冷たい電子音が浩一の脳内で消え、口座残高の跳ねる熱い数字が残る——3,048,723円。
なんと、300万円が振り込まれたのだ!
豪奢な椅子にもたれ、美由紀は崩れ落ちるように座っていた。
頬を伝った涙は、精緻に仕上げたメイクを溶かし、その下からは蒼白な、あまりにも人間的な脆さが露わになる。義母の口は何度も開閉を繰り返すが、声は空気に溶け、誰の耳にも届かなかった。
岡田健太、空手の黒帯エリートは、顔の筋肉が引きつり、赤い目で浩一を睨んでいた。
握り潰した拳は青筋が浮くが、無形の鎖に縛られたように、空中で振り下ろせない。
浩一の新たに得た「初級威圧オーラ」が無音で広がる。
それは声でも、動きでもない。
しかし確かに岡田の神経を締め上げ、冷たい鉛のように重く、じわじわと肺を圧迫してくる――あの“虫けら”の男が、今や捕食者の眼を持っている。
岡田の背中を、冷たい汗が這った。
「選べ」
浩一の声は高くないが、凍りついた沈黙をメスのように切り裂き、美由紀の蒼白な顔を一瞥し、最後に『協議離婚合意書』に視線を落とす。
「サインするか、このまま身を滅ぼすか、選べ」
美由紀の唇がかすかに震え、何かを叫ぼうとした声が喉の奥で掠れる。
だが、スマホの画面に映る――岡田との、言い逃れのできぬ裏切りの証――が、彼女の全てを押し黙らせた。
机上のペンをつかみ、震える手で協議書に名を記す。
その筆跡は、まるで崩れ落ちる魂の軌跡だった。
彼女は岡田の顔を見ることすらできずにいた。
「いいだろう」
浩一は協議書をしまい、まるで期限切れの書類を処理するように流暢だ。
彼は岡田に一瞥もくれず、静かに踵を返す。
その背は、水晶の光を浴びながら堂々と伸び、床に長い影を落とす。
かつて彼を押し潰した上流という虚飾の檻――今、己の足で踏み砕き、背を向ける。
背後で、義母の悲鳴が割れ、岡田の低いうなりが獣のように響き、食器の砕ける音が、幕切れの鐘のように響いた。
浩一は口元に弧を描いた。
清算は始まったばかり?いや、彼女たちにはもう終わりだ。これ以上エネルギーを無駄にする価値もない。
ポケットのスマホが振動する。雇った探偵の藤田からのメールだった:
佐藤様
――先刻、ホテルを退出後、岡田が黒道関係者と思しき人物と通話を交わし、貴方に対する強い怨念を口にしております。風間貿易の内情にも一定の繋がりがある様子。身辺の警戒をお忘れなきよう。
あわせて、かつての上司だった小山雄一郎に関する動向もご報告いたします。
彼は先月、黒田精工において重大な判断ミスと社内評判の悪化を受け、「名誉ある退職」の名を借りた事実上の放逐を余儀なくされました。
現在の居所は、新宿歌舞伎町の一角――
かつての栄光など微塵も感じさせぬネオンの裏手、クラブ『月光』。
その雑踏と煙の漂う深夜の舞台で、彼は今、清掃主任としてモップを握っています。
煌びやかな光の下、曇ったフロアを擦るその手は、もはや誰の記憶にも残らぬ過去を掘り返している。
天井から降り注ぐ轟音と眩暈のような光線は、この場所が善も悪も溶かす欲望の坩堝であることを物語っていた。浩一は半個室のカード席の隅に座り、最も高価なビンテージウィスキーを注文する。
琥珀色の液体がアイスボールの上を流れ、オークの濃厚な香りを放ち、周囲の喧騒とまるで不釣り合いだ。彼はもう、数百円を節約するために缶酒を飲むペコペコする社員ではない。
300万円を手にし、初級威圧オーラを身にまとい、彼はこの俯瞰する姿勢に慣れる必要がある。彼は復讐のために来たのではない。
そんな蛆虫は、わざわざ足を運ぶ価値もない。彼はただ、金がもたらす、まったく異なる「自由」を感じる場所が必要だった。
「あなた、おひとり?」
掠れているが艶のある女の声が脇で響く。
浩一は視線を上げ、タイトなスパンコールのミニドレスを着た女が酒杯を手にカード席に凭れる。火のような体つき、濃いメイク、職業的な挑発の目、だがその奥に疲労が隠れる。店の常連の女性客リナ。
「ああ」
浩一は淡々と答え、ウィスキーの杯をかざす。
彼の視線は冷静で、他の客のような露骨な欲望はなく、リナを一瞬戸惑わせる。
「一杯、奢ってくれる?」
滑り込むように座り、身体をさりげなく近づけ、リナの濃厚な香水が漂う。
「ひとりで飲むのはつまんないでしょ」
浩一は断らず、ウェイターに杯をもう一つ持ってくるよう指示する。彼が酒を注ぐ動作は気軽で、値の張るビンテージウイスキーがまるでミネラルウォーターのようだ。
リナは一口味わい、浩一を値踏みし出した。
この男、矛盾している。
服は質がいいが派手じゃなく、気質は物静かでここに遊びに来るような人間じゃない。
そして目の奥に…彼女をビクッとさせる何かがある。
特に彼がダンスフロアを一瞥する時、不意に漏れる冷淡と審視が、彼女をスポットライトの下で裸にされたように感じさせ、職業的な笑みが初めて硬くなる。
「ねぇ、『月光』に初めて来たの?」
リナは不安な沈黙を破ろうとする。
浩一は答えず、視線はリナの肩越し、ダンスフロアの端に固定される。
安っぽく、サイズの合わない清掃員の制服を着た、猫背の人物が、床にこぼれた酒と嘔吐物を必死にモップで拭いている。
薄暗い照明だが、脂ぎった薄い髪、肥満した体型、卑屈な労働中でも諂いと怯えを帯びる顔——元黒田精工製造部長、小山雄一郎!
人生とは不思議なもので、どこで再会するかわからない。
浩一の口元に、冷たい弧が再び浮かぶ。彼は杯を手に、興味深く見つめる。
酔った客が小山にぶつかり、手の半杯の酒が小山の顔と服に飛び散る。
「どこを見てんだよ?!どけ!汚ねぇな!」
酔客は罵り、小山を押しやる。
会議室で威張り散らし、他人の尊厳を蔑ろにしていたあの男が、今はただの濡れ鼠。
制服は酒で染まり、脂でべたついた髪が額に貼り付いていた。小山はすでに、怒る資格すら失っている。
「申し訳ありません……本当に、申し訳……!」
その姿には、かつての浩一を凌ぐほどの卑屈さが垣間見えた。
リナは浩一の視線を辿って察した。
「ああ、新しく来た清掃リーダー、昔は大企業の部長だったって?ずいぶんと落ちぶれたよね。高利貸しの借金があって、妻に逃げられたんだって。それに、今ではこんな仕事しかないんだから、ちょっと可哀想」
その声には軽蔑と上辺だけの同情が混じる。
「可哀想?」
浩一がやっと口を開き、声に遊び心が混じる。彼は杯を軽く置き、立ち上がり、服を整え、ダンスフロアの端へ向かう。
リナが呆然と立ち尽くす中、浩一はゆっくりと歩み出た。
小山の前に立ち、拭き掃除の道を無言で塞ぐ。
小山は反射的に謝罪し、すり抜けようとするが、その顔を見た瞬間、電気に痺れたようにその場で固まった。
「さ、佐藤……?」
その声は悲鳴と見紛うほど高く裏返り、喉を締められた鶴の鳴き声のようだった。
周囲のざわめきが、瞬時に静寂に変わる。人々の視線が一点に集まり、小山の卑屈な表情が羞恥に染まって崩れていく。
浩一の眼差しは、地面に転がるゴミを眺めるように冷ややかだった。
彼は黙り、ゆっくりとダークグレーのカシミアコートのポケットから、新札の詰まった膨らんだ封筒を取り出す——今日、藤田探偵に支払った後、残った20数万円の現金。
彼は一枚の一万円札を抜き、動作はゆっくり、ほぼ残酷な優雅さを帯びる。
そして、全員の驚愕の視線、リナの口を覆う視線、酔客の見世物を見る笑み、小山雄一郎の極端な羞恥と恐怖で震える視線の中——浩一は指を緩める。
新品の、かつて彼には手の届かなかった富を象徴する一万円札が、秋の枯葉のようにひらひらと舞い、小山が拭いたばかりの、酒と嘔吐物が混じる汚れた地面に、正確に落ちる。
札の端が、汚れた液体に瞬時に濡れ、染まる。
「小山部長、」浩一の声は高くないが、バックグラウンドミュージックを突き抜ける、息を詰まらせるような平静さだ。
「あなたの能力は、こういう『ゴミ』の処理にこそ適している」
「拾え。俺からの『退職祝い』だ」
ドン!
羞恥が怒濤のように押し寄せ、小山の表情からすべての色が消えた。
全身の血が逆流したように顔は蒼白となり、額から冷汗がぽとり、ぽとりと床に落ちる。
震えの止まらぬ指先、膝の力さえ抜け落ちたその姿は、もはや人ではなく、打ち捨てられた亡骸に近かった。
その瞳には、かつて彼が見下してきた者への怨嗟と、自らの無残な末路への絶望が、痛々しいほどに刻まれていた。
周囲の視線が無数の針のように、彼をズタズタに刺す。浩一の冷淡な顔を怒号とともに殴りたいが、体は鉛を注がれたように、「威圧オーラ」に縛られ、まるで動けない。
その時、浩一の背後から、冷たくやや怠惰だが、突き抜ける力を持つ女の声が響き、遊び心を帯びる:
「へぇー、金を鞭にして、落ちぶれた犬の魂を叩き砕くのね。あなた、独特な趣味をお持ちね」
空気がざわめいた。
音も匂いも退き、その存在だけが浮かび上がる、鮮明に。
黒のベルベットドレスが、空間に緊張を走らせるように伸び、滝のように流れる黒髪は、雪の肌に妖しく絡む。
そのまなざしは、水面の揺らぎすら拒む凪いだ湖のようだった。
一滴も減っていないシャンパングラスを手に、女はまるで玉座に腰かける女王のように、ただそこに在るだけで場の空気を支配していた。
彼女の周囲だけ、別の時間が流れているかのように静まり、人々の気配が遠ざかった。
その目だけは、ただ一人、浩一の奥底に沈む「何か」へ、静かに、しかし確実に到達しようとしていた。
「神代さま!」
クラブのマネージャーが小走りでやって来たが、その顔は緊張でこわばっていた。
「こちらは騒がしいですので、個室の方へ!すでにご用意しております…」
女――神代凛は、軽く手を上げ、マネージャーを制止する。
彼女の視線は浩一に釘付け、そして唇が開いた。
その声は氷の珠が玉に落ちるように。
「面白い魂は、思いがけない片隅に落ちているものね。特に…『棘』の匂いを放つ魂はね」わずかに首を傾け、浩一のコインが入っているポケットをさりげなく一瞥する。
「差し支えなければ、少し静かな場所で、一杯どうかしら?」
浩一の心臓が、ドクンと跳ねた!
棘の匂い?彼女は…何かを察した?まさか、鬼札システム?
(この女は、一体?! )
まるで運命の糸を手繰るように、神代凛が誘いの言葉を紡いだその刹那――
クラブの入り口が、突如としてざわめきに包まれた。
黒光りするタイトなスーツを纏い、頭を刈り上げにした男たちが、店内へなだれ込んできた。
その肌の下から覗く、禍々しい文様の刺青が、首筋や手首から這い出し、見る者の脳裏に警告を刻む。
鋭く研がれた鷹の目が、喧騒と照明の交錯する空間を舐めるように掃き、一人、また一人と視線をすり抜ける。そして、全員の目が一点に集束した――佐藤浩一。
その視線の先、群れの中央にいた男が、凶相をそのまま顔に貼りつけたような面構えで、ゆっくりと歩み出る。口元に貼りつくのは、抑えきれぬ嗤い。
その手には――くしゃりと握りしめられた、浩一の社員証の写真。
(藤田が警告していた岡田が呼んだ危険人物!)
凍えるような殺気が、首筋をなぞる毒蛇のように絡みつく。
前方には、鬼札の秘密を見透かすような、財閥令嬢・神代凛の底知れぬ瞳。
後方には、裏社会の刺客たちが、明らかな敵意を帯びて出口を封じていた。
リナは蒼白な顔で口元を押さえ、小山は濡れた床から顔を上げ、嗜虐の輝きを宿す。
浩一は静かに立ち上がり、山崎ウィスキーのグラスが澄んだ音を奏でた。
驚きは燃え尽き、代わりに、研ぎ澄まされた狂気が眼差しの奥で灯る。
ポケットに忍ばせた鬼札のコインが、心臓の鼓動のように震えた。
【新たな任務発令:棘の影】
目標:1時間以内に、黒道の追撃を振り切るか、有効に威嚇する。
同時に、「神代凛」という美しき謎の人物と対面する。
報酬:5,000,000円 + 「危機察知(初級)」の解放(パッシブ。命にかかわる危険への予知能力をわずかに向上)
警告:危険レベル上。宿主は慎重に対応せよ。