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第7話 暗影の触手と棘の王座

黒のトヨタ・センチュリーが東京の闇を音もなく走る。


遮音された車内。


雪松の香りに乾いた血の匂いが微かに混じっていた。


浩一はシートに沈み込み、痛む左肩を抱えたまま無言で外の流れるようなネオンを見る。

ネオンの光は、顔についた血と目の奥に残る浩一の本性を照らしていた。


正面に身を崩すような姿勢で座る神代凛は、冷たい精密機械のような目で彼を観察していた。


前後に座るボディガードは無言のまま。

浩一は、その無音の圧に、わずかな動きすら制圧される予感をひしひしと感じていた。


「処理しなさい」

凛の声が響くと、隣にいた男が無言で動く。


取り出されたのは、銀に輝く医療キット。まるでプロのような手際で、顔と肩の傷が冷たい消毒綿に拭われる。


鋭い痛み。


縫合の針が皮膚を貫くたび、浩一は唇を噛み、汗だけが沈黙の苦悶を語った。


神代凛はわずかに唇を歪める。

「耐痛力、悪くないわ。雑草の棘にしては、骨があるじゃない」


浩一は応じない。


やがて車は、霞台の深い静けさに包まれた邸宅地へと入る。


高い塀と鬱蒼たる木々に囲まれた、控えめでいて異様に豪奢な和のヴィラ。


門は音もなく開き、車は滑るように闇の奥へと消えていった――まるで別世界に吸い込まれるかのように。


浩一は無言のまま、ボディガードに導かれ、ヴィラの奥へと進む。辿り着いたのは、窓も景色もない、柔らかな冷光に包まれた部屋だった。


中央には、無機質な手術台のような装置が鎮座している。


「横になって」


何の感情も込められぬ視線のまま、指示される。


浩一が横たわると、壁の方から凛の声が響いた。


「全身スキャン、追跡器除去。それから骨折がないか確認して」


命令に感情はなかった。ただ、冷たく、確実だった。


光線が皮膚を這い、筋肉の奥を通り抜ける。浩一は目を閉じ、己の内に潜むもう一つの存在を感じる。


ポケットの奥深くに潜む鬼札のコインが、静かに脈動する。


そして、脳裏に無機質な“声”が響いた――


【基礎格闘精通(パッシブ)解放済み】


【中級格闘家に相当する反応能力、攻撃技術、打撃耐性を獲得しました】


暖かい奔流がわずかな痛みと共に巡り、無数の戦闘経験が体に刻まれる!


左肩の痛みが軽減し、これまでにない力と万能感を感じながら浩一は目を開く。


「肩甲骨に軽度の骨折。複数箇所の軟部組織に挫傷あり。追跡装置は検出されず」


無機質な電子音が、冷たく淡々と診断を告げた。


数分後、浩一は重厚な扉を抜け、広々とした書斎へと通された。ガラス越しに広がるのは、鳴神湾の煌めく夜景。


その光景を背に、神代凛が書斎の机の後ろに立ち、指先で古びた玉石を転がしている。机の上には開かれたタブレットが置かれていた。


「座って」

凛の指が、対面のソファを指す。


促されるまま腰を下ろした浩一だが、身体の緊張は抜けなかった。


この部屋にいるのは、自分と彼女――そのたった二人という事実が、空気に静かな緊張を満たしていた。


「自己紹介するわ。神代凛。神代グループ常務」


彼女は一呼吸間を置き、鋭い眼光で浩一を射抜いた。


「私の管轄下にある部署は、“特別案件処理課”……表には出せない厄介事を片づけるの――察しがいいあなただから、それ以上の説明はいらないわね」


そう言いながら、彼女は書案の上に置かれたタブレットを回転させ、こちらに向ける。


画面には、一つのファイルがすでに開かれていた。


【対象:岡田健太】


【身分:風間貿易マーケティング課長】


【状態:処理済み。】


【処理方法:重大な交通事故(加害者:無職)。すでに脳死していることを確認。名義下の資金(約1億2千万円)及び風間貿易の株式一部(約3億円相当)、特定ルートでロンダリング後、48時間以内に指定口座(佐藤浩一)に送金】


【関連する脅威:黒崎組(小規模暴力団)には警告済み、関与者(刀傷男等)は『消失』】


冷たい文字が、一つの命の終焉と脅威の抹消を告げた。


神代財閥の仕事ぶりに、浩一は無意識のうちに背筋を震わせていた。


「これが、あなたの“入社祝い”よ」


「これが、あなたの“入社祝い”よ」


そう言って凛はゆっくりと玉を机に置き、浩一を覗き込んだ。


「四億二千万円。……陽の下で新しい人生を始めるには、十分な額でしょ?」


数字の巨大さにではなく、それを容易く用意し、人の生死すら書類の処理くらいの軽さで済ませるような――その冷徹な“力”の在り処に、浩一の心臓はドクリと脈打った。


――なるほど、これが財閥の“ハエ掃除”という意味か。


「……なぜ、俺なんだ?」

声はかすれていた。


「“コインの匂い”があるから?」


「コイン?」

神代凛は小さく笑う。瞳の奥に、戯言を聞いたかのような光が走った。


「それは、ただの表層。私が見ているのは、あなた――“佐藤浩一”という人間なの」


彼女はゆっくりと立ち、書斎の奥にある大きな窓へと歩み寄る。


霞湾の夜景が、宝石のように目下に広がる。


彼女は背を向けたまま、語り始める。


「……妻に裏切られ、上司に踏みにじられ、泥の中に沈んでいた人間が――正体不明の“鬼札”を得た途端、性格が豹変し、数日のうちに非常識な判断力と冷酷さ、さらに常人を超える戦闘直感を発揮するようになった」


振り返るその目に、もはや笑みはない。


「血と絶望に焼かれ、這いずりながらも立ち上がった――その瞬間、人は目覚める。私は、そんな者を“棘”と呼んでいるの」


彼女のヒールの足音が、静かに床を打つ。そのたびに、空気が張りつめていく。


「神代財閥は、大きく育ちすぎた。“枝”は伸び、“葉”は繁る。でも……その影には、這う蔦と、喰らう虫が巣くっている」


そして、彼女は立ち止まり、鋭く視線を突き刺す。


「だから、必要なの。“剪定”よ。静かに、綺麗に――余計なものを、切り落とす」


やがて、凛は正面に立ち止まり、真っ直ぐに浩一の目を見る。


圧力をかけているわけではない。

だが、彼女が言葉を紡ぐたびに、空気の密度がじわじわと変化していく。


まるでこの空間そのものが、彼女の“気”に応じてかたちを変えているかのようだった。


「神代の上層は血に染まってはいけない。その代わりとなる、“棘”のような存在が必要なの。鋭く、狂気を孕みながらも、静かに研ぎ澄まされた殺意を隠せる者――」


言葉を紡ぐ彼女の声音には、揺るぎなき確信と冷徹な宣言があった。


そして、凛の視線が再び浩一を射貫く。


「あなた。私の“棘”になりなさい」


声は静かだったが、それは確かな命令だった。


「神代の影に巣食う毒蛇どもを、根こそぎ刈り取って――」


彼女は一歩引いて、口元に微笑のような影を浮かべた。


「報酬は金。力。人脈……そして、この鉄でできた密林を生き抜き、すべてを見下ろす者だけが手にできる“資格”。それを、あなたに与える」


彼女は静かに身を屈め、雪のように冷たく澄んだ香りが浩一の鼻先を撫でた。

吐息のような声が、耳元で甘く囁く。


「あなたの“コイン”、どこまで価値を示せるのかしら?――さあ、踏み込んで。そこは、選ばれし“棘”だけがたどり着ける王座よ」


その言葉と同時に、浩一の脳内で冷ややかな電子音が静かに波紋を立てる。


【任務達成:棘の用心棒(神代財団の裏の業務を知る)】


【報酬:10,000,000円が口座に送金済み】


【新任務発令:棘の試練】


【目標:72時間以内に神代グループ子会社『星光エンターテインメント』が抱える芸能人恐喝事件に「特別顧問」として介入し、トラブル対応と恐喝者の“適切な処理”を完了せよ】


【報酬:20,000,000円 + パッシブスキル「表情分析(初級)」の解放】


【警告:事件は国民的アイドルグループを巻き込み、恐喝者には反社会勢力との接点の可能性あり。広報危機レベル・極めて高い。行動には細心の注意を払え】


目の前の彼女は、静かに佇んでいた。だがその眼差しは、すべてを見透かすかのように鋭い。


浩一は顔を上げ、彼女の目の奥に宿る冷光と対峙する。

間もなく口座に振り込まれる4億2千万、そして既に手にした1000万。

そして――新たな任務に付随する報酬。体内では“格闘基礎”のスキルが、熱を帯びた波となって静かに巡っていた。


刃のような現実と、毒のような誘惑。

すべてを呑み込みながら、次の脅威が迫っていた。


恐怖?確かに、この巨大な組織の闇への本能的な恐れはある。


興奮?


それは“力”を手にした者にしか味わえない高揚だった。他人に叩き伏せられる側から、己の意思で制裁する側へ。


正義でも倫理でもない、だが確かな“必要とされる使命感”。


もはや彼は、ただ搾取されるだけの社畜ではない。


浩一は「鬼札」の主――神代凛が“棘”と認めた存在だ。


「……で、俺は何をすればいい?」

浩一の声には、凪いだ水面のような静けさと、その奥に潜む刃の冷たさがあった。


凛は初めて唇をほころばせた。それは、美しい花が夜に咲き誇るような、静かな笑みだった。


机に置かれた内線電話を取ると、凛は命じるように伝えた。

「“星光エンターテインメント”の件、その資料を佐藤顧問に届けて」


数分も経たぬうちに、控えめなノックが響いた。


彼女は風のように静かに現れた。


端正な黒のスーツに身を包み、金縁の眼鏡の奥に感情を隠した若い女。フォルダを置く手に一切の無駄はなく、視線は冷たくも鋭い。


だがその奥底に、わずかな期待とも呼べる色が浮かんだ――新たな“異物”への興味。


「浅野茜。私の専属秘書よ」


凛が彼女を紹介した。


「この“試練”には、彼女があなたのサポートをするわ」


そして凛は静かに続けた。


「これからあなたは、神代を“代表する”人間になる。その名に恥じぬよう――思う存分やりなさい、“佐藤顧問”」


「承りました。凛様」

浩一は目の前のフォルダを手に取った。


表紙には、白抜きの文字が踊っていた。


『星光エンターテインメント恐喝事件:極秘調査ファイル』


【星光エンターテインメント極秘事件】


【「純白花蕾」の象徴・小倉ユウナ――その無垢な微笑みの裏に蠢く、“恐喝”の闇。不適切動画恐喝事件】


【恐喝者:黒羽堂(裏社会との繋がり/情報仲介業の黒い噂あり)】


【要求:五億円の口止め料。応じねば、四十八時間後に動画をネット公開】


【現状:広報部は対応が追いつかず。社長は対応に追われ体調を崩している】


浩一はファイルの最初のページを静かに開いた。


そこにあったのは、まるで作られた人形のような清楚な笑みを浮かべる、一人の少女アイドル——小倉ユウナの写真だった。


無垢さを極めた存在、その笑顔の隣に貼り付けられていたのは、高級ホテルのスイートルームで撮影されたとおぼしき、不適切な動画の複数の静止画。


写真はすべて、計算されたアングルと照明によって撮られたものだった。


彼女を断罪するためだけに貼られた“証拠品”──告発ではなく、見せしめのような編集だった。崩れた偶像と、崇拝者たちの掌返しが既に視える。


浩一の脳裏に任務が現れる。


【任務発令:棘の試練】


【報酬:二億円 + 微表情分析(初級)パッシブスキル開放】


今、この瞬間、浩一の中で何かが静かに変わった。


芸能界を根底から揺さぶるスキャンダルに“神代”の名で臨む。その責務の重さが、肩にずしりとのしかかる。


だが同時に、これこそが「力」に近づいた実感――ただの社畜では決して触れられぬ、芸能界を揺るがす影との対面。


ふと、浩一の視線が止まった。


監視カメラの死角で切り取られた少女の顔――小倉優奈。


その表情に、浩一の心が凍りついた。


――恐怖、羞恥、諦め。


だが何よりも強く彼の目に焼きついたのは、心の温度が失われた者だけが持つ“空白”。無感覚の闇に沈む、魂が欠けた瞳。


浩一はファイルをそっと閉じる。

先ほど見た記憶の残像を捨てるかのように息を吐き、脳裏から押し出した。


そして、再び目を開けたとき、そこにあったのは――迷いでも、感情でもない。

ただ鋭く、冷たい刃のように研ぎ澄まされた意志。

遂行者としての覚悟だった。


「黒羽堂――」


低く抑えた声に、怒りがにじむ。

白くなった指先が、抑えきれぬ怒りを物語っていた。


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