二刻ほどして父と母、そして兄が登城したとき、ファルティアは皇太子殿下の不機嫌の理由を知ることになった。
「わ、わたくしが……多数の殿方と、交流を持っている……と?」
兄から告げられたのは、とんでもない言葉だった。
「ああ、ファルティア。……なぜか、君が、複数の男を家へ招き入れて、親密な関係になっているという噂が広まっていてね。皇太子殿下との結婚を急いでいるのは、すでにどこの男の物とも解らない子供がいるからだとか、本当に、見てきたように嘘を書いてあるよ」
兄は肩をすくめながら言う。
「待って下さいませ、兄上……『書いてある』とはなんですの?」
「ああ、書いてあったんだよ。というか、怪文書があちこちに投げ込まれている。貴族の家だったり、学院の寮だったり、様々だ。広場にもばらまかれていたこともある」
「なっ……」
兄が、苦々しい顔をして、紙を差し出した。ゴシップ誌の号外のようなものだった。
『深窓のご令嬢の華麗なる性遍歴!』
という扇情的な見出しが付けられている。ファルティアのふしだらな振る舞いが、まるで真実のように記載されていた。
「皇太子殿下が不機嫌だったのは、こういうことなのね」
思わず、怒りに声が震えた。
「それはそうだろう。まさか、托卵させられるとは思わないだろう?」
托卵―――。
カッコウが、自分の卵を、他の鳥に育てさせるように仕向ける行動だ。
他の男との間に設けた子供を、皇太子との子供として扶育する……と、いう話まで出ているのだろう。
「なぜ、こんな噂が……」
とにかく、噂の出所を確かめて、なんとかしなければならない、とファルティアが焦る中、母が、青い顔をしている事に気が付いた。
「お母様……?」
「ああ、ついに、始まってしまったのね……」
母、レティロは顔を覆って、床に崩れ落ちた。
「お母様……? お気を確かに。今、水を持ってこさせますわ」
「大丈夫。私は正気です……恐れていたことが、始まったのです。それを、あなた方に、教えます。よく聞くのですよ」
母、レティロは、酷く真剣な眼差しをしていた。
「恐れていたこと……ですか?」
ファルティアが聞き返すと、母は、ゆっくりと肯いた。その顔色が、酷く悪い。青ざめていた。
「……あなたには言っていなかったけれど、私は、この世界の人間ではないの。正確には、私の魂が……というべきかしらね」
「どういう事でしょうか?」
母が、こんな時に冗談を言うはずがない、とはファルティアも理解して居たが、母が語る内容は、あまりにも、現実離れしていると言えた。
「まずは、何も聞かずに聞いて頂戴」
母の話は、こうだった。
母は、元々、別の世界で生きてきたらしい。身分の区別のない、戦争も遠い世界の、一般市民の家庭に生まれ、平凡な人生を歩んだらしい。学校教育を受け、そして、そのまま、会社と呼ばれるところで働いたという。
母の世界では、教育を受けることは国民全員の権利であり、教育を受けさせることは扶育者の義務であったという。そして、その教育課程が修了したのちは、社会に出て、社会の為にそれぞれ自由に職業を選択して働くという。
母は、そこで、事故に遭ったという。
老人を庇って自分が巻き込まれ、事故で死んだと思ったら、気が付くと、この世界に居たと言う。しかも、姿形はまるで変わっていた。
『本当のレティロと、私の魂が交換されてしまったのでしょうね』
とは母は呟いて、悲しそうな顔をしていた。
本当のレティロは、もし、異世界の母と入れ替わったとしたら、その瞬間に、死んだのだろうというのが、母の意見だった。
そして、母は続ける。
しばらく、レティロとして過ごしているうちに、様々なことに気が付いたという。まず、この世界に既視感があったということだった。勉強もしていないのにこの国にとどまらず、この世界のすべての言語は理解することが出来たが、文法を説明しろと言われると、からきし駄目だった。
そして、それに気が付いた……確信を得たのは、ファルティアが生まれ、皇太子殿下の婚約者として、定められた十二年前のことだったということだった。
『信じられないことに、ここが、私が昔……異世界で読んでいた小説の世界だということに気が付いたのよ』
俄には信じられなかった。
もし、それが本当の事であれば、ここは、異世界人の作家の脳内ということになるのではないか? とファルティアは思ったからだ。
『そうではないだろうが、もしかしたら、異世界人の作家はこの世界のことを垣間見ていたのかもしれないよね』
とのんびりと告げたのは父だった。父は、生粋の(中身も外も)この世界の住人ということだったが、妻の言葉は信用していると言うことだった。
『何度聞いても、整合性がとれているからね。この奥さんが、そういう緻密な作り話をするような人ではないことは、お前も知っているだろう?』
ははは、と笑う父によっても思わぬ夫婦惚気を見せられたのはさておき。
『……私の娘、栗色の髪、菫色の瞳を持つ美しいファルティアは……、皇太子殿下の婚約者になった後、破滅するのよ』
母は硬い顔をして、そう呟く。
『破滅……』
兄も、初めて聞く内容だったらしく、驚いて、呆然と呟いて居る。
『そう。……ここから先、国は混乱に見舞われるわ。そして、その困難を打破する為に存在するのが『聖なる乙女』と呼ばれる、清らかな乙女なの。
けれど、あろうことか、皇太子殿下が『聖なる乙女』に惹かれてしまって……それに嫉妬したファルティアが、この『聖なる乙女』を陥れるために様々な悪事を働く。そして、没落するのよ。私が、学院へ行ってはいけないと言っていたのはこのためよ。
『聖なる乙女』とあなたと、皇太子殿下は、同じ学び舎で過ごすことになるの』
母の表情は、固かった。
真実、なのだとファルティアは悟った。少なくとも、母は、それを、信じている。
『母上、先ほど、母上は、『始まった』と仰ったと、聞いております。それはどういう意味でしょう』
兄のルーデルスが静かに問う。
『……そもそも、皇太子殿下が、ファルティアを快く思っていなかったことが、たやすく、『聖なる乙女』に惹かれた理由よ』
『えっ……』
快く思っていなかった、という言葉は、事実なだけに、ファルティアの胸が痛む。皇太子殿下とは、生涯連れ添っていくと思っていた。その方に、『快く思われていなかった』というのは、中々、辛い。
『様々な噂をばらまかれるわ。国中の貴族があなたの敵。……そういう状況に陥っているの。『聖なる乙女』には後ろ盾が付くけれど、そこが、あなたを皇太子殿下の婚約者から引きずり下ろそうとしている人たちよ』
それは、誰ですか、と聞く前に、溜息交じりにルーデルスが口を開く。
『ペトロヴァ家か』
『ええ、その通りよ。旧王家に繋がる名家。けれど、今は没落しているわ。なんとしても皇太子妃を輩出して、返り咲きたい。そういう野望があって、『聖なる乙女』の後見人を買って出たの。今の時点では、怪文書をばらまくくらいしか、していないわ。法に触れることはして居ないの』
眩暈がした。
『……私も、レティロの話を聞いて、いろいろと動いていたのだけれどもね。だけど、どうしようもない……』
始まってしまった。
ということだった。