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第3話:描かれ始める真の欲望

翌朝、紡は枕元に置いた招待状に手を伸ばした。昨日感じた微熱はもうない。やはり気のせいだったのかと、諦めにも似たため息を一つ。


しかし、その安堵は一瞬で打ち砕かれた。


指先が触れたカードの表面に、ごく薄く、けれど確かに、何かの輪郭が浮かび上がっているのを感じた。光にかざしてみる。それはただのインクの滲みなどではなかった。


繊細でいて、どこか力強い、植物の蔓のような模様がそこにあった。蔓は細く、白いカードの端からゆっくりと中央に向かって伸びている。まるで、紡が知らないうちに、紡の内側に何かが芽生え始まっているとでもいうように。


「これは……一体?」


『真の欲望』に触れた時、インクが姿を現す。紡の「真の欲望」が、こんな植物の模様だというのだろうか?


なぜ、これが? どうして、これが私の欲望と? それにしては、あまりにも漠然としすぎている。こんな曖昧なものが私の「欲望」なのか。


それはまるで、真っ白な絵の具を溶かした水に、これまで見たことのない色がじんわりと滲み始めたような。あるいは、退屈な日々という名の調合に、嗅いだことのない匂いがほんの少しだけ加えられたような、そんな予感と、そして得体の知れない制御不能な不快感が入り混じっていた。


紡の心は、白か黒か、はっきりしないものを嫌う。それなのに、この蔓はまるで紡の内側の曖昧さを、外側に具現化したかのようだった。それは決して心地よいものではなく、むしろ、紡の根幹にある『空っぽ』を、無理やり塗りつぶそうとする、見えない侵食者のようにも思えた。


けれど、昨日感じた胸の高鳴り、林 耀という男がくれたあの不思議な安らぎと、この蔓の成長が、何らかの形で繋がっているような気がしてならなかった。


この抗えない変化の兆しが、紡の心をざわつかせた。白黒はっきりしない状況への不安が募る。紡は、この意味をどうしても理解したいと強く願っていた。


その日の夜、紡は林 耀からメッセージを受け取った。


『今日のボランティア、お疲れ様でした。小鳥遊さんが犬たちと接している姿、とても素敵でしたよ。』


スマホの画面を見た瞬間、また頬が熱くなった。


普段なら、無意味な社交辞令に過ぎないと、反射的に「いや、私なんて……」と自己否定が始まるものだ。

だが、林 耀の言葉は違った。

それは、長年渇いていた紡の心に、まるで直接潤いを与えるかのように、何の引っかかりもなく染み入ったのだ。


なぜ? 林 耀が私から何を得ようとしているのか、即座に探るべきなのに、その疑問すら薄れるほどの心地よさに、私は戸惑った。


林 耀の言葉は、紡の表面的な行動だけでなく、その裏にある「動物を慈しむ心」を、本当に見てくれたような気がした。それが、荒れがちな紡の心には、林 耀の持つ真逆の「感情を揺らがせない穏やかさ」と相まって、異様に心地よかった。その因果関係はまったく掴めなかったが、なぜこんなにも心地よいのか、この感覚そのものが紡には理解不能だった。


『ありがとうございます。林さんも、とても優しいですよね。』


当たり障りのない返事を送っておくか。

そう考えながらメッセージを送信した。


だが、指が送信ボタンを離れてもなお、紡の意識は画面に釘付けだった。

どこかで林 耀の返信を待っていたのだ。

奇妙な感覚だった。


なぜ、彼の言葉だけは、私を陥れる意図がないと、私の心が安堵するのか。


長年の習性である自己防衛の感覚が、この時ばかりは機能不全に陥っていた。


これは、かつて「褒められたい」と願うが故に裏切られ、傷ついた私の稚拙な部分が顔を出した証か。それとも、あの男の言葉だけは、私を陥れる意図がないと判断した、私の経験則が導き出した答えなのか。信用していいのか、この微かな期待を抱く自分を。


だが、その不安を振り払う間もなく、既読が付いた。すぐにメッセージが届いた。


『小鳥遊さんは、そうですね……例えるなら、静かな泉のような方ですね。澄んでいて、そこに近づくものを優しく受け入れる。』


静かな泉……?


林 耀の言葉は、紡の心の奥深くにある、普段は誰も立ち入らない場所に触れたようだった。


父が亡くなって以来、紡の中は常に荒れ果てた野原のようなものだった。


そんな美しいものが私の中に存在するのか。


しかし、なぜ林 耀は、そんなにも紡の内面を正確に言い当てられるのだろう? 林 耀の言葉は、紡にとって心地よいと同時に、見透かされるような恐ろしさも孕んでいた。


まるで、林 耀の瞳の奥に、紡の過去の全てが映し出されているかのように。


彼は一体、何者なのだ。何故、そこを覗こうとする?何故、知ろうとするのか? 私には、その真意が掴めなかった。


『でも、その泉の底には、まだ誰も知らない、深く冷たい場所があるように見えます。』


心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。


それは核心を掠めるどころではなかった。林 耀は、紡が誰にも見せてこなかった、いや、自分でも見ようとしなかった心の奥底、父の死と自殺未遂という「深く冷たい場所」の存在を、明確に認識しているのではないか。


林 耀は、本当にただのボランティア仲間なのだろうか。林 耀の静かな瞳の奥に、紡は初めて、底知れない謎の影を見た気がした。


同時に、この人を頼れば、紡の「空っぽな承認欲求」は、ただ満たされるだけでなく、もっと別の形へと昇華できるかもしれないという、かすかな希望が胸に芽生えた。なぜ、そう思ってしまったのか、紡にはまだ答えが出ない。


翌日。紡は新しい生活の始まりに、不安とわずかな期待を抱きながら、新しい職場へと足を踏み入れた。


今日から、紡はここで社会人としての一歩を踏み出すのだ。張り詰めた空気が、足元からじんわりと這い上がってくるような感覚がした。


案内された部署のデスクで荷物を整理していると、背後から凛とした声が聞こえた。ひんやりとした空気が肌を撫でる。その声は、ただ耳に届くだけでなく、紡の背骨を凍らせるような、有無を言わせぬ絶対的な「圧」を感じさせた。


「小鳥遊紡さんですね。今日からあなたの直属の先輩となる、神崎 厳です」


振り返ると、そこに立っていたのは、三十代前半と思しき男だった。

引き締まった体格に、鋭い眼差し。神崎は紡を一瞥すると、言葉の通り、厳格な雰囲気を纏っていた。深い紺色のスーツが、その冷徹な印象をさらに際立たせる。


林 耀の穏やかさとは真逆の、まるで研ぎ澄まされた刃のような存在感。神崎は、紡の心の奥底まで見透かしているかのように、真っ直ぐに紡を見ていた。


「はい、小鳥遊 紡です。今日から、よろしくお願いいたします」


緊張で声が上ずる。紡は神崎の表情を窺うが、その顔には一切の感情が読み取れない。神崎は資料を紡のデスクに置くと、腕を組み、静かに言った。


「ここに遊びに来たわけではないでしょう。成果を出せば相応に評価する。それだけです」


神崎の言葉は、紡の心の奥底に染み付いた「褒められない」という感覚を刺激した。


母の蓮華と同じだ。けれど、彼の瞳には、単なる冷酷さとは異なる、何かを見定めるような強い光があった。


紡は、この厳しさの中で、自分自身の存在価値を、評価という形で見出していかねばならない。彼が求めるのは完璧な成果。それは彼自身の「誰よりも優れていたい」という承認欲求の裏返しなのかもしれない。この男は、私に「自己肯定感」を試しているのか――?


そして、この新しい環境、そしてこの男が、紡の『透明な招待状』に、一体何を刻みつけていくのだろう。


その瞬間、ポケットの中の招待状が、また微かに熱を帯びた。

それは、まるで神崎 厳の視線に呼応するかのように。


紡にはまだ、その全貌が見えなかった。


(つづく)

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