昨日の光が、まだ胸の奥に残っている。
紡は、藍に誘われて、久しぶりに街のカフェへ向かっていた。
昨日のメッセージが、まだ胸の奥で静かに響いている。
テラスには、午前の光が静かに差し込んでいた。
木漏れ日がテーブルの縁をなぞり、風がワンピースの裾を揺らす。
「紡、こっち、こっち!」
藍の声が、光の粒に混じって届く。
紡は眉をわずかに動かし、席に着いた。
隣の席では、誰かがカップを置く音がした。
紡はその音に目を向けず、藍の笑顔だけを見ていた。
「最近、ちょっと元気そうじゃん」
藍は、アイスティーのストローをくるくる回しながら笑う。
紡は、サンドイッチに手を伸ばしながら、曖昧な笑みを浮かべた。
テラスの風が、紡の髪を揺らす。
その笑顔の奥に、埋まらない空洞が静かに息づいていた。
アイスティーの氷が、カランと音を立てる。
その音が、藍の言葉よりも深く胸に残った。
「今度さ、遊園地行こうよ。林さんも誘ってさ」
藍の声は、風に乗るように軽やかだった。
その響きに、未来の輪郭がふわりと浮かぶ。
紡は頷きかけて、唇を閉じる。
テーブルの縁に視線を落とし、指先がわずかに震えた。
林――その名前が、胸の奥に波紋を広げる。
――それとも、誰かが、紡の存在にそっと触れようとしているからなのかもしれない。
光は、確かにそこにあった。
けれど、それが“希望”なのか、“誘惑”なのか、紡にはまだ分からなかった。
テーブルの上の招待状は、静かにそこに佇んでいる。
まるで、紡の選択を待っているかのように。
窓の外では、夕暮れが街を染め始めていた。
空の端に、昼の残光がわずかに滲んでいる。
その色は、父の声の記憶と重なって見えた。
「つむぎは、つむぎのままでいいんだよ」
その言葉が、胸の奥で微かに響く。
それは、過去の残響でありながら、今を照らす灯火でもあった。
紡は、招待状に指先を添えた。
その紙片は、冷たくもなく、温かくもなく、ただ“そこにある”という感触だけを残した。
それは、紡自身の存在と似ていた。
誰にも触れられず、けれど確かにここにいる。
透明で、曖昧で、けれど消えていない。
紡は、藍の声が風に混じって届くのを聞きながら、
鞄の中の招待状に、そっと指先を添えた。
それは、過去の痛みと、今の希望の狭間にある紙片だった。
期待にも似た何かが、静かに揺れる。
けれど、その揺れの底には、“自分はそこにいていいのか”という問いが沈んでいた。
「紡ってさ、ほんと透明なんだよね」
藍の声が、グラスの縁をなぞるように響いた。
紡は顔を上げる。
藍は笑っていた。
その笑顔は、光に包まれて輪郭が少しだけ滲んで見えた。
「いい意味でだよ。そばにいると落ち着くっていうか」
藍の声が、風のように心に触れる。
紡はその風に、少しだけ身を預ける。
けれど、完全には乗れなかった。
その軽やかさが、羨ましくて、少しだけ怖かった。
透明――それは、見えないということだろうか。
それとも、誰かの心に静かに染み込む存在なのか。
“空気”――触れられず、けれど確かにそこにあるもの。
紡は、その境界に立っているような気がした。
アイスティーの氷が、静かに音を立てて溶けていく。
その音が、紡の胸の奥に小さな波紋を広げた。
藍の隣にいる自分が、誰かの希望になれるかもしれない――
その思いは、現実よりも少しだけ柔らかくて、少しだけ遠かった。
紡は、そっとその錯覚に身を委ねる。
それは、藍の笑顔に触れたいという願いでもあり、
“触れられる存在でありたい”という祈りのようでもあった。
藍の声が、風のように心に触れる。
その優しさは、確かにそこにあった。
けれど、それが本物かどうかは分からない。
紡の中で、何かが静かに揺れた。
それは、期待かもしれない。
それとも、誰かに必要とされたいという、名もなき渇望なのかもしれない。
夜の空は、昨日と同じように淡く、何も語らない。
けれど、空の端に昼の残光が滲んでいるような気がした。
机の上の招待状は、もう光っていない。
紡は指先でその縁をなぞる。
紙の冷たさが、胸の奥に残る熱を際立たせる。
それは、生きたいと願った痕跡のようだった。
母はいつも通り、無言で夕食を並べる。
湯気の立つ味噌汁の香りが、部屋の静けさに溶けていく。
紡は箸を持ち、母の横顔をちらりと見る。
何も変わっていない。
けれど、胸の奥には、言葉にならない芽吹きがあった。
スマートフォンが震える。
藍からのメッセージ。
「今日、林さんも来るって。紡も来れる?」」
「今日は楽しかったね。また行こうね」
紡は画面を見つめたまま、動けなかった。
林という名前に触れた瞬間、紡の胸の奥に、過去の記憶が静かに広がった。
期待と不安が、同じ重さで胸にのしかかる。
藍の言葉が、胸の奥に静かに沈んでいた何かを揺らす。
怖い。けれど、行きたい。
“来れる?”――その問いは、紡の存在を前提にしていた。
誰かが、紡の“いること”を当然のように受け入れている。
それだけで、世界が少しだけ柔らかくなる。
紡は、画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吸った。
その交差点に、招待状が静かに佇んでいる。
そして、震える指で、「行く」と打ち込んだ瞬間、画面の光がわずかに揺れた。
それは、ただの反応かもしれない。
でも、招待状が応えたように感じられた。
風のせいかもしれない。
けれど、世界が彼女の選択を肯定したように思えた。
机の上の紙片が、ほんの一瞬、呼吸をしたように見えた。
その錯覚に、紡は身を預ける。
「私が望んだことだから、世界が少しだけ動いた」
そう感じたことで、朝の沈黙が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
母はまだ何も言わない。
昔の笑顔を思い出そうとしても、輪郭はぼやけていた。
湯気の向こうの沈黙は、いつしか“日常”になっていた。
けれど今、その沈黙の中に、何かを変えたい衝動が芽吹いている。
味噌汁の湯気の向こうに、昨日とは違う自分がいた。
それは、誰かに会いたいという欲望。
誰かに触れたいという期待。
生きていてもいいという“証”みたいなものだった。
そして、それが叶うかもしれないという錯覚。
紡は立ち上がり、制服の襟を整える。
招待状は、鞄の中にそっと滑り込ませた。
それは、まだ誰にも見せられない“願い”だった。
本当にそれが願いなのか――その答えは、まだ胸の奥に沈んでいる。
(つづく)