(私の人生は、いつからこんなにも不透明なものになったのだろう。)
一晩経っても、その衝撃は薄れなかった。
林 耀の言葉が、耳の奥で反響し、紡の心をじくじくと蝕み続ける。
林耀が口にした「思惑」という言葉が、紡の抱える「空っぽな承認欲求」を彼の計画の一部として捉えていると知って以来、これまで心地よいと感じた彼の言葉や、動物と接する時の慈愛に満ちた表情は、全て偽りだったのかという疑念が頭を離れない。
承認欲求とは、こんなにも脆く、簡単に他者に操られるものなのだろうか。
常に誰かに認められたくて、そのために「良い子」を演じてきた。父が亡くなってからは特に、その渇望は紡を突き動かす唯一の原動力だった。
もし、その「承認」が他者の意図的な罠だとしたら? それは、紡自身の存在そのものを否定されるに等しい。だとしたら、本当に求めるべきは、他者の評価ではなく、揺るぎない自分自身を肯定する力なのかもしれない。
紡は自分がどこまで都合よく利用されていたのかと考え、激しい怒りが込み上げてきた。こんなにも都合よく、林耀という男の思惑通りに踊らされていたなんて。白黒はっきりさせたい紡の心が、今、許されないほどのグレーゾーンに激しく揺さぶられている。彼の掌で踊らされているだなんて、そんなの、絶対に嫌だ。
職場に向かう満員電車の中でも、紡の思考は林耀に囚われたままだった。
紡は無意識に、ポケットの中の招待状に触れた。微かに熱を帯びていた。
デスクに着いても、紡は上の空だった。
書類に目を通しても文字が頭に入ってこない。
心ここにあらず、とはまさにこのことだろう。そこに、背後から張り詰めた声が聞こえた。
「小鳥遊さん。この企画書、誤字脱字が多すぎます。確認を怠ったのですか」
神崎 厳だった。
神崎の声は、林 耀のような穏やかさとは真逆の、有無を言わせぬ厳しさを帯びていた。
しかし、その中に、紡を試すような、あるいは紡の未熟さを突きつけるような、ある種の期待のようなものが含まれているように見えた。その期待が何なのか理解できぬまま、紡は反射的に頭を下げた。彼の厳しさは、紡自身を殻へと閉じ込めようとしているかのようだ。
だが、同時に、この厳しさから逃げてはいけないという、強い衝動も生まれた。紡は、誰かに頼りきりになる自分を嫌う。そして、他者の期待に応えられなくなった時、突き放されることへの恐怖も知っていた。だからこそ、ここで「かわいそうな人」として同情を誘うことも、神崎の厳しさに押し潰されることも、紡には許されない。神崎 厳は、紡を試している。
確かな予感があった。
林 耀の「思惑」とは別の、強烈な圧力が紡を支配しようとしている。
神崎のために完璧を演じ続けることに、紡自身は拒絶反応を起こしていた。
背筋には常に、冷たい水が這い上がるような、薄ら寒い感覚がまとわりつく。
なぜ、ここまで無駄な労力を使わねばならないのか、という疑問が常に頭を巡った。
だが、同時に、神崎の提示する「成果」という明確な基準は、紡にとってある種の目標になり得るのではないかという、奇妙な期待も生まれていた。
紡の存在意義は、本当にこの「成果」という数値でしか測れないのだろうか。
ふと、脳裏に父の穏やかな笑顔がよぎる。
父は、ただそこにいる紡を、無条件に認めてくれたというのに。
あの温かい、無条件の愛情は、もうこの世界にはどこにもない。
それがこの世の現実なのだと、紡は突きつけられていた。
無条件の愛情とは、父と共に消えた幻想。
この世は常に、何らかの「価値」と引き換えにしか、存在を認めてはくれない。
その冷たい現実に、紡はただ抗う術を探していた。
ここは、紡自身の力で「価値」を示さなければならない場所なのだ。
その理屈は頭では理解している。
だが、それに伴うこの重圧は、まるでじわじわと身体を締め上げる縄のようだ。
このままでは、紡は少しずつ、自分自身を頑なな殻へと閉じ込めてしまうだろう。
紡は生来の寂しがり屋だ。
誰かに寄り添ってほしいと願っている。
この状況では誰にも弱みを見せられない。
もし誰かに頼りすぎたら、その瞬間に「どうでもいい存在」として扱われるのではないかという、漠然とした恐怖が、常に付き纏う。
これでは、紡の承認欲求を満たすどころか、むしろ飢餓を加速させ、さらに心を蝕んでいくだけではないか。
その日の昼休み、紡は屋上の隅で一人、昨夜からずっと気になっていた招待状を取り出した。ポケットの中で温まっていたのか、昨日よりも明らかに熱を持っている。光にかざすと、昨日よりもさらに濃くなった植物の蔓の模様が、はっきりと見て取れた。
そして、蔓の根元らしき部分に、ごく小さな文字のようなものが浮かび上がっている。
震える指で、その部分をなぞる。それは、まるで透明なインクが、紡の体温と、心の動揺に反応して、ゆっくりと色を帯び始めたかのようだった。
「――『共鳴』……?」
浮かび上がった文字は、たった一言、「共鳴」だった。
「共鳴」とは、紡の『真の欲望』と何かが呼応し合っている、ということ。それが林 耀の『思惑』と紡の承認欲求が連動していることを意味するなら、この招待状は紡を支配するためのツールに過ぎない。そして、この蔓は、紡自身の内に潜む「支配欲」の表れなのだろうか。まさか、そんなはずはない――紡の中に、そんな醜い感情が存在するはずがない。
しかし、もしかしたら、紡の『寂しがり屋』という本質が、歪んだ形で「誰かを支配したい」という願望に繋がっているのかもしれない。認めたくないが、この胸の悪寒は、単なる妄想ではない気がした。
「支配欲」とは、父の喪失によって生まれた、絶対的な孤独から逃れるための、究極の「繋がり」を求める心なのかもしれない。誰も失わないために、全てを自分の手中に収めたいという、歪んだ「承認」の形なのか――?
紡の心臓が、まるで誰かに握りつぶされるかのように、激しく鼓動を打つ。
目の前の景色が、一瞬歪んだ。
あの、父の死と自殺未遂のフラッシュバックが、また始まるのではないかという恐怖に襲われる。
この謎の招待状と、林耀という存在によって、紡の意志とは無関係に、どこかへと導かれているのではないか。寂しがり屋の紡が求めた「承認」は、いつの間にか、紡を絡め取る鎖になりつつあるのかもしれない。なぜ、こんなにも不安なのだろう。
帰宅後、紡はすぐさま藍に電話をかけた。心の奥底に渦巻く不安を、誰かに聞いてもらいたかった。たとえ、藍の明るさの裏に「影」があることを知っていても、今の紡には藍の存在が必要だった。
「もしもし、藍? あのさ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど……」
紡の声は、ひどく震えていた。
紡は、この招待状の謎、林耀への疑念、そして自分自身の「真の欲望」が何なのか、藍に打ち明けるべきか葛藤していた。しかし、この一連の出来事を、誰かに話さずにはいられなかった。どこかで藍が、紡のこの混乱を、白黒はっきりさせてくれることを期待していたのかもしれない。
それだけではない。もしかしたら、藍もまた、紡と同じように見えない「支配」に苦しんでいるのではないかという、漠然とした予感があった。まるで、彼女もまた、何かの「共鳴」に導かれているように。藍の持つ「嫌われたくない」という承認欲求と、紡の「特別に扱われたい」という承認欲求は、互いにどんな「共鳴」を生み出すのだろう?
そして、林耀の思惑は、そこにどう介入してくるのか――?
「うん、紡。どうしたの? 声が震えてるよ」
藍の声は、いつも通りの明るさだった。その声が、紡の張り詰めた心を少しだけ緩ませる。
けれど、同時に、藍が紡の抱える闇を、本当に理解してくれるのだろうか、という不安もよぎる。藍のその明るさが、時に紡には眩しすぎて、紡の抱える「どうでもいい」という感覚や、白黒はっきりさせたい衝動とは相容れないもののように感じられることもあった。
紡は、息を深く吸い込んだ。林 耀の「思惑」は、紡にとって許容できないグレーな領域だ。
それを藍に話せば、藍はどんな反応をするだろう。藍もまた、この見えない物語の一部なのだろうか。
紡の言葉は、震えながらも、ゆっくりと口から紡がれ始めた。
「実はね……私、変な招待状をもらったの。それで……」
(つづく)