる。
ナディアは布団を頭まで被って目を閉じた。
「ナディア」
優しい声で名前を呼ぶ母の声が蘇ってくると同時に、激しい雨のなか雷が落ちて地面が割れ、母が暗い崖の下へ落ちていく光景が浮かんでくる。
「はっ、はっ、はっ」
浅い呼吸を繰り返し、目には涙が溢れてきた。さっきまで笑い合っていたソフィー、ウンディーネ、セラフィナのことを思い出そうとした途端、窓の外でゴロゴロゴロと大きな雷の音が聞こえ、ピシャーン、ドカーンと落ちる音がした。
ナディアは布団を被ったまま起き上り、ソフィーを呼ぼうと震える足でドアまで行き、思いっきりドアを開けた。
「ソ……あら?」
ソフィーの名前を呼ぼうとしたが、どう見ても廊下ではなく、灯りの灯った室内にいることに気づいた。後ろを振り返り、今開けてきたドアを見つめる。
「もしかして、レイヴノール様のお部屋?」
慌てて自分の部屋に戻ろうとした時、背後から名前を呼ばれた。
「ナディア?」
ナディアが振り向くと、胸元の開いたバスローブを羽織り、髪から雫を滴らせているレイヴノールが不思議そうな顔で立っていた。
「キャーッ!」
ナディアは布団で目隠しをしてその場にうずくまる。
「ご、ごめん! これは、湯浴みしてたからでって、すぐ着替えるから待ってて!」
レイヴノールは自分の恰好を見て顔を赤らめ、ソファーの背もたれにかけてあるシャツとパンツにあたふたと着替えた。
「着替えたよ。驚かせてごめん」
ナディアは布団を脱いで立ち上がり、レイヴノールに頭を下げた。
「すいません。私が悪いのに、悲鳴をあげてしまって。それに、こんな時間に入ってきてしまって」
「いやいや、夫婦なんだからいつ来ても大歓迎だよ」
「ほ、本当は廊下に出ようとしたんです! 間違えてこちらのドアを開けてしまって。すぐ戻りますので!」
踵を返すナディアの腕を、レイヴノールが握って引き留めた。
「ちょっと待って。何かあった? 顔色が悪いよ」
雷の音が鳴り、ドーンという音がしてナディアはビクッと体を震わせる。レイヴノールはナディアの手を引いてソファーに座らせた。
「すいません。雷が、怖いんです。母の最期を思い出して、震えが止まらなくて、い、息もしづらくて」
はあっ、はあっと苦しそうに呼吸をして胸に手を当て、ぶるぶる震えるナディアをレイヴノールはそっと抱きしめた。
「大丈夫。俺の呼吸に合わせて、ゆっくり息を吸って、吐いてごらん」
ナディアは言われたとおり、耳元で呼吸をするレイヴノールに合わせて呼吸をした。しばらくして呼吸が落ち着くと、レイヴノールに抱きしめられていることに気づき、ナディアの心臓はバクバクと早鐘を打った。
「落ち着いたみたいだね」
レイヴノールはナディアから離れ、優しい笑顔を浮かべた。ナディアは恥ずかしさで目を合わせられず、下を向いてお礼を言った。
「ありがとう、ございます」
「俺も孤児院で暮らし始めた時は、夜になると暗い海に落ちていく両親を思い出して発作を起こしていたんだ。そのたびにケイドリック先生が今みたいに落ち着かせてくれたんだよ」
「あっ、そうだったのですね」
早鐘を打っていナディアの心臓はすんと静まり、冷静さを取り戻した。
「遅い時間にすいませんでした。ご迷惑をおかけしてしまって」
「迷惑だなんて思ってないよ。怖いことがあったらいつでもおいで。1人で抱えきれないことは2人で分け合うと軽くなるものだよ」
レイヴノールはナディアの頬に触れ、涙の筋を親指で拭う。ナディアはドキッと胸が高鳴り、また心臓が早鐘を打つ。
布団を握りしめてさっとソファーから立ち上がり、すすすっとドアの前まで早足で行った。
「あ、ありがとうございます。もし、また、今日みたいなことがあれば、今度はタイミングを間違えないようにしますので! お休みなさい!」
ナディアはさっとドアを開けてバタンと閉めた。
「あっ、行ってしまった」
閉められたドアを見つめ、レイヴノールはふっと笑みを浮かべた。
ナディアはドアの前でしゃがみ込み、布団に顔を埋めた。
「何でこんなに心臓がドキドキするの。怖い時とは違って体が熱くなるのはどうして……?」
まだ雨は降り続き、雷もゴロゴロ鳴っているが、ナディアの耳には自分の心臓の音しか聞こえなかった。