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第4話:信頼の裏、監視の目

動物保護シェルターでのボランティアを終え、藍と連れ立って電車に乗っていた。昼間の喧騒が嘘のように、車内は静かだ。紡の心の中も、外の景色と同じように、どこかぼんやりとしていた。何かが、胸の奥に残っている気がした。


静かな車内に、藍の声がふわりと差し込んだ。


「紡、お疲れ様。

今日、林さんにも会えてよかったね!

やっぱり優しいし、癒やされるー!」

藍がスマホを操作しながら、楽しげに話しかけてくる。


「うん……」

紡は曖昧に答える。


優しさに包まれた時間は、確かに心地よかった。

けれど、最後に交わした視線が、妙に胸に残っている。


藍の震える指先を見つめた、あの一瞬。

そこに宿っていたのは、冷たい光――


人の奥底を見透かすような、静かな鋭さだった。

見間違いだったのか、それとも……。

穏やかな笑顔の奥に、別の顔が潜んでいる気がした。

その揺らぎが、紡の心に小さな波紋を広げていく。


藍はスマホの画面に視線を戻し、指を滑らせる。


「そういえばさ、林さんって、いつも一人でいるイメージだよね?」


紡は、藍の言葉に小さく反応する。


「友達とかあんまり見ないし、大学でもサークル以外だと見かけないし。」


藍は画面を見つめながら、ぽつぽつと続ける。


「話しかけたらちゃんと返してくれるけど、なんか壁があるっていうか……」


「優しいんだけど、近づきすぎると、ふっと距離を取られる感じ?」


紡はハッとした。

確かにそうだ。


彼はいつも穏やかで、誰とでも分け隔てなく接しているように見える。

けれど、親しい友人の姿は見えない。

まるで、誰にも踏み込ませないように、一線を引いているような印象。


「でも、優しいから人気あるのかもねー。

それに、頭もよさそうだし。

なんだか、ちょっと近づきがたい雰囲気もあるけど。」


藍はそう言って、再びスマホに夢中になった。


紡は、ポケットの中にある招待状をそっと握りしめる。


あの時、招待状は告げていた。

「この程度の偽りの温かさではない」と。



大学の最寄り駅で藍と別れ、一人で歩く帰り道。

空はもう夕暮れの茜色に染まっていた。


スマホが震える。

林さんから、簡潔なメッセージが届いていた。


『今日はありがとうございました。

小鳥遊さんの優しい手つき、犬たちも喜んでいましたよ。』


紡はその言葉を読み、小さく息をのんだ。


(優しい手つき……?)


──そんなふうに言われたのは、いつぶりだろう。


思い返しても、記憶は曖昧だ。

中学の頃、美術の授業で描いた絵を、先生に「丁寧だけど、面白みに欠ける」と言われたことがある。

そのとき、自分の“丁寧さ”が否定されたような気がして、ずっと心に引っかかっていた。


誰かに褒められることはあっても、

それが本当に“自分自身”に向けられたものなのか、いつも疑っていた。


でも今、林さんの言葉は違った。

乾いたスポンジが水を吸い込むように、紡の心に静かに染み渡っていく。


それは、表面的な称賛ではなく、

自分でも気づいていなかった部分を、そっと見つけてくれたような感覚だった。


(私のことを、本当に見てくれている……?)


胸の奥に、ゆっくりと「信頼」の温かさが広がっていく。

それは、あのとき子犬を抱きしめた瞬間に感じた、柔らかなぬくもりに似ていた。


もしかしたら――

この「空っぽ」を埋めてくれる、たった一人の「理解者」になってくれるのかもしれない。


その時、ポケットの中の招待状が、再び微かな熱を帯び始めた。

手のひらに吸い付くような感触。

皮膚に触れている部分が、じんわりと、まるで呼吸をしているかのように脈打つ。


それは、紡の「信じたい」と願った感情に、冷たい指先で触れてくるようだった。

まるで、心の奥をわらうように。


(私は……何を信じたいの? それとも、誰かに信じてほしいの……?)


そんな問いが、ふと脳裏をかすめた。


招待状を取り出すと、白紙のはずの表面が、微かに黄色みがかった光を放ち始めていた。

その光は、ゆっくりと文字の形を描き出していく。


『「信頼」は、ときに盲目となる。

「理解者」の仮面を被る者を見極めろ。

真の「渇望」は、闇の奥底に潜む。』


文字が浮かび上がった瞬間、紡の思考は止まった。


「信頼」──「理解者」──「仮面」……。


ついさっきまで、林さんの言葉に心がほどけていた。

優しい手つき。見てくれているという感覚。

それは、誰かに肯定されたような、静かな温もりだった。


なのに今、目の前の言葉は、それを根底から否定しようとしている。


(仮面を被っている……?)


そんなはずはない。そう思いたい。

でも、あの視線──藍の震える指先を見つめた、あの一瞬だけは、確かに違っていた。

優しさの奥に、何か冷たいものが潜んでいた気がする。


信じたい気持ちと、揺らぐ不安が、胸の奥でせめぎ合っていた。


招待状の言葉が、何度も脳内で繰り返される。

それは、紡の「信頼」そのものを試すように、静かに、確かに響いていた。


駅に着いた瞬間、背中に何かが触れたような気がした。

視線……いや、空気の揺れ。

そんな曖昧な違和感が、紡の足を一瞬止めた。


駅前のカフェの窓際に座る男。

黒いコートにキャップ。

ただの通行人かもしれないのに、なぜか目が離せなかった。


店内の暗がりに沈むその姿は、どこか異質だった。

顔は見えない。けれど、視線だけは、確かにこちらに向けられている気がした。

紡の手の中にある、光を放つ招待状を――じっと見つめているような。


反射的に、紡は招待状をポケットにねじ込んだ。


男は、ゆっくりとカップを傾ける。

その仕草は、まるで全てを見通しているかのように、静かで、冷徹だった。


駅前のカフェは、夕暮れの喧騒から少し離れた場所にあり、店内は薄暗く、外の街灯の光が窓ガラスにぼんやりと反射していた。

通りを行き交う人々の足音が遠くに響く中、男の周囲だけが、まるで時間が止まっているような静けさに包まれていた。


店内の照明が、キャップのつばに陰を落とし、目元だけが闇に沈んで見えなかった。

だが、確かに視線を感じる。


それは、視線ではなく──圧力。


視線を逸らしたいのに、身体が動かない。

心の奥底を覗き込まれているような、そんな底知れぬ気配。


(あの人、一体……?)


背筋を冷たいものが走る。

“逃げなきゃ”という警鐘だけが、どこか遠くで鳴り響いていた。


招待状は、私の心を見透かすだけでなく、他者への「信頼」すらも揺るがせる。

そして、私と招待状の全てを「監視」しているかのような、謎の男の視線。


駅前の街路樹が、風に揺れてざわめいていた。

遠くで踏切の音が鳴り、電車の光がビルの窓に反射している。

人々の足音が遠ざかる中、紡の周囲だけが、まるで音を吸い込んだように静まり返っていた。


紡の日常は、もはや、「空っぽ」という曖昧な殻に閉じこもっていられる時間は終わった。

この底知れない謎は、一体どこまで私を暴き、どこへ連れ去ろうとしているのか。


空は墨を流したように濁り、街灯の光が路面に滲んでいた。

風が、どこか焦げたような匂いを運んできた。

街は静かに息を潜め、紡の足元だけが、時間から切り離されたように感じられた。


夜の帳が降りる街で、紡はただ、胸の奥に広がるざわめきに立ち尽くしていた。


(つづく)

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