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第3話


(国中の、年頃の娘がいる貴族を疑わなければならないわね)

 溜息が出そうになったとき、カタリ、と小さな音がした。


「あっ……っ!」

 皇太子が思わず声を上げる。真っ白なテーブルクロスが、見る間に柑橘のジュースでオレンジ色に染まっていく。


 グラスを倒してしまったのだった。そして、テーブルクロスだけでなく、それはファルティアのドレスも汚した。


「済まない、ファルティア嬢っ!」

 皇太子が立ち上がる。


「なんです、リシャルト。食事中ですよ」


「すみません、母上。グラスを倒してしまい、ファルティア嬢のドレスを汚してしまいました。このままでは不愉快でしょうから、一度、ファルティア嬢と下がらせて頂きとうございます。食事は、部屋の方まで運んで頂ければ」

 皇后が、ちらりと皇太子の顔を見やる。


「まあ、よいでしょう。では、ファルティア、リシャルト、またあとで」

「それでは失礼致します、皇帝陛下、皇后陛下」


 挨拶もそこそこに、食堂を退室する。

 食堂を出るなり、リシャルトに手を取られた。半ば引っ張られるように、強引に手を掴まれる。リシャルトは足早に歩いた。


「殿下っ、お待ちくださいませっ!」

 さすがに、ドレスではそんなに速く歩くことは出来ない。


 振り返った、リシャルトの翠玉の瞳は、酷く、冷めていた。

 一つ、溜息をついてから、歩調を緩める。無言のままで、リシャルトの私室まで連れられる。リシャルトの機嫌は悪そうだった。


「殿下?」

「……君は、私の婚約者だという自覚があるのか?」

 溜息と共に、リシャルトが言う。


「えっ?」

「こんな簡単な嫌がらせに引っかかっているようで、一国の皇太子妃が務まると思っているのか?」


「それは……面目ございません、仰せの通りですわ」

「念のために、支度をしておいて良かった」


 溜息と共に、側近に目配せをしたようだった。

 重苦しい沈黙の中、側近が持ってきたのは、ドレス一式だった。翠をベースに菫色の差し色が入ったものだ。


(え、ご自身の衣装に合わせて作って下さっていたの……?)


「あの」

「なんだ」

 不機嫌そうに、リシャルトが言う。


「わたくしの為にご用意頂いたということです、よね……?」

「ああ」


「それを、わたくしの家人には、なにか、報せて頂けましたか……?」


「公式行事の衣装は国庫の予算から作成される。これが慣例だったはずだが?」

 そう言われれば、たしかにそうなのだが『皇太子の十六歳の生誕祭』というのは、微妙な所だった。これが来年の十七歳の誕生日であれば、成人の披露が同時に行われるので、こちらは公式行事だ。


 文句を言いたい気持ちもあったが、とりあえず、ファルティアは何も言わないことにした。


「失念しておりました」

「そのようだな」と小さく呟いて「夜会までは、何か手持ちの衣装で過ごせば良い。そののちは、この衣装で。装飾品についても一式用意した」とテキパキと指示していく。


(こういうことを考えていらっしゃったのだったら、言って頂ければ良かったのに……)


「あの、殿下」

「なんだ」


「……もしかして、朝食の折、夜会で着る為のドレスを着てくるようにと言うのは……」

「なんだそれは」


 これも嘘だったのか、と思うと、なんとも言えない気分になる。


「信じる方も信じる方だな」

 呆れた顔をしているリシャルトに、ファルティアは一言も言い返すことは出来なかった。

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