動物保護シェルターでのボランティアを終え、藍と連れ立って電車に乗っていた。昼間の喧騒が嘘のように、車内は静かだ。紡の心の中も、外の景色と同じように、どこかぼんやりとしていた。何かが、胸の奥に残っている気がした。
静かな車内に、藍の声がふわりと差し込んだ。
「紡、お疲れ様。
今日、林さんにも会えてよかったね!
やっぱり優しいし、癒やされるー!」
藍がスマホを操作しながら、楽しげに話しかけてくる。
「うん……」
紡は曖昧に答える。
優しさに包まれた時間は、確かに心地よかった。
けれど、最後に交わした視線が、妙に胸に残っている。
藍の震える指先を見つめた、あの一瞬。
そこに宿っていたのは、冷たい光――
人の奥底を見透かすような、静かな鋭さだった。
見間違いだったのか、それとも……。
穏やかな笑顔の奥に、別の顔が潜んでいる気がした。
その揺らぎが、紡の心に小さな波紋を広げていく。
藍はスマホの画面に視線を戻し、指を滑らせる。
「そういえばさ、林さんって、いつも一人でいるイメージだよね?」
紡は、藍の言葉に小さく反応する。
「友達とかあんまり見ないし、大学でもサークル以外だと見かけないし。」
藍は画面を見つめながら、ぽつぽつと続ける。
「話しかけたらちゃんと返してくれるけど、なんか壁があるっていうか……」
「優しいんだけど、近づきすぎると、ふっと距離を取られる感じ?」
紡はハッとした。
確かにそうだ。
彼はいつも穏やかで、誰とでも分け隔てなく接しているように見える。
けれど、親しい友人の姿は見えない。
まるで、誰にも踏み込ませないように、一線を引いているような印象。
「でも、優しいから人気あるのかもねー。
それに、頭もよさそうだし。
なんだか、ちょっと近づきがたい雰囲気もあるけど。」
藍はそう言って、再びスマホに夢中になった。
紡は、ポケットの中にある招待状をそっと握りしめる。
あの時、招待状は告げていた。
「この程度の偽りの温かさではない」と。
大学の最寄り駅で藍と別れ、一人で歩く帰り道。
空はもう夕暮れの茜色に染まっていた。
スマホが震える。
林さんから、簡潔なメッセージが届いていた。
『今日はありがとうございました。
小鳥遊さんの優しい手つき、犬たちも喜んでいましたよ。』
紡はその言葉を読み、小さく息をのんだ。
(優しい手つき……?)
──そんなふうに言われたのは、いつぶりだろう。
思い返しても、記憶は曖昧だ。
中学の頃、美術の授業で描いた絵を、先生に「丁寧だけど、面白みに欠ける」と言われたことがある。
そのとき、自分の“丁寧さ”が否定されたような気がして、ずっと心に引っかかっていた。
誰かに褒められることはあっても、
それが本当に“自分自身”に向けられたものなのか、いつも疑っていた。
でも今、林さんの言葉は違った。
乾いたスポンジが水を吸い込むように、紡の心に静かに染み渡っていく。
それは、表面的な称賛ではなく、
自分でも気づいていなかった部分を、そっと見つけてくれたような感覚だった。
(私のことを、本当に見てくれている……?)
胸の奥に、ゆっくりと「信頼」の温かさが広がっていく。
それは、あのとき子犬を抱きしめた瞬間に感じた、柔らかなぬくもりに似ていた。
もしかしたら――
この「空っぽ」を埋めてくれる、たった一人の「理解者」になってくれるのかもしれない。
その時、ポケットの中の招待状が、再び微かな熱を帯び始めた。
手のひらに吸い付くような感触。
皮膚に触れている部分が、じんわりと、まるで呼吸をしているかのように脈打つ。
それは、紡の「信じたい」と願った感情に、冷たい指先で触れてくるようだった。
まるで、心の奥を
(私は……何を信じたいの? それとも、誰かに信じてほしいの……?)
そんな問いが、ふと脳裏をかすめた。
招待状を取り出すと、白紙のはずの表面が、微かに黄色みがかった光を放ち始めていた。
その光は、ゆっくりと文字の形を描き出していく。
『「信頼」は、ときに盲目となる。
「理解者」の仮面を被る者を見極めろ。
真の「渇望」は、闇の奥底に潜む。』
文字が浮かび上がった瞬間、紡の思考は止まった。
「信頼」──「理解者」──「仮面」……。
ついさっきまで、林さんの言葉に心がほどけていた。
優しい手つき。見てくれているという感覚。
それは、誰かに肯定されたような、静かな温もりだった。
なのに今、目の前の言葉は、それを根底から否定しようとしている。
(仮面を被っている……?)
そんなはずはない。そう思いたい。
でも、あの視線──藍の震える指先を見つめた、あの一瞬だけは、確かに違っていた。
優しさの奥に、何か冷たいものが潜んでいた気がする。
信じたい気持ちと、揺らぐ不安が、胸の奥でせめぎ合っていた。
招待状の言葉が、何度も脳内で繰り返される。
それは、紡の「信頼」そのものを試すように、静かに、確かに響いていた。
駅に着いた瞬間、背中に何かが触れたような気がした。
視線……いや、空気の揺れ。
そんな曖昧な違和感が、紡の足を一瞬止めた。
駅前のカフェの窓際に座る男。
黒いコートにキャップ。
ただの通行人かもしれないのに、なぜか目が離せなかった。
店内の暗がりに沈むその姿は、どこか異質だった。
顔は見えない。けれど、視線だけは、確かにこちらに向けられている気がした。
紡の手の中にある、光を放つ招待状を――じっと見つめているような。
反射的に、紡は招待状をポケットにねじ込んだ。
男は、ゆっくりとカップを傾ける。
その仕草は、まるで全てを見通しているかのように、静かで、冷徹だった。
駅前のカフェは、夕暮れの喧騒から少し離れた場所にあり、店内は薄暗く、外の街灯の光が窓ガラスにぼんやりと反射していた。
通りを行き交う人々の足音が遠くに響く中、男の周囲だけが、まるで時間が止まっているような静けさに包まれていた。
店内の照明が、キャップのつばに陰を落とし、目元だけが闇に沈んで見えなかった。
だが、確かに視線を感じる。
それは、視線ではなく──圧力。
視線を逸らしたいのに、身体が動かない。
心の奥底を覗き込まれているような、そんな底知れぬ気配。
(あの人、一体……?)
背筋を冷たいものが走る。
“逃げなきゃ”という警鐘だけが、どこか遠くで鳴り響いていた。
招待状は、私の心を見透かすだけでなく、他者への「信頼」すらも揺るがせる。
そして、私と招待状の全てを「監視」しているかのような、謎の男の視線。
駅前の街路樹が、風に揺れてざわめいていた。
遠くで踏切の音が鳴り、電車の光がビルの窓に反射している。
人々の足音が遠ざかる中、紡の周囲だけが、まるで音を吸い込んだように静まり返っていた。
紡の日常は、もはや、「空っぽ」という曖昧な殻に閉じこもっていられる時間は終わった。
この底知れない謎は、一体どこまで私を暴き、どこへ連れ去ろうとしているのか。
空は墨を流したように濁り、街灯の光が路面に滲んでいた。
風が、どこか焦げたような匂いを運んできた。
街は静かに息を潜め、紡の足元だけが、時間から切り離されたように感じられた。
夜の帳が降りる街で、紡はただ、胸の奥に広がるざわめきに立ち尽くしていた。
(つづく)