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第2話:透明な招待状、その声は

招待状は、静かにそこに鎮座していた。その『真の欲望』とやらが、こんな穏やかな場所で、紡の日常を侵食し始めるとは、この時の紡はまだ知る由もなかった。


日曜の朝。

薄曇りの空は、紡の心そのものだった。

いつもならまだ眠っているはずの、静かな日曜日。

紡は特に予定もなく、誰からも褒められることのない朝食を、ただ機械的に口に運んだ。

窓の外をぼんやり眺めても、目に映る景色はどこか色褪せて見え、心に波紋を広げることはない。

スマホでニュースをチェックする指先も、世間の喧騒とは隔絶された、自分だけの無関心な日常をなぞるだけだった。


しかし、今日は違った。


隣で談笑する藍の明るい声が、耳元で弾けている。

普段なら眩しく感じるその声も、今日はどこか遠く響き、紡の心の空虚さを一層際立たせるかのようだった。


現在地は最寄り駅。

藍に誘われるまま、都心から少し離れた動物保護シェルターへと向かう電車の中だ。


昨日からずっと、そこに存在を主張しているかのようだ。

真っ白なカードに書かれた『真の欲望』という言葉が、胸の奥で奇妙な重さをもって響く。


(もしそれが、誰かを傷つけるようなものであってはならない、と密かに願う。こんな些細な願いに、意味があるのかどうかは知れないが。)

そんなことを考えているうちに、シェルター最寄り駅に到着し、藍に促されるまま電車を降りる。


ここからは徒歩で数分だ。


シェルターの入り口が見えてくると、早くも犬や猫のざわめきが響いてくる。

ここは、小さな生命の温室。


人の喧騒が苦手な紡にとって、純粋な眼差しを向けてくる動物たちは、心の空虚を一時的に満たしてくれる唯一の存在だ。

ここでは、誰かに評価されなくとも、ただそこにいるだけで許されているような気がした。


りんさん、もう来てるみたい!」


シェルターの入り口をくぐった藍が、楽しげに声を上げた。

その先にいたのは、穏やかな横顔の林 耀りん ようという男だ。

(いや、男というのは失礼だ。優しい先輩だ。)


林 耀は膝をつき、子犬の頭を優しく撫でていた。

その指の動きは、命への慈愛に満ち、まるで子犬と心が通じ合っているかのようだった。


小鳥遊たかなしさん、藍さん、おはようございます」


林 耀は立ち上がり、紡と藍に視線を向けた。

林 耀の瞳は静かで、深く、それでいて不思議と紡の心のざわめきを鎮める力があった。

目が合うと、ふわりと柔らかな笑みが浮かぶ。


「林さん、おはようございます!」


藍は元気よく挨拶を交わし、すぐに林 耀の隣に寄って、子犬に夢中になっている。

紡はそんな二人の様子を眺めながら、ぎこちなく挨拶を返した。


「林さん…、おはようございます」


ぎこちない紡の挨拶にも、彼は微笑みながら続けた。


「今日はよろしくお願いしますね。小鳥遊さんは動物がお好きなんですよね。とても優しい手つきだから、きっと動物たちもすぐに懐きますよ」


彼の言葉は、不快ではなかった。

むしろ、上質な毛布のように心を包む。

奇妙な感覚だった。

普段なら称賛は腹の探り合いとしか思えない。

こんな自分を褒めて、一体何の得があるのかと即座に勘繰ってしまう。


だが、彼の言葉は計算された評価ではなく、純粋な観察からくるもののようだった。

頬が微かに熱くなる。


不器用に返事をすると、林 耀は優しく微笑み、私に小型犬用のリードを手渡してきた。


「まずはこの子から、少しお散歩してあげてください」


紡は言われた通り、震える小さな体の子犬をそっと抱き上げた。手のひらから伝わる温かさに、凍っていた心がじんわりと溶けていく。


(この子犬は、私と同じように、誰かに認められることを求めているのかもしれない。)

ただそこにいるだけでいい、という願望は、こうして小さな命を抱きしめることで、確かに満たされると、紡は感じた。こんなにも温かいものが、紡を救ってくれるのだろうか。


そんなことをぼんやりと考えた時、ふと、ポケットに入れたままだった招待状の存在を思い出した。


微かに、カードから何かが滲み出すような、かすかな熱を感じた気がした。

慌てて手を入れてみるが、やはりそこにあるのは、相変わらず真っ白なカードだけだ。


(気のせい……? )

と思ったその瞬間、カードの縁が、一瞬だけ、微かな青い光を放った気がした。

(幻覚……?)


これはきっと、この子犬との触れ合いが、「真の欲望」に繋がり始めた証拠なのだと紡は思った。

紡の一番深い願いが、こんなにも素朴な温かさの中にあったのだとしたら、それほどまでに幸せなことはない、と心の中で強く願った。


「紡、集中しなさいよー!」


藍の声が、背後から飛んできた。藍はすでに別の犬を連れて、テキパキとボランティア活動を進めている。彼女の行動力と社交性は、いつ見ても眩しいものだ。


だが、紡は知っている。

藍は誰かといることを極端に好み、一人になることをひどく恐れる。

その明るさは、「嫌われたくない」「置いていかれたくない」という深い不安の裏返し。


その日、藍が子犬を撫でる指先に、一瞬だけ、拭いきれないような不自然な震えを紡は見た。

それは、藍の明るさの裏に隠された、孤独な心が、無意識に現れた瞬間だった。

藍もまた、紡と同じように、誰かの温かい繋がりを必死に求めているのだと。


林 耀は、そんな藍の姿をじっと見つめていた。

その静かな瞳の奥で、何を考えているのか、紡には全く分からなかった。


しかし、林 耀の視線が藍の震える指先を捉えた瞬間、その瞳に一瞬だけ、全てを見透かすような、冷たい光が宿った。


まるで、藍の心の奥底に隠された弱さを正確に識別し、それを静かに、そして確信を持って見据えているかのようだった。


その視線に、紡は言いようのない不気味さを感じ取る。

林 耀の優しい笑顔の裏に、ある種の狩人のような冷徹さが潜んでいると直感したのだ。


このボランティア活動が、

そして林 耀さんとの出会いが、私の「真の欲望」と、招待状に書かれた「秘密のインク」を、果たしてどう変えていくのだろうか。


その時、紡のポケットの中の招待状が、これまで感じたことのない、脈打つような熱を帯び始めた。まるで、誰かの心臓が、紡の手のひらの中で鼓動しているかのように――


そして、その熱が、紡の意識の奥底に、はっきりと不気味な声を響かせた。


『承認を求める者よ。お前が本当に求めるものは、この程度の偽りの温かさではない。』


その声は、紡の空っぽな心臓を直接掴むように響き、目の前の愛らしい子犬との触れ合いすら、全てを否定するような冷たさを孕んでいた。

紡は、思わず抱き上げた子犬を落としそうになる。


まるで、招待状が紡の最も深い部分にある「真の欲望」の所在を知り、

そして、紡自身がその「欲望」を誤解しているとでも言うかのように。


(この声は、どこから? 誰が、私の心の奥底を知っているというの……!?)


(つづく)

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