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第4話 裏切りの代償

居酒屋の外、冷たい夜風が襟元に吹き込むが、浩一は寒さを感じない。

胸腔に燃える火は、美由紀のヒステリックな声が油を注いだものだ。

裏切りの代償?システムの冷たい任務プロンプトは毒を塗った針のように、彼の心の最も腐った古傷を正確に突き刺す。

「妻・美由紀の不倫の確証を入手する…72時間か…」

浩一は街角の冷たい壁に凭れ、ネオンの光が顔に変幻する影を落とす。

怒り?いや、それは安っぽすぎる。

今、彼の全身を満たすのはもっと冷たく、もっと粘っこいもの——長く騙されてきた屈辱と、ついにその仮面を自ら剥いでやるという興奮。

300万円と「威圧」なんて、目前に迫る清算に比べれば、彼の血を沸かせるには程遠い。

金は最高の武器だ。

浩一は迷わず、翌朝、新宿三丁目の目立たないオフィスビルにある「黒曜石探偵事務所」に足を踏み入れる。

受付の女性の職業的な笑みは、浩一が差し出した膨らんだ封筒を見た瞬間、心からのものに変わる。

封筒には、近くのコンビニATMで引き出した30万円の現金が詰まり、新札特有のインクの匂いが重苦しい空気に漂う。

「この藤田が誠意をもって対応させていただきます」

精悍な体つきの、鷹のような鋭い目をした中年男性がすぐに応接室に現れ、テーブルの厚い札束を一瞥したが、表情を一切変えない。

「ご用件を単刀直入にどうぞ。うちは効率重視ですので」

浩一は無感情に、他人事のように淡々と述べていく:

「対象は妻の美由紀。佐藤美由紀だ。過去3ヶ月、岡田という男、フルネームは岡田健太と呼ぶらしい、とある貿易会社のエリートだ——この男との接触記録を調べてくれ」

浩一は続けて言い放つ。

「時間、場所。写真と録音を頼む、もちろんはっきり聞き取れるなほどいい。特に今日の午後…」

浩一の動きが一瞬止まり、頭の中でシステムからの「暴力傾向」の警告がよみがえった。

「そして…岡田という相手だが、危険性の評価をしてくれ」

藤田の口角が、すべてを察したようにわずかに持ち上がる:「承知しました。岡田健太、風間貿易のマーケティング課長、評判は…ふむ、面白い。お任せください、今週中、早ければ明日にも初回の報告をお届けします。では手付金を頂戴します」

彼は手早く封筒をしまう。

金は鍵となり、閉ざされた世界を解錠していく。知りたかったことが、自ずと姿を現す。

午後4時を少し過ぎたところ、スマホに暗号化されたメールが届く。

藤田の効率は驚異的だった。メールには高倍率の望遠レンズで撮られた十数枚の写真:銀座の高級レストランで、美由紀と岡田は人目を気にする様子もなく、何かを囁き合っていた。六本木のブティックでは、岡田が彼女の腰を抱き寄せ、さりげなくカードを差し出す。そして、渋谷の高級ホテルの地下駐車場。密閉された車内で、二人の唇はためらいなく重なっていた。

時間、場所は明確に記録されている。最後数枚は、岡田の顔と、スーツの下に隠れた筋肉のラインに焦点を当てる。添付には短い録音、背景は騒がしいレストラン。

美由紀の甘えた声が耳障りに響く:「……浩一?あの使えない人の話、やめてよ。気分悪くなるわ。母の誕生日会すら出せなかったくせに、岡田君とは大違いよ」

藤田の備考が最後につく:【岡田健太:空手三段。過去に暴行傷害事案で2件の前歴あり(いずれも被害届取り下げにより不起訴)。性格傾向に強い執着性・独占欲を認める。接触時には十分な注意を要する】

妻が見せたことのない笑顔を、別の男に向けている――その写真を見た瞬間、浩一の内側に氷のような感情が押し寄せ、次いでそれを打ち砕くように破壊の衝動が燃え上がる。

システムが記録した「暴力傾向」の文字が、今ほど的確だったことはない。そしてそれが、逆に彼の性に火をつける。

夜7時。

池袋「ロイヤルガーデンホテル」最上階のフレンチレストラン「Lumière」。

水晶のシャンデリアが眩しく冷たい光を反射し、空気には高価な香水と微かな管弦楽が漂う。

ここは東京でも有数のデートスポットであり、美由紀のLineステータスに「大切なディナー」と記された場所だ。

浩一はスーツではなく、ダークグレーのカシミアコートを選んだ――システムポイントを現金化して手に入れたものだ。黒のハイネックと合わせ、整えた髪で普段の無精さを丁寧に隠していた。

何よりも変わったのは、その目だった。かつての従順と無感覚は跡形もなく、いまは深い潭のように静まり返りながら、内に荒れ狂う嵐を秘めている。

浩一はウェイターの視線を無視し、鋭い視線で場内を一瞥すると、標的はすぐに見つかった。

窓際の上席――夜景が見える席だ。

美由紀は、宝石のようなサファイアブルーのオフショルダードレスを纏い、隙のないメイクを施していた。その艶やかな姿は、背の高いオールバックの男の腕に自然と絡み、誰にともなく笑顔を振りまいていた。

岡田の片手は美由紀の細腰に絡み、もう一方の手にはワイングラスを優雅に携えていた。その姿勢には、誰に見せるでもない傲慢さが滲む。

隣には美由紀の母が控え、いつもの高飛車な視線は影を潜め、岡田に向けた微笑は妙に湿っぽい。顔の皺のひとつひとつが、媚びへつらいに変わっていた。

浩一は歩み寄る。革靴が厚いカーペットを踏む音はしない。

テーブルの上に広がる影に気づき、三人はようやく顔を上げた。そこに立っていたのは、ありえないはずの人物――佐藤浩一。

美由紀の唇が笑みを保ったまま凍りつき、次の瞬間には目を見開く。

「……浩一?どうして……ここに?」

声には驚きと明らかな苛立ちが滲んでいた。

「まさか、尾行でもしたの?気持ち悪い……ここは、あんたみたいな人間が来る場所じゃないのよ。帰って!」

義母の反応はもっと直接、機関銃のような口:「浩一!その人様の服、どこで盗んだ?それともレンタル?こんな格好でタダ飯食いに来た?鏡見てみなさい!岡田君はビジネスの話をしてるのに、あんたみたいな輩はさっさとここを出なさいな!この恥さらし!」

彼女の鋭い声が周囲の客の視線を集めた。

岡田健太はワイングラスを置き、目を細め、浩一を値踏みし、軽蔑の冷笑を浮かべた。

「あぁ。あなたが美由紀の夫でしたか?今日、会社を辞めたって聞きましたよ?仕事がなくて、美由紀にたかりに来るのは感心しませんが、それとも…」

彼は身を少し前に傾け、圧迫感を放つ。

「トラブルを起こしに来たのか?」

テーブルの下の手が動き、筋肉が主張する。

浩一の視線は氷の探針のように、3人をゆっくりと見渡す。彼は義母の罵声も、美由紀の叫びも無視し、視線を岡田健太の顔に固定し、口元に温度のない弧を描く。

「岡田?」

浩一の声は高くないが、バックグラウンドミュージックと義母の騒音を突き抜けるほどクリアだ。

「ああ、風間貿易のマーケティング課長?空手黒帯三段?そうだ、2回ほどムショに入りかけた『輝かしい記録』もあったと聞いたが?」

顔が一瞬で陰る岡田が怒りを爆発させる前に、浩一はスマホを取り出す。

指先が画面を軽くタップし、画面を美由紀と岡田に向ける。

そこには、今日の午後、渋谷のホテル駐車場で熱烈にキスする二人の写真があった!角度は巧妙、二人の顔はくっきりとして鮮明だった!

テーブルの空気が凍り付いた。

美由紀の顔は瞬時に紙のように白くなり、唇が震え、言葉が出ない。

義母の罵声がピタリと止まり、首を絞められた鶴のように、恐怖で写真と、顔を真っ青にする岡田を見る。

「これは…捏造ね!加工写真よ!!」

美由紀がやっと声を取り戻し、叫び、スマホを奪おうと手を伸ばす。

浩一は軽く避け、指先が再びタップ。静かなレストランの一角に、鮮明な録音が響く。美由紀の声:「…浩一のあの役立たず?言わないでよ…」

「パン!」

浩一はスマホを白いテーブルクロスの上に叩きつけ、鈍い音を立てる。同時に、もう一方の手がコートの内ポケットから折り畳まれた書類を取り出し、「シャッ」と広げ、美由紀の前の皿の横に叩きつける。

『協議離婚合意書』。

署名欄には、浩一の名が鋭い筆跡で記されている。

「……美由紀」

浩一の声は、冬の凍てつく風のように刺すような冷たさを帯びていた。

強張る彼女の顔をちらりと見やり、次に岡田の怒気に満ちた顔を無感情に見下ろす。

「この書類にサインしろ。身一つで出ていくか、それとも――地獄を共に見るか、選べ」

彼は身を屈め、美由紀の耳元に近づき、二人だけに聞こえ、岡田に冷たい息吹を感じさせる音量で言う:

「…この写真と録音、明日には風間貿易の社内ネットのトップページと、岡田課長の奥さんのスマホに届く。選べ」

美由紀の肩が細かく震え、頬を伝う涙は止まることなくあふれた。

恐怖に縛られ、絶望に覆われ、仮面を剥がされた羞恥に椅子に座ったまま耐えていた。

岡田が椅子を跳ね飛ばすように立ち上がり、血走った目で怒鳴った。

「ふざけんなッ……死ね、この野郎ッ!」

岡田が怒声を上げる寸前、浩一はゆっくりと身を起こし、静かにその視線を受け止めた。

冷気のような沈黙が彼の周囲に立ちのぼり、言葉にせずとも、そこに“何か”があると誰もが察する。

それは筋肉でも体格でもない。骨の奥に棲む、獰猛な獣のような警告――岡田の拳は振り下ろされることなく、空中で止まっていた。

驚きと疑惑で浩一を見つめた岡田は、初めてこの男を認識した。

【任務達成:裏切りの代償】

【報酬:3,000,000円が送金済み。】

【解放:初級威圧オーラ(パッシブ)発動中(与える圧迫感をわずかに向上させる)】

冷たい電子音が脳内で響く。

空気が凍るような静寂のなかで、浩一は目の前の人間たちの瓦解を見届けた。

岡田の眼に宿る恐れ、美由紀親子の顔が見る間に蒼ざめていく。

彼の口元に浮かんだのは、怒りでも哀しみでもない、冷ややかな勝者の余裕。

清算は、始まったばかりだ――。


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