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第2話:錯覚と期待

昨日の光が、まだ胸の奥に残っている。

紡は、藍に誘われて、久しぶりに街のカフェへ向かっていた。

昨日のメッセージが、まだ胸の奥で静かに響いている。


テラスには、午前の光が静かに差し込んでいた。

木漏れ日がテーブルの縁をなぞり、風がワンピースの裾を揺らす。


「紡、こっち、こっち!」

藍の声が、光の粒に混じって届く。

紡は眉をわずかに動かし、席に着いた。


隣の席では、誰かがカップを置く音がした。

紡はその音に目を向けず、藍の笑顔だけを見ていた。


「最近、ちょっと元気そうじゃん」

藍は、アイスティーのストローをくるくる回しながら笑う。

紡は、サンドイッチに手を伸ばしながら、曖昧な笑みを浮かべた。

テラスの風が、紡の髪を揺らす。

その笑顔の奥に、埋まらない空洞が静かに息づいていた。

アイスティーの氷が、カランと音を立てる。

その音が、藍の言葉よりも深く胸に残った。


「今度さ、遊園地行こうよ。林さんも誘ってさ」

藍の声は、風に乗るように軽やかだった。

その響きに、未来の輪郭がふわりと浮かぶ。


紡は頷きかけて、唇を閉じる。

テーブルの縁に視線を落とし、指先がわずかに震えた。

林――その名前が、胸の奥に波紋を広げる。


――それとも、誰かが、紡の存在にそっと触れようとしているからなのかもしれない。

光は、確かにそこにあった。


けれど、それが“希望”なのか、“誘惑”なのか、紡にはまだ分からなかった。

テーブルの上の招待状は、静かにそこに佇んでいる。


まるで、紡の選択を待っているかのように。


窓の外では、夕暮れが街を染め始めていた。

空の端に、昼の残光がわずかに滲んでいる。

その色は、父の声の記憶と重なって見えた。


「つむぎは、つむぎのままでいいんだよ」


その言葉が、胸の奥で微かに響く。

それは、過去の残響でありながら、今を照らす灯火でもあった。


紡は、招待状に指先を添えた。

その紙片は、冷たくもなく、温かくもなく、ただ“そこにある”という感触だけを残した。


それは、紡自身の存在と似ていた。

誰にも触れられず、けれど確かにここにいる。

透明で、曖昧で、けれど消えていない。


紡は、藍の声が風に混じって届くのを聞きながら、

鞄の中の招待状に、そっと指先を添えた。

それは、過去の痛みと、今の希望の狭間にある紙片だった。


期待にも似た何かが、静かに揺れる。

けれど、その揺れの底には、“自分はそこにいていいのか”という問いが沈んでいた。


「紡ってさ、ほんと透明なんだよね」

藍の声が、グラスの縁をなぞるように響いた。

紡は顔を上げる。

藍は笑っていた。

その笑顔は、光に包まれて輪郭が少しだけ滲んで見えた。


「いい意味でだよ。そばにいると落ち着くっていうか」


藍の声が、風のように心に触れる。

紡はその風に、少しだけ身を預ける。

けれど、完全には乗れなかった。

その軽やかさが、羨ましくて、少しだけ怖かった。


透明――それは、見えないということだろうか。

それとも、誰かの心に静かに染み込む存在なのか。

“空気”――触れられず、けれど確かにそこにあるもの。

紡は、その境界に立っているような気がした。


アイスティーの氷が、静かに音を立てて溶けていく。

その音が、紡の胸の奥に小さな波紋を広げた。


藍の隣にいる自分が、誰かの希望になれるかもしれない――

その思いは、現実よりも少しだけ柔らかくて、少しだけ遠かった。


紡は、そっとその錯覚に身を委ねる。

それは、藍の笑顔に触れたいという願いでもあり、

“触れられる存在でありたい”という祈りのようでもあった。


藍の声が、風のように心に触れる。

その優しさは、確かにそこにあった。

けれど、それが本物かどうかは分からない。


紡の中で、何かが静かに揺れた。

それは、期待かもしれない。

それとも、誰かに必要とされたいという、名もなき渇望なのかもしれない。


夜の空は、昨日と同じように淡く、何も語らない。

けれど、空の端に昼の残光が滲んでいるような気がした。


机の上の招待状は、もう光っていない。

紡は指先でその縁をなぞる。

紙の冷たさが、胸の奥に残る熱を際立たせる。

それは、生きたいと願った痕跡のようだった。


母はいつも通り、無言で夕食を並べる。

湯気の立つ味噌汁の香りが、部屋の静けさに溶けていく。

紡は箸を持ち、母の横顔をちらりと見る。

何も変わっていない。

けれど、胸の奥には、言葉にならない芽吹きがあった。


スマートフォンが震える。

藍からのメッセージ。

「今日、林さんも来るって。紡も来れる?」」

「今日は楽しかったね。また行こうね」


紡は画面を見つめたまま、動けなかった。

林という名前に触れた瞬間、紡の胸の奥に、過去の記憶が静かに広がった。

期待と不安が、同じ重さで胸にのしかかる。


藍の言葉が、胸の奥に静かに沈んでいた何かを揺らす。

怖い。けれど、行きたい。

“来れる?”――その問いは、紡の存在を前提にしていた。

誰かが、紡の“いること”を当然のように受け入れている。


それだけで、世界が少しだけ柔らかくなる。


紡は、画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吸った。

その交差点に、招待状が静かに佇んでいる。

そして、震える指で、「行く」と打ち込んだ瞬間、画面の光がわずかに揺れた。

それは、ただの反応かもしれない。

でも、招待状が応えたように感じられた。


風のせいかもしれない。

けれど、世界が彼女の選択を肯定したように思えた。

机の上の紙片が、ほんの一瞬、呼吸をしたように見えた。


その錯覚に、紡は身を預ける。

「私が望んだことだから、世界が少しだけ動いた」

そう感じたことで、朝の沈黙が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


母はまだ何も言わない。

昔の笑顔を思い出そうとしても、輪郭はぼやけていた。

湯気の向こうの沈黙は、いつしか“日常”になっていた。

けれど今、その沈黙の中に、何かを変えたい衝動が芽吹いている。


味噌汁の湯気の向こうに、昨日とは違う自分がいた。

それは、誰かに会いたいという欲望。

誰かに触れたいという期待。

生きていてもいいという“証”みたいなものだった。

そして、それが叶うかもしれないという錯覚。


紡は立ち上がり、制服の襟を整える。

招待状は、鞄の中にそっと滑り込ませた。

それは、まだ誰にも見せられない“願い”だった。

本当にそれが願いなのか――その答えは、まだ胸の奥に沈んでいる。


(つづく)

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