この日、紡は“温かさ”に触れた。だがそれは、彼女の心の奥に潜む欲望を揺さぶることになる。
紡は、藍の「遊園地に行こう」という言葉を信じていた。
だから、朝、鏡の前で何度も服を選び直した。
少し明るめの色。動きやすくて、でも子どもっぽくならないように。
藍に「似合ってる」と言ってもらえるような服を。
けれど、待ち合わせ場所に現れた藍は、何事もなかったように言った。
「今日は、ちょっと寄りたいところがあるの。ついてきて」
そのまま連れて行かれた。
電車の窓に映る空は、灰色に濁っていた。
雲は低く垂れこめ、遠くのビル群も輪郭を失っている。
車内のアナウンスが、無機質に響いては消えていく。
そのすべてが、紡の胸の奥に広がる空虚と、奇妙に重なっていた。
動物保護シェルターへと向かう電車の中、藍の明るい声が耳元で弾けている。
「その服、遊園地仕様って感じだね。シェルターでも浮かないといいけど」
紡は一瞬、言葉の意味を飲み込めずに藍の横顔を見つめた。
「……え? 遊園地って言ってなかった?」
藍は笑った。
「言ったっけ? まあ、動物もいるし、ある意味遊園地みたいなもんでしょ」
——あれは、ただの思いつきだったのか。
それとも、最初から“遊園地”なんて行くつもりはなかったのか。
藍の言葉は、いつも柔らかくて、どこか掴みどころがない。
その笑顔の奥に、ふとした影が差したように見えたのも、気のせいだったのかもしれない。
紡は何も言えず、視線を窓の外に戻した。
灰色の空は、さっきよりもさらに濁って見えた。
車内は静かだった。
その静けさを破るように、藍の声がさらに弾けた。
「紡、昨日言ってた課題、終わった?
私、昨日徹夜しちゃったよー!」
藍の屈託のない笑顔と、その弾むような声は、いつもなら眩しく感じるものだ。
今日は、どこか遠く響き、紡の心の空虚さを一層際立たせるかのようだった。
「藍は、いつも元気だよね」
「えー?
そんなことないよ!
私だって不安なこといっぱいあるんだから!」
藍はそう言って笑うが、その笑顔の奥に、ふとした影が差したように見えた。
紡は、言葉にできない違和感を覚えた。
藍の明るさは、まるで誰かに向けて必死に光を放っているようで――
その光の裏に、何かが潜んでいる気がした。
孤独なのかもしれない。
けれど、それを確かめる術はない。
ただ、藍の声が遠く響くたびに、紡の心の空虚さが静かに揺れた。
シェルターの入り口が見えてくると、早くも犬や猫のざわめきが響いてくる。
扉が開くと、ふわりと獣の匂いが鼻をかすめた。
乾いた床の匂いと、微かに漂う消毒液の香り。
ケージの奥から漏れる鳴き声は、どれも不安げで、どこか人間の声に似ていた。
その空間には、確かに“生きている”という気配が満ちていた。
「林さん、もう来てるみたい!」
藍が、楽しげに声を上げる。
その先にいたのは、穏やかな横顔の林 耀だ。
彼は膝をつき、子犬の頭を優しく撫でていた。
指先の動きは丁寧で、どこか祈るような静けさがあった。
「小鳥遊さん、藍さん、おはようございます」
林さんは立ち上がり、紡と藍に視線を向けた。
その瞳は深く澄んでいて、どこか遠くを見ているようだった。
目が合った瞬間、彼はふわりと笑った。
その笑みは柔らかく、けれどどこか掴みどころがない。
紡は、何かを言おうとして、言葉が喉の奥でほどけた。
「林さん…、おはようございます」
ぎこちない紡の挨拶にも、彼は微笑みながら続けた。
「今日はよろしくお願いしますね。
小鳥遊さんは動物がお好きなんですよね。
とても優しい手つきだから、きっと動物たちもすぐに懐きますよ」
その言葉は、意外だった。
けれど、不快ではない。
むしろ、柔らかな布のように、心にそっと触れてくる。
紡は、何も言えずにいた。
褒め言葉には、いつも裏を探ってしまう。
けれど、林さんの声には、どこか温度があった。
計算ではなく、ただ見たままを伝えているような――そんな気がした。
頬が、少しだけ熱を帯びる。
言葉にできない感覚が、胸の奥に静かに広がっていく。
紡は、ぎこちなく笑ってみせた。
それだけで、林さんはふわりと微笑み返してくれた。
不器用に返事をすると、林さんは優しく微笑み、私に小型犬用のリードを手渡してきた。
小さな体が、紡の足元に擦り寄ってくる。
温かくて、柔らかい。
怖がりながらも紡の手を舐めてくるその感触に、胸の奥がじんと震えた。
「この子、虐待されていたそうです。それでも、ちゃんと人間を信じてくれている。すごいですよね」
紡は、その言葉に何も返せなかった。
ただ、視線を落とし、子犬の小さな背をそっと撫でた。
「まずはこの子から、少しお散歩してあげてください」
林さんが隣でそう呟く。
紡は言われた通り、震える体をそっと抱き上げる。
そのぬくもりが、指先からじわりと染み込んでくるようだった。
歩き出すと、子犬は不安げに紡の足元を見上げた。
その瞳に映るものが、紡には分からなかった。
けれど、何かが通じ合ったような気がした。
ただそこにいるだけで、誰かに受け入れられる。
そんな感覚が、胸の奥に静かに広がっていく。
紡は子犬のぬくもりに頬を寄せながら、静かに目を閉じた。
小さな命の鼓動が、掌の奥にじんわりと伝わってくる。
その温かさに包まれながら、ふと心の奥で思った。
――これが、私の欲しかったものだったのかもしれない。
誰かに認められるでもなく、言葉を交わすでもなく。
ただ、無条件に触れ合い、互いの存在を受け入れること。
それだけで、胸の奥が静かに満たされていく気がした。
その瞬間、ポケットの中の招待状が、じわりと熱を帯び始めた。
まるで、紡の思いに応えるように。
慌てて手を入れてみる。
そこにあるのは、いつもと変わらない真っ白なカード。
けれど、指先に触れた瞬間、カードの縁が一瞬だけ、青く光ったように見えた。
(気のせい……?)
(幻覚……?)
紡は子犬を抱き直しながら、ふと空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い光が差し込んでいる。
その光は、どこか遠くから届いたような、静かなぬくもりを帯びていた。
「紡、集中しなさいよー!」
藍の声が、背後から飛んできた。
振り返ると、藍はすでに別の犬を連れて、テキパキとボランティア活動を進めていた。
リードを持つ手は慣れていて、笑顔も自然に見える。
けれど、その明るさが、今日の紡には少し眩しすぎた。
窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めていた。
シェルターの庭に差し込む陽射しは、ケージの影を長く伸ばし、犬たちの鳴き声が風に乗って揺れている。
空はまだ曇っていたが、雲の切れ間から淡い光が差し込んでいた。
ふと、藍が子犬を撫でる指先に、わずかな震えが走った。
ほんの一瞬だったが、紡の目にはそれが妙に印象に残った。
まるで、何かを隠しきれずにこぼしてしまったような、そんな揺らぎ。
林さんは、少し離れた場所からその様子を静かに見つめていた。
彼の瞳は穏やかで、何を考えているのかは分からない。
ただ、その視線が藍の手元に向けられた瞬間、紡はなぜか背筋がひやりとした。
林さんの表情は変わらない。
けれど、瞳の奥に一瞬だけ、冷たい光が宿ったように見えた。
それは、藍の中にある何かを、静かに見抜いているような――そんな気配だった。
紡は、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
林さんの優しい笑顔の裏に、触れてはいけない何かが潜んでいるような気がした。
そのとき、ポケットの中の招待状が、じわりと熱を帯び始めた。
まるで、誰かの心臓が、紡の手のひらの中で鼓動しているかのように。
その熱が、紡の意識の奥底に、静かに響いた。
――何かが、動き始めている。
『承認を求める者よ。
お前が本当に求めるものは、この程度の偽りの温かさではない。』
その声は、紡の胸の奥に冷たい針のように突き刺さった。
子犬のぬくもりに包まれていたはずの心が、一瞬で凍りつく。
紡は、思わず腕の力を緩めてしまい、子犬を落としそうになる。
慌てて抱き直すが、指先が震えていた。
招待状の声は、紡の“優しさ”すら否定してくる。
まるで、「それは本物じゃない」と言われているようだった。
この温かさが偽りだというのなら、
自分が求めていたものは、一体何だったのか。
ポケットの中の招待状が、じわりと脈打つような熱を帯びていた。
それは、紡の心臓の鼓動と重なるように、静かに、確かに響いていた。
シェルターを出ると、夕暮れの空はすっかり色を失っていた。
灰色の雲が、空を均一に覆い、街灯の光だけがぼんやりと滲んでいる。
アスファルトの上を歩く靴音が、妙に響いて、紡の胸の奥に沈んでいった。
風は冷たく、何も語らず、ただ通り過ぎていく。
帰り際、シェルターの玄関先で林 耀が、ふと何気なく言った。
「……今日も、自然体ですね」
その言葉を聞いた瞬間、窓の外の景色がぼやけた。
夕暮れの光が、まるでフィルムを焼きすぎたように、色を失っていく。
風が止まり、蝉の声だけが遠くで鳴いていた。
「え……?」
喉から漏れた問い返しは、ひどくかすれていた。
林さんは気づかないふりをするように、すぐに話題を変えた。
——自然体?
ああ、そうだった。
ぎこちない笑顔。
聞き役に徹する態度。
感情を濁さない声色。
全部、“好かれるため”の私だった。
林さんの目に映っているのは、本当の私ではない。
ただの“演じる私”だ。
それなのに、自然体に見えたというのなら──
彼は、私がずっと隠してきた“偽り”に気づいていないのだ。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
息が浅くなり、喉の奥に言葉が引っかかる。
何も言えないまま、ただ心の中に疑問だけが残る。
——本当の私は、誰にも必要とされないのかもしれない。
「本当の自分って……何なの?」
窓の外では、夕焼けが静かに沈み、街の輪郭が灰色に溶けていく。
「こんな温かいものでもないとしたら……
私の“真の欲望”って、どれだけ恐ろしいものなんだろう……」
(つづく)