(国中の、年頃の娘がいる貴族を疑わなければならないわね)
溜息が出そうになったとき、カタリ、と小さな音がした。
「あっ……っ!」
皇太子が思わず声を上げる。真っ白なテーブルクロスが、見る間に柑橘のジュースでオレンジ色に染まっていく。
グラスを倒してしまったのだった。そして、テーブルクロスだけでなく、それはファルティアのドレスも汚した。
「済まない、ファルティア嬢っ!」
皇太子が立ち上がる。
「なんです、リシャルト。食事中ですよ」
「すみません、母上。グラスを倒してしまい、ファルティア嬢のドレスを汚してしまいました。このままでは不愉快でしょうから、一度、ファルティア嬢と下がらせて頂きとうございます。食事は、部屋の方まで運んで頂ければ」
皇后が、ちらりと皇太子の顔を見やる。
「まあ、よいでしょう。では、ファルティア、リシャルト、またあとで」
「それでは失礼致します、皇帝陛下、皇后陛下」
挨拶もそこそこに、食堂を退室する。
食堂を出るなり、リシャルトに手を取られた。半ば引っ張られるように、強引に手を掴まれる。リシャルトは足早に歩いた。
「殿下っ、お待ちくださいませっ!」
さすがに、ドレスではそんなに速く歩くことは出来ない。
振り返った、リシャルトの翠玉の瞳は、酷く、冷めていた。
一つ、溜息をついてから、歩調を緩める。無言のままで、リシャルトの私室まで連れられる。リシャルトの機嫌は悪そうだった。
「殿下?」
「……君は、私の婚約者だという自覚があるのか?」
溜息と共に、リシャルトが言う。
「えっ?」
「こんな簡単な嫌がらせに引っかかっているようで、一国の皇太子妃が務まると思っているのか?」
「それは……面目ございません、仰せの通りですわ」
「念のために、支度をしておいて良かった」
溜息と共に、側近に目配せをしたようだった。
重苦しい沈黙の中、側近が持ってきたのは、ドレス一式だった。翠をベースに菫色の差し色が入ったものだ。
(え、ご自身の衣装に合わせて作って下さっていたの……?)
「あの」
「なんだ」
不機嫌そうに、リシャルトが言う。
「わたくしの為にご用意頂いたということです、よね……?」
「ああ」
「それを、わたくしの家人には、なにか、報せて頂けましたか……?」
「公式行事の衣装は国庫の予算から作成される。これが慣例だったはずだが?」
そう言われれば、たしかにそうなのだが『皇太子の十六歳の生誕祭』というのは、微妙な所だった。これが来年の十七歳の誕生日であれば、成人の披露が同時に行われるので、こちらは公式行事だ。
文句を言いたい気持ちもあったが、とりあえず、ファルティアは何も言わないことにした。
「失念しておりました」
「そのようだな」と小さく呟いて「夜会までは、何か手持ちの衣装で過ごせば良い。そののちは、この衣装で。装飾品についても一式用意した」とテキパキと指示していく。
(こういうことを考えていらっしゃったのだったら、言って頂ければ良かったのに……)
「あの、殿下」
「なんだ」
「……もしかして、朝食の折、夜会で着る為のドレスを着てくるようにと言うのは……」
「なんだそれは」
これも嘘だったのか、と思うと、なんとも言えない気分になる。
「信じる方も信じる方だな」
呆れた顔をしているリシャルトに、ファルティアは一言も言い返すことは出来なかった。