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第8話 純白の汚れと黒蛇の牙

霞区にある神代の邸宅。


その書斎には、冷たい空気が漂っていた。


浩一は重たいファイルを閉じた。表紙に映る小倉ユウナの清純な笑顔と、そこに挟まれた目を覆いたくなるような──まさに地獄の光景が、脳裏に焼き付いて離れなかった。


五億円という巨額の報酬が脳内で燃え盛り、[表情分析(初級)]というスキルの誘惑は、まっすぐに彼の心を貫いていた。


「浅野さん」

波風一つ立たたない浩一の声、その目は淡々と立ち尽くしていたOLに向けられた。


「黒蛇メディアと小倉ユウナの過去半年分の詳細な行動記録、接触した人物のリスト、そして……彼女のマネージャーの経歴と弱点を。できる限り早く用意してください」


浅野茜は金縁の眼鏡を押し上げた。その瞳に一瞬、驚きの色が浮かんだ。


泥沼から這い出たばかりで全身に傷を負ったこの男が、驚くほど素早く状況を呑み込み、命令の精度も異常なまでに的確だったのだ。


彼女は小さく頭を下げた。

「承知しました、佐藤顧問。お求めの資料はすでにオンラインの暗号化ストレージに保存済みです。アクセス権限はすでに開放しております。小倉ユウナとそのマネージャーは現在、霞区内の別のセーフハウスに極秘で保護されていますが、精神状態は極めて不安定です」


そして、彼女は続けた。


「黒蛇メディアの公開オフィスは渋谷区・黒栖坂の古いオフィスビル内にありますが、情報によれば、主要メンバーは六本木の会員制アンダーグラウンドクラブ『フクロウ』に頻繁に出入りしています」


「セーフハウスの住所を送ってください……「フクロウ」か?」


浩一はその名に潜む悪意を敏感に嗅ぎ取った。


「はい。会員制のクラブで、背景には反社会的勢力が関わっているとの情報もあります」


茜はすばやくタブレットを操作し、セーフハウスの座標とクラブの情報を浩一の新しいスマートフォンに送信した──神代財団が独自に開発したセキュリティに優れた端末である。


「ありがとう」


浩一は立ち上がるが、左肩の傷が引きつり、眉をわずかにひそめた。だが、彼の眼差しはまるで鞘から抜かれた刀のように鋭かった。



「まずは……『純白花蕾』に会いに行く。」



霞区の別の高級マンション最上階にあるセーフハウス。



重いカーテンがぴったりと閉ざされ、外の光を一切遮っている。空気には消毒液の匂いと濃い香水の香りが混ざり合い、それでも覆いきれない恐怖の気配が漂っていた。



小倉ユウナは大きなソファの隅で怯えた小動物のように体を丸めていた。



白いオーバーサイズのTシャツを身にまとい、すっぴんの顔は紙のように青白い。かつては輝いていた瞳は、今や光を失い、血走っており、長く泣き続けていたことが伺えた。



浩一と浅野茜が入ってくるのを見ると、彼女の身体がびくりと震え、反射的に後ずさりして腕を抱えた。指先は肉に食い込むほど強く握られている。



その傍らには彼女のマネージャー──四十代で身なりは整っているものの、髪は乱れ、目の下には大きな隈ができた男──が、湯の中の蟻のように慌てふためきながら近づいてきた。



「浅野さん!この方は……」



彼は浩一に視線を向け、その目には警戒と、かすかな絶望の色が浮かんでいた。



「神代グループ特別顧問、佐藤浩一です。ユウナさんの件を一任されています」



茜は事務的に紹介した。



「佐藤顧問!どうか、どうかユウナを……『純白花蕾』を助けてください!」



マネージャーは溺れる者が藁をも掴むような勢いで懇願した。



「五億ですよ!? やつら、五億を要求してきたんです! さもなくば……ユウナを潰す、グループを潰すって! そんな金、どうしたって無理です! 社長だって……もう少しで──」



「動画のソースファイルは?そしてコピーはされているのですか?」



浩一はその哀願を無情に遮り、冷たく硬い声で尋ねた。だがその視線は、小倉ユウナから一瞬たりとも離れなかった。



「そ、それが……ユウナのスマホに入ってたんですが、遠隔操作で消去されました! でも……でもやつらは絶対に、バックアップを山ほど持ってるはずです!」



マネージャーは泣きそうな顔で答えた。



まさにそのとき、浩一の脳内で「表情分析(初級)」がアンロックされ、自動で発動した。



浩一は捉えた──「動画のソースファイル」に言及した途端に、小倉ユウナの虚ろな眼差しの奥底に、ごくわずかだが確かに、強烈な羞恥とさらに深い恐怖が浮かんだ。



さらに「社長が○○しかけた」という言葉が出た瞬間、彼女は腕を抱える手に力を込め、関節が真っ白になるほど握りしめ、唇をわずかに動かした──声にならない何かを呟くように。



浩一の視線が鋭さを増す。



マネージャーの泣き言を無視し、小倉ユウナのもとへとまっすぐに歩み寄り、しゃがみ込んで彼女の目線とできるだけ同じ高さに合わせた。



「小倉さん」


意識的にトーンが低いにも関わらず、妙なほど心に刺さる響きを持っていた。


浩一は、恐怖で視線を逸らそうとする彼女の瞳をしっかりと見据えた。


「その動画……撮られたやつじゃないですよね?」


その一言は、まるで雷鳴のように室内に響いた!


小倉ユウナはがばっと顔を上げた。目は大きく見開かれ、瞳孔は恐怖と衝撃で一気に収縮した。全身が震え出し、まるで寒さに凍えるかのように肩を震わせた。


隣のマネージャーも、まるで首を絞められたかのように言葉を失い、蒼白になって口を開けたまま動けなくなった。


浩一は、彼女の顔のどんな微細な変化も見逃さなかった──見開かれた瞳(驚愕)、縮んだ鼻翼(恐怖)、下唇を噛んではすぐに放す癖(秘密を暴かれた羞恥と絶望)──


「表情分析」は明確に告げていた。──「当たりだ。そして、それはこの問題の核心」


「さ、佐藤顧問!? な、何をおっしゃっているんですか?」


マネージャーは声を震わせ、なおもごまかそうとした。


浩一は立ち上がり、その目でマネージャーを鋭く射抜いた。


「言ってる意味は単純だ。……この“盗撮による脅迫劇”ってやつ、初めから仕組まれた“ハニートラップ”だった可能性が高い。そして――お前たち、いや、お前か!」


浩一はマネージャーを指さす。


「最初から関与していたか、もしくは知っていながら黙認していた。そしてコントロールを失って、外から獣を呼び込んだ──黒羽を使ったんだ」


「違う!断じて私じゃない!私は関与していないない!!」


マネージャーは怯えたように後ずさりし、激しく否定したが──その額に瞬時に浮かんだ冷や汗、逸らされた視線は、「表情分析」の前では一切の偽りを隠せなかった。


「ユウナさん!」


マネージャーを無視し、浩一は再び小倉ユウナに視線を向けた。

その声は有無を言わせぬ強さを帯び、まっすぐ彼女の心を貫いた。


「教えてくれ。一体誰なんだ? 君を強要したのか、それとも誘惑されたのか?動画は彼が撮ったのか、それとも君が……?“黒羽”について知っていることをすべて話してくれ。これが、君に残された唯一の――自分を救う手段だ。神代とて、黙している君を救うことはできない!」


浩一の怒涛の攻勢に、小倉ユウナの心の防壁は、完全に崩れ去った。


「し、島崎監督です……!」


そう打ち明けた彼女はわっと泣き崩れた。声はしゃがれ、かすれていた。


「……次の映画のヒロインにしてくれるって……だから……これは「アート」で、ちょっと撮るだけって……言われたんです……趣味だって……秘密にするからって……でも……でも後から……彼、あの動画を……あの人たちに売ったんです! あの人たち、本当に怖い……もっと……酷いものまで見せてきて……!」


言葉は乱れ、涙で顔はぐしゃぐしゃになり、全身が秋の風に揺れる木の葉のように震えていた。


真実が明るみに出た。


純白花蕾のセンターは、卑劣な監督に出演の話を餌に利用され、いやらしい映像を撮らされたあげく、それが“黒羽”という裏稼業を生業とする奴らの手に渡ってしまったのだ。


マネージャーは、少なくともその一部を黙認していた可能性が高く、結果として火種を自らに引き寄せたのだった。


茜の瞳に、明らかな嫌悪とハッと納得がいった光が宿んだ。


浩一は心の中で冷笑する――やはり、この世は汚れている。


「……島崎監督?」


浩一は茜の方を向いた。


「三流のポルノ監督です。業界では有名なスカウトと情報通で、黒羽とも繋がりがあります」


茜は即座にパッドを操作し、情報を表示させる。


「居場所を突き止めて拘束してくれ。あいつは“黒羽”を引きずり出すための重要証人であり、奴らに与える“前菜”でもある」


浩一の命令には、冷たく凄まじい威圧が滲んでいた。


「了解しました!」


茜はすぐさま背を向け、そそくさと調べ始めた。


浩一の視線が再びユウナに向けられる。


そこにはわずかに冷ややかな哀れみの色が宿っていた。


「生き残りたいなら、純白花蕾を守りたいなら……これからは、俺の言う通りに動け」


六本木――クラブ「フクロウ」の奥にある空間。


ここには耳をつんざくような音楽はない。流れているのは、低くくぐもった電子音と、ぼんやりとした暗紅色の照明だけだった。


空気には葉巻の煙、強い酒、そして何かの違法薬物の甘ったるい匂いが入り混じっている。


花柄のシャツを着て、首や腕に凶悪なタトゥーを入れた男たちが、革張りのソファに腰かけ、酒を飲みながら談笑していた。


その中央に陣取っているのは、光頭で顔に刀傷のある巨漢――黒羽堂の実権を握っているボスで、コードネームは「終夜(よもすがら)の王」と呼ばれる男だった。


終夜の王はUSBメモリを指先で転がしながら、捕食者のような笑みを浮かべていた。


「ボス、純白花蕾の連中、もうビビり散らかしてますよ。社長は対応に追われマジでヤバいですよ。五億、確定っすね!」


子分のひとりが媚びた笑顔で葉巻を差し出す。


「社長がヤバいだぁ?ハハハ!明日のトップ記事にぴったりだ!」


終夜の王は下品に笑い、金歯をギラリと光らせた。


「五億?そいつは始まりにすぎねぇ!金が入ったら、残りの“ネタ”も小出しにしてやる。あのアマを、完全に終わらせてやるよ。使い切って、骨までしゃぶってやるぜ!」


そのときだった。


終夜の王の目の前に置かれていたスマホ画面が、不意に明るく光った。


未知の番号から、一通のメッセージと共に、一本の動画ファイルが届いていた。


「……なんだこれ?」


蝮蛇は眉をひそめながら、動画を再生した。


映像は手ブレがひどく、背景は安っぽいビジネスホテルの一室のようだった。


そして映っていたのは、彼の部下のひとり――小倉ユウナのマネと接触していた黒羽堂の中堅構成員だった。


その男は今、全裸で椅子に縛りつけられ、顔は殴られて腫れ上がり、目は恐怖と絶望に染まっていた。


その映像の中から、加工された電子音声が低く、そして不気味に響く。


「よぉ、終夜の王。黒羽堂はこの程度なのか?」


「悪いが、ゲームのルールは――変わったぜ」


「お前たちの手元にあるゴミ動画なんぞ、1万の価値もない――お前たちの命なんて、それ以下の価値だ」


「今すぐ、小倉ユウナに対する嫌がらせを全て中止しろ。動画とすべてのバックアップを消去すること」


「24時間以内に、小倉ユウナ本人および社会に対して公開謝罪を行い、動画は悪意ある合成、それと脅迫した事実を認めろ」


「さもなくば――次にご登場するのは、お前だ、“終夜の王”。場所はそうだな……お前が今ふんぞり返って座っているそのソファかもな」


動画の終わりに、一気にズームインし、縛りつけられた手下の、恐怖に歪みきった顔面が映し出される──そして、動画は唐突に途切れる!


「クソがっ!!」


黒羽堂のボスは雄叫びをあげ、手に持っていたスマホを高級なガラス製のテーブルに叩きつけた!


画面が粉々に砕け散る。獣のように吠え、激昂して立ち上がる。怒りに歪んだ古傷が、不気味に蠢いていた。


「どこの誰だ!?誰の仕業だ!?今すぐ調べろ!あのクソ野郎を引きずり出せ! 八つ裂きにしてやる!!」


場の空気が凍りつく。部屋にいた手下たちは、声も出せず、震えるばかりだった。


その頃、「黒羽」たちの正面にあるビルの一室。


その暗闇に包まれた部屋で、浩一はモニター越しに発狂の様子を冷ややかに見つめていた。


耳にはヘッドセットを装着し、傍らのテーブルには、先ほど情報を送信した暗号端末が静かに置かれていた。


モニター上では、「表情分析」が自動で起動し、あらゆる所作を正確に捉えていた。


――瞳孔の拡大(激昂)

――鼻孔の拡張(過呼吸)

――下顎の緊張(歯ぎしり)

――肩の不自然な動き(抑えきれない攻撃衝動)


支離滅裂な怒声と壊れたスマホが物語るように、やつはもはや自制不能だった。


「威嚇効果、確認。目標の思考は混乱し、判断力は著しく低下」


傍らに立つ茜が、淡々とモニターと情報を分析しながら言った。


「島崎監督はすでにも“押さえ”ました。もうすぐ証拠は出ます。黒羽との取引の詳細を吐かせます」


浩一の口元がわずかに吊り上がる。だが、その笑みには一片の温度もなかった。


―第一フェーズ、成功。


脅しは効いた。


混乱を招き、奴らは巣でのたうっている。

次は、引きずり出す番だ。毒牙を抜いて徹底的に叩く。


無言のまま浩一は端末を手に取り、指先で別の番号を選ぶ。その声は、再び機械のように冷たい電子音へと変わった。


「第二フェーズを始めろ。島崎贈り物を、王のもとへ――送ってやれ」


その一言は、まるで夜に放たれた無音の刃のように、暗闇の中に消えていった。


街のきらめくネオンの影。その奥底で、静かに始まる“狩り”。


獲物はすでに気づかぬまま、茨の罠へと足を踏み入れていた。





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