週末のボランティア活動から、そして新たな職場での出会いから、数日が過ぎていた。
紡の日常は、以前にも増して、奇妙な予感に満ちていた。
特に、枕元に置かれた招待状の存在は、常に彼女の意識を捕らえて離さない。
蔓の模様が浮かび上がったカードは、それ以上変化を見せなかった。
しかし、その繊細で不気味な植物の輪郭は、確かにそこに存在し、紡の内側を静かに侵食しているかのようだった。
(なぜ、これが私の『真の欲望』と関係するのだろう? そして、なぜ、私にこの招待状が届いたのか……?)
林 耀の言葉が、脳裏を巡る。
「静かな泉」「深く冷たい場所」。
あの時の林 耀の瞳には、紡の全てを見透かすような、抗い難い力があった。
そして、神崎の容赦ない厳しさ。
まるで、それぞれが紡の心の深淵を覗き込み、何かを試しているかのようだ。
その日の午後、職場での休憩中、紡は林 耀からメッセージを受け取った。
『小鳥遊さん、ご相談があるのですが、今夜少しお時間いただけますか? シェルターのことで、お話ししたいことがあって。』
シェルターのことで、と断りがあるものの、紡の直感は、それが招待状のことだと告げていた。
胸がざわつく。
期待と不安が入り混じり、指先が微かに震えた。
その日の夜、指定されたカフェに林 耀の姿があった。
林 耀は穏やかな笑みを浮かべ、紡を迎える。
テーブルには、注文したコーヒーが置かれ、湯気が静かに立ち上る。
「お呼び立てしてしまってすみません。実は、シェルターとは直接関係ないお話で、小鳥遊さんにお伝えしたいことがあったんです」
林 耀はそう言って、真っ直ぐに紡の瞳を見つめた。
その視線は、優しく、しかし有無を言わさない強い意志を秘めていた。紡は息を飲んだ。
「小鳥遊さん。あなたに、あの招待状が届いた理由……そして、インクが姿を現す条件について、お話しさせてください」
紡の心臓が大きく跳ねた。
(やはり、この人は知っていたのだ。)
林 耀は、ゆっくりと語り始めた。
「あの招待状は、『真の欲望』を自覚しないまま、表面的な承認や虚ろな満たされ方を求め続ける人間に、その存在を問い直すために送られます」
林 耀の言葉は、まるで紡の心の声をそのまま読んでいるかのようだった。
「あなたの心の奥には、幼い頃からの『承認』への渇望が深く根付いています。
しかし、それは周囲の評価や一時的な繋がりで埋められるものではなく、もっと根源的な、あなたの存在意義に関わる場所にある。
父君の死、
そして、ご自身を傷つけようとした過去……
その時、あなたは『死』という絶対的な安堵、あるいは赦しを、無意識のうちに『真の欲望』として、心の奥底に刻んでしまった。
それは、自覚なきまま、あなたを深く支配し続けている」
林 耀の言葉は、紡の最も触れたくない、心の「深く冷たい場所」を容赦なく暴き立てた。
父の死、そして自殺未遂。
あの時感じた、全てから解放されるような、甘美な誘惑……。
それは確かに、今の承認欲求とは異なる、心の底からの「渇望」だったかもしれない。
「あの招待状のインクは、あなたが自身の『真の欲望』の断片に触れるたびに、あるいはその欲望が刺激されるたびに、少しずつ姿を現します。
それは、あなたがその欲望を直視し、受け入れるための道しるべ。
そして、蔓の模様……それは、あなたの『真の欲望』が、生命の終焉、循環、
そしてその中にある新たな始まり、つまり『死』と『再生』という根源的なテーマと結びついていることを示しているのです」
紡は、頭が真っ白になった。
父の死。
そして、自らを消し去ろうとしたあの瞬間。
あの時、確かに感じた安堵と、全てが終わるという甘美な誘惑。
それが、私の「真の欲望」……?
「では、なぜ、林さんはそれを……」
紡は掠れた声で問う。
林 耀は、静かにコーヒーカップに手を伸ばした。
「私たちは、あなたのような方々が、『真の欲望』と向き合い、それを受け入れる手助けをする存在です。それが、私たちに与えられた使命。私もまた、かつてあなたと同じように、招待状を受け取った一人ですから」
林 耀の瞳は、確かに紡の過去と未来を見通しているようだった。
そして、彼の言葉は、紡の心の奥底に、抗いがたい戦慄と、そして奇妙なほどの納得をもたらした。
「そして、神崎さんは、あなたのその『真の欲望』を、より強く、しかし強制的に引き出す役割を担っています。彼の厳しさは、あなたの根源的な承認欲求を刺激し、その奥に隠された『真の欲望』を表面化させるためのものです」
紡は、林 耀から聞いた「見透かすような強い光」の意味を理解した。
神崎は、林 耀とは異なる形で、紡の欲望を炙り出す存在だったのだ。
招待状が届いた理由。
「真の欲望」が意味するもの。
インクの条件。
全てが、林 耀の言葉によって、冷徹なまでに明確になった。
しかし、その明確さは、紡に新たな絶望と、そして抗えない予感をもたらした。
(私の「真の欲望」が、父の死に由来する「死への甘美な誘惑」だというのなら、私はそれをどう受け入れればいい? これから、この招待状は、私をどこへ導こうとしているのか……?)
林 耀の瞳は、そんな紡の心の葛藤を、全て理解しているかのように、静かに、そして慈愛を込めて紡を見つめていた。その優しい視線の奥に、紡は、自身もまた『真の欲望』と向き合い、乗り越えてきた者の確固たる強さを感じ取った。
紡の『透明な招待状』に、今、新たな蔓が、はっきりと、より太く、絡みつくように刻まれていく予感がした。
翌日。
新しい職場での日々は、張り詰めた空気の中で始まった。
デスクに座っていても、背後から神崎の視線が針のように突き刺さる。
紡は常に神経を研ぎ澄ませていた。
この男のためではない。
自分を保つために、完璧を演じ続けることに、紡自身が拒絶反応を起こしていた。
背筋には常に、冷たい水が這い上がるような、薄ら寒い感覚がまとわりつく。
(なぜ、ここまで無駄な労力を使わねばならないのか、その疑問が常に頭を巡った。)
神崎は多くを語らない。
だが、その引き締まった体躯から放たれる気配と、鋭い瞳は常に、紡の、あるいは同僚たちの動きを静かに、しかし厳しく見定めている。
無駄を嫌い、効率を求める彼の姿勢は、ある意味で潔かった。
そういった点は、神崎の類稀なる「凄み」と言えるだろう。
明確な基準がなければ動かない紡にとって、白か黒か、はっきりとした彼の指示は、むしろ合理的で、分かりやすい。
ミスをすれば、容赦なく的確な指摘が飛んでくる。
それは決して感情的なものではない。
だからこそ、より一層、完璧でなければならないというプレッシャーが、紡を音もなく追い詰めていく。まるで、透明な檻の中に閉じ込められたかのような息苦しさだ。
(私の存在意義は、本当にこの「成果」という数値でしか測れないのだろうか。父は、ただそこにいる私を、無条件に認めてくれたというのに。)
ふと、脳裏に父の穏やかな笑顔がよぎる。
あの温かい、無条件の愛情は、もうこの世界にはどこにもない。
それがこの世の現実なのだと、紡は突きつけられていた。
無条件の愛情とは、父と共に消えた幻想なのだろうか。
この世は常に、何らかの「価値」と引き換えにしか、存在を認めてはくれない。
その冷たい現実に、紡はただ抗う術を探していた。
ここは、紡自身の力で「価値」を示さなければならない場所なのだ。
その理屈は頭では理解している。
だが、それに伴うこの重圧は、まるでじわじわと身体を締め上げる縄のようだ。
このままでは、紡は少しずつ、自分自身を頑なな殻へと閉じ込めてしまうだろう。
(私は、生来の寂しがり屋だ。誰かに寄り添ってほしいと願っている。この状況では誰にも弱みを見せられない。)
もし誰かに頼りすぎたら、その瞬間に「どうでもいい存在」として扱われるのではないかという、漠然とした恐怖が、常に付き纏う。これでは、紡の承認欲求を満たすどころか、むしろ飢餓を加速させ、さらに心を蝕んでいくだけではないか。
その日の夜、紡は自室のテーブルに招待状を置いた。
あの植物の蔓の模様は、昨日よりも少しだけ濃くなっている気がする。
白かった部分に、ごく薄い緑が滲んでいるような。それが何を意味するのか。
ただ、このカードが、紡の心の状態と連動していることだけは、確信めいたものがあった。
(私の「真の欲望」が、この蔓のように静かに成長している、とでもいうのだろうか。もしそうならば、私が望むのは、この凍えるような孤独から救われることなのかもしれない。それが、このカードに描かれているものなのだろうか。
しかし、この蔓が示す「欲望」は、ただの「救い」に留まらない、何か別の意味を孕んでいるような気もした。)
手持ち無沙汰にスマホを開くと、藍からメッセージが届いていた。
『ねぇ、紡!今度、うちで夕ご飯食べない?久しぶりにゆっくり話したいな!』
藍の明るい誘いに、紡の心が僅かに和んだ。
彼女はいつも、紡が塞ぎ込んでいる時に、こうして手を差し伸べてくれる。藍の底抜けの明るさの裏に、紡が知るはずのない「影」があることを、林 耀が示唆したあの瞬間を思い出す。それでも、今、紡にとって彼女の存在は、間違いなく光だった。
『うん、行く!』
指が震えながらも、紡はすぐに返事を打った。
その日の帰り道、偶然、駅前で林耀とすれ違った。
雑多な喧騒の中、駅前のビル群からはけばけばしいネオンサインが、夜空に毒々しい光を放っている。そんな光の渦の中で、彼はスマートフォンを耳に当て、誰かと話しているようだった。
飾り気のない淡いグレーのシャツに、ゆったりとした黒いパンツ。休日らしいその服装は、彼の穏やかな雰囲気を一層際立たせていた。
いつもの穏やかな表情は変わらない。けれど、彼の会話から、ごく一部の言葉が、紡の耳に滑り込んできた。
「……そちらの件は、順調に進んでいます。彼女の……承認欲求は、こちらの思惑通りに動いています。」
紡の足が、ぴたりと止まった。「承認欲求」。その言葉が、紡の凍りついた心臓に、鋭い氷を突き立てた。
そして、「思惑通りに動いています」? 林 耀がこの招待状と関係している?
(私の承認欲求が、彼の『思惑』の一部だというのか? 何のために、こんなことを――)
断片的な言葉だけで、勝手に物語を作り上げているのではないか。彼の口から出たのは、確かに「承認欲求」と「思惑通り」という物騒な単語だ。
しかし、それが自分のことだと、なぜ即座に決めつけられるのか。
長年の経験則からくる、紡自身の過剰な警戒心が見せる幻影なのかもしれない。
そう頭では否定しようとしながらも、この胸のざわめきだけは、決して気のせいだとは思えなかった。
紡は無意識に、ポケットの中の招待状に触れた。
微かに、いや、はっきりと、カードが熱を持っているのを感じた。
それは、植物の蔓が、紡の中で急激に伸びていくような、ぞっとする感覚だった。
林 耀は、紡とは真逆の穏やかさで、紡を包み込むような人のはずだ。
林 耀の静かな瞳の奥に、紡は、今まで見ないふりをしてきた闇の片鱗を、より深く、より冷たい形で垣間見た気がした。
この底知れぬ悪寒は、私をどこまで蝕むのだろうか。
しかし、蝕まれる前に、紡自身がその正体を暴かなければならない。
(つづく)