今日のカフェバイトも、エスプレッソマシンの単調な音が響くだけ。
時間だけが虚しく過ぎていく。
閉店作業を終え、誰もいなくなった店内で、
SNSのタイムライン。
友人の投稿に機械的に「いいね」を押し、ふと、自分の投稿一覧を開く。
数日前にアップした、近所の猫の動画。
再生回数はそれなりにあったけれど、コメントは数えるほど。
「ああ、まただ」
独りごちた声は、空っぽの店内に吸い込まれていく。
期待したところで、いつもこんなものだ。
他人の評価など、当てにすべきではない。
コメントの数など、些末なことだ、と自分に言い聞かせた。
でも、心の奥底で、まだ見ぬ誰かからの言葉を渇望している自分に気づく。
その矛盾が、まるで小さなガラス片のように、心をちくりと刺す。
紡の心には、ずっと前から貼り付いているものがある。
それは、承認とやらを記すための、まだ何一つ書かれていない招待状のような、奇妙な空っぽさだ。
誰かの言葉で、この空白が満たされるのを、紡はただ漠然と待っていた。
何の意味があるのか、皆目見当もつかない。
我ながら、奇妙な話だと思う。
夕闇が迫る頃、いつものようにアパートの玄関を開ける。
郵便受けに、見慣れない封筒が挟まっていた。
差出人の名は一切なく、ただ艶やかな黒い紙に、金の箔押しで「招待状」とだけ記されている。
随分と大仰なことだ。
ありふれた日常には、あまりにも不似合いな、
どこか重々しく、妙に人の目を引く存在感。
厄介ごとの匂いがする。
慎重に封筒を開くと、中には一枚のカード。
ただの真っ白い紙切れだった。
目を凝らすが、文字らしいものは何も浮かび上がってこない。
「何だ、これ……?」
訝しげにカードを裏返す。
胸の奥がざわついた。
この白いだけの紙が、紡の心の奥底に広がる空っぽな空間を、正確に映し出しているかのようだ。
意味不明なものは嫌いだ。
白か黒か、ハッキリしないものは、いつも不安にさせる。
これが一体、何を求めているというのだろう。
この空っぽな承認欲求と、何か関係があるのだろうか。
その白いカードの片隅に、小さな筆跡でこう書かれていた。
『承認を求める貴女へ。
特別な招待状です。
このインクは、貴女の「真の欲望」に触れた時、その姿を現します。』
紡の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
「真の欲望」?
そんな大それたもの、紡のような空っぽな人間が持ち合わせているはずがない。
ただ、漠然とした「誰かに認められたい」という渇望があるだけ。
それは果たして「欲望」と呼べるほど切実なものなのだろうか。
もしそれが、誰かを傷つけたり、
不当な利益を得るような欲望だとしたら、まっぴらごめんだ。
物事には、白か黒か、はっきりしているべきだ。
なぜ、こんな曖昧なものが届くのだろうか。
その瞬間、不意に、胃の奥が冷たくなるような感覚に襲われた。
手のひらがじんわりと汗ばみ、全身の毛穴が開くような悪寒。
それは、もう数年前から、ふとした瞬間に私を襲うフラッシュバックの前兆だった。
視界が歪み、アパートの壁が白い病室の天井へと変わる。
遠くで、焦った医師の声が聞こえる。
「脈拍は?」
「意識は?」
…そして、最後に、唯一の光であった父の穏やかな笑顔が、酷く歪んで見えた。
あの夜、部屋の空気は、鉛のように重かった。
数年前、唯一の居場所だった父が、突然この世から消えた。
事故だった。
あまりにもあっけなく、理不尽に。
残されたのは、父のいない、がらんとした家と、胸にぽっかりと開いた、冷たい穴のような喪失感だけだった。
「つむぎは、つむぎのままでいいんだよ」
いつもそう言って、ありのままの紡を受け入れてくれた父。
どんなにクラスで浮いても、友達が一人もいなくても、父の言葉だけが、紡の存在を肯定してくれる光だった。
その光が、突如として闇に消えた。
学校に行けば、憐れむような視線。
親戚の家を転々とすれば、どこか厄介払いをするような態度。
まるで、父がいなければ、自分には何の価値もない、透明な存在になってしまったかのような感覚だった。
誰からも必要とされない。
どこにも居場所がない。
この世界に、私という存在がいてもいなくても、きっと誰も困らない。
いや、むしろ、いない方が良いのかもしれない。
そんな、深く、深い諦めが、紡の心を徐々に侵食していった。
まるで、冷たい泥の中に沈んでいくように、思考が鈍り、感情が麻痺していく。
台所に立つ。手のひらに、ひんやりとした感覚。
(ああ、これで、全部終わるんだな……)
薄れゆく意識の中、唯一の光であったはずの父の穏やかな笑顔が、酷く歪んで見えた。
その歪んだ顔が、まるで紡を責めているかのように感じられた。
(ごめんなさい……お父さん……)
手のひらに広がる冷たい感覚。
目の前が真っ暗になる寸前の、深く、深く、どこまでも沈んでいくような空虚感。
『もう少し遅れていたら、本当に――』
発見がほんの数分遅ければ、今の小鳥遊 紡は、この場に存在していなかった。
だが、その事実が、なぜかどうでもよかった。
誰も紡を理解できないのなら。
生きていても死んでも、きっと世界は変わらない。
そう思ってしまえるほど、心が空虚で、
誰かの温かい手を、そして特別な理由を求めていた。
この「透明な招待状」が求める「真の欲望」とは、あの時、死の淵で自分が見つけられなかった、生きていくための確固たる理由なのだろうか。
それとも、心の奥底、深い闇の底に封じ込めたはずの、あの時の死への甘美な誘惑なのだろうか。
答えの出ない問いに揺れる。
透明な招待状をテーブルに置いた。
表面に、微かに光が滲んだ気がした。
それは、紡の震える指が触れたからか、それとも――
(つづく)