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空っぽな承認欲求
空っぽな承認欲求
YOR
現実世界現代ドラマ
2025年06月23日
公開日
11.6万字
完結済
父親の突然の他界と、その後の自殺未遂。小鳥遊 紡(たかなし つむぎ)は、辛うじて一命を取り留めたものの、心にはぽっかりと穴が空き、常に他者からの「承認」を求める日々を送っていた。まるで透明なインクで書かれた、誰も満たせない招待状が貼り付いているかのように。 そんなある日、彼女のもとに届いたのは、差出人不明の謎めいた「招待状」だった。 そこには『このインクは、貴女の「真の欲望」に触れた時、その姿を現します。』とだけ記されていた。 漠然とした承認欲求しか持たない紡にとって、「真の欲望」とは一体何なのか――。 この招待状をきっかけに、紡を取り巻く人々の隠された顔が少しずつ露わになっていく。 常に前向きで紡を引っ張る親友・佐藤 藍(さとう あおい)の知られざる目的、穏やかで紡の心を癒やすも、その裏にミステリアスな秘密を抱える林 耀(りん よう)、厳しさの中に秘めた期待で紡を成長させる仕事の先輩・神崎 厳(かんざき いつき)。 そして、紡の自己肯定感の低さの根源でもある、不器用な愛情しか示せない母親・小鳥遊 蓮華(たかなし れんか)の過去。 「生きていてもいい」と、誰かに、何かに認めてほしいと願う紡の「空っぽな承認欲求」は、果たして彼女を光へと導くのか、それともさらなる闇へと引きずり込むのか? これは、死と隣り合わせの過去を抱えた一人の女性が、自分自身の「存在価値」と「真の欲望」を見つける、魂の成長と再生の物語。 そして、現代を舞台にした人間の心の奥底を描くドラマですが、謎の招待状が超常的な現象を引き起こし、主人公の運命を大きく揺さぶる、日常の裏側に潜む人間の深層心理と倫理のグレーゾーンに迫る、サイコサスペンスドラマでもある。 ※この物語には、自殺未遂や心の病といったデリケートな描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。

第1章:存在を揺るがす招待状

第1話:透明なインクと奇妙な招待状

今日のカフェバイトも、エスプレッソマシンの単調な音が響くだけ。


時間だけが虚しく過ぎていく。

閉店作業を終え、誰もいなくなった店内で、小鳥遊たかなし つむぎは無意識にスマホを滑らせた。


SNSのタイムライン。


友人の投稿に機械的に「いいね」を押し、ふと、自分の投稿一覧を開く。

数日前にアップした、近所の猫の動画。

再生回数はそれなりにあったけれど、コメントは数えるほど。


「ああ、まただ」


独りごちた声は、空っぽの店内に吸い込まれていく。

期待したところで、いつもこんなものだ。

他人の評価など、当てにすべきではない。

コメントの数など、些末なことだ、と自分に言い聞かせた。


でも、心の奥底で、まだ見ぬ誰かからの言葉を渇望している自分に気づく。

その矛盾が、まるで小さなガラス片のように、心をちくりと刺す。


紡の心には、ずっと前から貼り付いているものがある。

それは、承認とやらを記すための、まだ何一つ書かれていない招待状のような、奇妙な空っぽさだ。


誰かの言葉で、この空白が満たされるのを、紡はただ漠然と待っていた。

何の意味があるのか、皆目見当もつかない。

我ながら、奇妙な話だと思う。


夕闇が迫る頃、いつものようにアパートの玄関を開ける。

郵便受けに、見慣れない封筒が挟まっていた。


差出人の名は一切なく、ただ艶やかな黒い紙に、金の箔押しで「招待状」とだけ記されている。

随分と大仰なことだ。


ありふれた日常には、あまりにも不似合いな、

どこか重々しく、妙に人の目を引く存在感。

厄介ごとの匂いがする。


慎重に封筒を開くと、中には一枚のカード。

ただの真っ白い紙切れだった。


目を凝らすが、文字らしいものは何も浮かび上がってこない。


「何だ、これ……?」


訝しげにカードを裏返す。

胸の奥がざわついた。

この白いだけの紙が、紡の心の奥底に広がる空っぽな空間を、正確に映し出しているかのようだ。


意味不明なものは嫌いだ。

白か黒か、ハッキリしないものは、いつも不安にさせる。

これが一体、何を求めているというのだろう。

この空っぽな承認欲求と、何か関係があるのだろうか。


その白いカードの片隅に、小さな筆跡でこう書かれていた。


『承認を求める貴女へ。

特別な招待状です。

このインクは、貴女の「真の欲望」に触れた時、その姿を現します。』


紡の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。


「真の欲望」?

そんな大それたもの、紡のような空っぽな人間が持ち合わせているはずがない。

ただ、漠然とした「誰かに認められたい」という渇望があるだけ。

それは果たして「欲望」と呼べるほど切実なものなのだろうか。


もしそれが、誰かを傷つけたり、

不当な利益を得るような欲望だとしたら、まっぴらごめんだ。


物事には、白か黒か、はっきりしているべきだ。

なぜ、こんな曖昧なものが届くのだろうか。


その瞬間、不意に、胃の奥が冷たくなるような感覚に襲われた。

手のひらがじんわりと汗ばみ、全身の毛穴が開くような悪寒。

それは、もう数年前から、ふとした瞬間に私を襲うフラッシュバックの前兆だった。


視界が歪み、アパートの壁が白い病室の天井へと変わる。

遠くで、焦った医師の声が聞こえる。

「脈拍は?」

「意識は?」

…そして、最後に、唯一の光であった父の穏やかな笑顔が、酷く歪んで見えた。



あの夜、部屋の空気は、鉛のように重かった。


数年前、唯一の居場所だった父が、突然この世から消えた。


事故だった。


あまりにもあっけなく、理不尽に。

残されたのは、父のいない、がらんとした家と、胸にぽっかりと開いた、冷たい穴のような喪失感だけだった。


「つむぎは、つむぎのままでいいんだよ」


いつもそう言って、ありのままの紡を受け入れてくれた父。

どんなにクラスで浮いても、友達が一人もいなくても、父の言葉だけが、紡の存在を肯定してくれる光だった。


その光が、突如として闇に消えた。


学校に行けば、憐れむような視線。

親戚の家を転々とすれば、どこか厄介払いをするような態度。

まるで、父がいなければ、自分には何の価値もない、透明な存在になってしまったかのような感覚だった。


誰からも必要とされない。

どこにも居場所がない。

この世界に、私という存在がいてもいなくても、きっと誰も困らない。

いや、むしろ、いない方が良いのかもしれない。


そんな、深く、深い諦めが、紡の心を徐々に侵食していった。

まるで、冷たい泥の中に沈んでいくように、思考が鈍り、感情が麻痺していく。


台所に立つ。手のひらに、ひんやりとした感覚。

(ああ、これで、全部終わるんだな……)


薄れゆく意識の中、唯一の光であったはずの父の穏やかな笑顔が、酷く歪んで見えた。

その歪んだ顔が、まるで紡を責めているかのように感じられた。


(ごめんなさい……お父さん……)


手のひらに広がる冷たい感覚。


目の前が真っ暗になる寸前の、深く、深く、どこまでも沈んでいくような空虚感。


『もう少し遅れていたら、本当に――』


発見がほんの数分遅ければ、今の小鳥遊 紡は、この場に存在していなかった。

だが、その事実が、なぜかどうでもよかった。

誰も紡を理解できないのなら。

生きていても死んでも、きっと世界は変わらない。

そう思ってしまえるほど、心が空虚で、

誰かの温かい手を、そして特別な理由を求めていた。


この「透明な招待状」が求める「真の欲望」とは、あの時、死の淵で自分が見つけられなかった、生きていくための確固たる理由なのだろうか。


それとも、心の奥底、深い闇の底に封じ込めたはずの、あの時の死への甘美な誘惑なのだろうか。

答えの出ない問いに揺れる。


透明な招待状をテーブルに置いた。

表面に、微かに光が滲んだ気がした。

それは、紡の震える指が触れたからか、それとも――


(つづく)

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