紡の中に、ずっと前から貼り付いているものがある。それは、承認とやらを記すための、まだ何一つ書かれていない招待状のようなものだった
誰かの言葉で、この空っぽな紙が満たされるのを、紡はただ漠然と待っていた。
何の意味があるのか、皆目見当もつかない。我ながら、奇妙な話だ。
紡の日常は、どうも常に彩度が低い。目の前の景色は、ぼやけて見えているわけではない。心の奥底に広がる空虚が、すべてを薄い膜で覆い隠しているかのようだ。
鏡に映る紡は、いつもどこか覇気がない。少し色素の薄い、控えめなストレートヘア。肩にかかる長さ。地味な色の服を選びがち。それが
今日のカフェのバイトも、単調なエスプレッソマシンの音が響くだけ。時間だけが虚しく過ぎていく。閉店作業を終え、誰もいなくなった店内で、紡は無意識にスマホを滑らせた。
SNSのタイムライン。
友人の投稿に機械的に「いいね」を押し、ふと、自分の投稿一覧を開く。数日前にアップした、近所の猫の動画。再生回数はそれなりにあったけれど、コメントは数えるほど。
「ああ、まただ」
独りごちた声は、空っぽの店内に吸い込まれていく。
期待したところで、いつもこんなものだ。他人の評価など、当てにすべきではない。コメントの数など、些末なことだ、と自分に言い聞かせる。
親友の
藍に悪意がないのは確かだ。だが、その言葉が紡の腑に落ちることはない。
(なぜ、これを褒める?同情されたところで、何の価値があるというのか。)
藍の明るい笑顔は、いつだってひまわりのようだ。
ショートカットの髪が揺れるたびに、藍の快活さが伝わってくる。
いつも紡を気にかけてくれる、かけがえのない存在だ。
しかし、藍が過剰に自分に寄り添おうとする時、紡は時折、彼女の奥に自分と同じ「寂しさ」のようなものを見る気がした。誰かに「必要とされたい」という藍の気持ちが、紡自身の「誰かに寄り添いたい」という、隠れた承認欲求に繋がっているかのようだった。
母である
いつもぴしっとアイロンのかかったブラウスを着ている母は、表情の変化が乏しい。幼い頃、私がどんなに頑張って描いた絵も、母はただ『ふうん』と一瞥するだけだった。そんなこともあって、私は褒められることに慣れない。考えても、その答えは見つからない。
褒められること自体が、紡にとって異物であるかのように感じる。
(母から学べなかったものを、今さらどうやって身につければいいのか、皆目見当がつかない。)
その日、カフェに現れたのは、大学のサークルで顔見知り程度の
神崎は、カウンターでスマホを見ながら、大声で話していた。
「この前のプロジェクト、俺がやったからこそ成功したんだよな。いや、マジで」
紡は、神崎の言葉に内心眉をひそめた。
(やけに自分を大きく見せたがる人だな。常に誰かに認められたい、とでも?)
神崎の言動は、紡自身の「白か黒か」をはっきりさせたい倫理観に、微かなざわめきを与えた。
夕闇が迫る頃、いつものようにアパートの玄関を開けると、郵便受けに見慣れない封筒が挟まっていた。差出人の名は一切なく、ただ艶やかな黒い紙に、金の箔押しで「招待状」とだけ記されている。随分と大仰なことだ。
私は首を傾げた。ありふれた日常には、あまりにも不似合いな、どこか重々しく、妙に人の目を引く存在感。厄介ごとの匂いか。警戒心が強くなる。厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだ。
恐る恐る、とまではいかないが、慎重に封筒を開いてみた。中には一枚のカード。ただの真っ白い紙切れだった。
目を凝らしてみるが、文字らしいものは何も浮かび上がってこない。推理小説なら火で炙るとか、暗闇で透かすとかだろうか。しかし、この場合は…
「何、これ……?」
訝しげにカードを裏返す。胸の奥がざわついた。
この白いだけの紙が、私の心の奥底に広がる空っぽな空間を、正確に映し出しているかのようだ。
(意味不明なものは嫌いだ。白か黒か、ハッキリしないものは、いつも不安にさせる。これが一体、何を求めているというのだろう。この空っぽな承認欲求と、何か関係があるのだろうか。)
小さな筆跡でこう書かれていた。
『承認を求める貴女へ。特別な招待状です。このインクは、貴女の「真の欲望」に触れた時、その姿を現します。』
私の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
「真の欲望」? そんな大それたもの、私のような空っぽな人間が持ち合わせているはずがない。ただ、漠然とした「誰かに認められたい」という渇望がある。それ以上でも、それ以下でもない。
(それは果たして「欲望」と呼べるほど切実なものなのだろうか。もしそれが、誰かを傷つけたり、不当な利益を得るような欲望だとしたら、私はまっぴらごめんだ。物事は、白か黒か、はっきりしているべきだ。なぜ、こんな曖昧なものが私に届くのだろうか。)
その瞬間、不意に、胃の奥が冷たくなるような感覚に襲われた。手のひらがじんわりと汗ばみ、全身の毛穴が開くような悪寒。それは、もう数年前から、ふとした瞬間に私を襲うフラッシュバックの前兆だった。
視界が歪み、アパートの壁が白い病室の天井へと変わる。遠くで、焦った医師の声が聞こえる。
「脈拍は?」
「意識は?」
…そして、最後に、唯一の光であった父の穏やかな笑顔が、酷く歪んで見えた。
あの時の、手のひらに広がる冷たい感覚、目の前が真っ暗になる寸前の、深い、深い諦め。
『もう少し遅れていたら、本当に――』
数年前、父は突然、私の前から消えた。
無条件で私を受け入れ、その存在を、価値を認めてくれた唯一の存在だった。その喪失感と、自分一人、世界の片隅に置き去りにされたような孤独感に、私は耐えきれなかった。
自ら命を絶とうとした、あの夜。
発見がほんの数分遅ければ、今の
その事実を知る数少ない人々からは、きっと「かわいそうな人」とレッテルを貼られているのだろう。
(それが私には、なぜかどうでもよかった。誰も私を理解できないのなら、生きていても死んでも、きっと世界は変わらない。そう思ってしまえるほど、心が空虚で、誰かの温かい手を、そして特別な理由を求めていた。)
この「透明な招待状」が求める「真の欲望」とは、あの時、死の淵で自分が見つけられなかった、生きていくための確固たる理由なのだろうか。
それとも、心の奥底、深い闇の底に封じ込めたはずの、あの時の死への甘美な誘惑なのだろうか。紡の心は、答えの出ない問いに揺れる。
身体の震えが治まらないまま、スマホが震えた。藍からのメッセージだ。
『紡ー!ねぇ、今度の日曜、例の動物保護ボランティア行かない?
彼の前では、なぜかいつもより少しだけ、心が軽くなる気がした。
(私とは真逆の、感情の波が穏やかな彼なら、この透明な招待状の「真の欲望」とやらに、何かヒントをくれるだろうか。あるいは、心の奥に貼り付いた、この「空っぽ」を、そしていつか私のこの「承認欲求」さえも吹っ切らせてくれる存在になるのだろうか。特に、彼が私をまるで、他の誰とも違うように見つめる時、私の中の「特別な存在として扱われたい」という願望が、微かに疼く。)
紡は透明な招待状をテーブルに置いた。
表面に、微かに光が滲んだ気がした。それは、私の震える指が触れたからか、それとも――このインクが、すでに私の「真の欲望」に反応し始めているのか。
――このインクが、すでに紡の「真の欲望」に反応し始めているのか。
その答えを知るには、もう一度、この紙に触れるしかない。
この何気ない招待状が、紡の日常と、紡を取り巻く人々――藍、林 耀、神崎 厳、さらには母である小鳥遊 蓮華の裏の顔を、徐々に暴いていくことになるのだと、この時の紡はまだ、知る由もなかった。
(つづく)