「変な招待状? なにそれ、紡、大丈夫?」
私の震える声が、スマホの向こうの藍の耳に届いた。
藍の声は、普段よりわずかに低い。心配している、とでもいうのだろうか。紡の張り詰めた胸の奥が、その気遣いに、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
紡は、例の奇妙な招待状のこと、それに林 耀が電話で話していたこと。承認欲求が、まるで何かの思惑通りに動いている、などという不気味な言葉を、できるだけ感情を排して、正確に伝えた。藍は、紡の話の最中も、何度も「うん、うん」と相槌を打ちながら、ただ黙って聞いていた。
紡が話し終えると、藍はしばらく沈黙した。その沈黙が、紡の心をざわつかせる。
「……そっか。そんなことがあったんだね。紡が不安になるのも無理ない。私も、聞いただけで背筋が凍ったよ」
藍の声は、相変わらず穏やかだった。けれど、どこか冷静すぎるような、そんな違和感があった。藍は、いつもならもっと感情的に、林 耀への怒りや、紡への同情を露わにするはず。
それなのに、今の藍の声には、まるで他人事のように、奇妙なほど落ち着いた響きがあった。その温度差が、紡には理解できなかった。
藍がこの手の話に慣れているとでもいうように、まるで何かの秘密を抱えているかのようだ。
一体、何を知っているというのか。
あるいは、この手の「厄介ごと」に深入りして、自身が傷つくことを無意識に避けているのだろうか。誰かに嫌われたくないという、藍自身の承認欲求の影が、そうさせているとしか思えなかった。
「でもさ、紡。そういうのって、もしかしたら最近流行りの、ちょっと変わった広告とか、そういう類なんじゃない? 林 耀さんも、まさか紡を利用しようとしてるなんて、そんなことないって。彼は本当に優しい人じゃない?」
藍は、紡を宥めるようにそう言った。藍の言葉は、紡の疑念を打ち消そうとしているように聞こえた。
しかし、紡にはそれが、紡を安心させるためというよりも、むしろ何かを隠そうとしているかのように感じられた。
紡の「白黒はっきりさせたい」衝動が、藍のグレーな態度に反応する。
藍が林 耀を庇っているのか、それとも本当に知らないだけなのか、紡には判別できなかった。
あの『影』が、この件と関係しているとしか思えない。もしかして、藍は紡を「かわいそうな人」だと思っているから、本気で心配してくれないのだろうか。そんなふうに考えると、途端にどうしようもなく孤独を感じる。
紡は藍の言葉に頷きながらも、心の奥では納得していなかった。
藍は、紡が本当に困っている時ほど、どこか一歩引いたような態度を取ることがある。それは、藍が「頼られる限度」を知っていて、紡を深く助けることを避けているようにも見えた。
今回ばかりは、紡を深淵に踏み込ませないよう、意図的に距離を置いているかのように見えた。その曖昧さが、寂しがり屋の紡の心を、容赦なくまた孤独へと引き戻す。親友と呼べる存在なのに、なぜこんなにも心をさらけ出せないのだろう。
電話を切った後も、紡の心は落ち着かなかった。藍の言葉は、紡を安心させるどころか、林 耀への疑念だけでなく、藍自身への不信感まで生み出してしまった。
翌日、職場では、神崎の厳しさが相変わらず紡を追い詰めていた。
完璧を求められる企画書、容赦ない指摘。
紡は、神崎の視線が、まるで魂を抜き取るように感じられた。
「小鳥遊さん。そのデータ、根拠が薄い。やり直しだ」
神崎の声は、感情を一切含まない。
しかし、その背後には、林 耀が語った「『真の欲望』を引き出す役割」という言葉が、重くのしかかっていた。
神崎のプレッシャーは、紡の承認欲求を極限まで高め、同時に、その奥にある「支配欲」のようなものも刺激しているように思えた。
神崎は本当に紡を成長させようとしているのか? それとも、ただ支配下に置きたいだけなのか? 葛藤しながらも、紡は必死で業務に取り組んだ。完璧な成果を出すことだけが、この状況から抜け出す唯一の道だと信じて。
その日の昼休み、紡は屋上の隅で一人、昨夜からずっと気になっていた招待状を取り出した。ポケットの中で温まっていたのか、昨日よりも明らかに熱を持っている。光にかざすと、昨日よりもさらに濃くなった植物の蔓の模様が、はっきりと見て取れた。
そして、蔓の根元らしき部分に、ごく小さな文字のようなものが浮かび上がっている。
震える指で、その部分をなぞる。それは、まるで透明なインクが、紡の体温と、心の動揺に反応して、ゆっくりと色を帯び始めたかのようだった。
「――『共鳴』……?」
浮かび上がった文字は、たった一言、「共鳴」だった。
「共鳴」とは、紡の『真の欲望』と何かが呼応し合っている、ということ。それが林 耀の『思惑』と紡の承認欲求が連動していることを意味するなら、この招待状は紡を支配するためのツールに過ぎない。
そして、この蔓は、紡自身の内に潜む「支配欲」の表れなのだろうか。まさか、そんなはずはない――紡の中に、そんな醜い感情が存在するはずがない。
しかし、もしかしたら、紡の『寂しがり屋』という本質が、歪んだ形で「誰かを支配したい」という願望に繋がっているのかもしれない。
認めたくないが、この胸の悪寒は、単なる妄想ではない気がした。「支配欲」とは、父の喪失によって生まれた、絶対的な孤独から逃れるための、究極の「繋がり」を求める心なのかもしれない。
誰も失わないために、全てを自分の手中に収めたいという、歪んだ「承認」の形なのか――?
紡の心臓が、まるで誰かに握りつぶされるかのように、激しく鼓動を打つ。
目の前の景色が、一瞬歪んだ。
父の死と自殺未遂のフラッシュバックが、また始まるのではないかという恐怖に襲われる。
この謎の招待状と、林 耀という存在によって、紡の意志とは無関係に、どこかへと導かれているのではないか。寂しがり屋の紡が求めた「承認」は、いつの間にか、紡を絡め取る鎖になりつつあるのかもしれない。なぜ、こんなにも不安なのだろう。
その日の夕方、紡は会社のエレベーターホールで、林 耀と遭遇した。紡がそこにいることを予期していたかのように、微笑んだ。
「小鳥遊さん、まさかこんなところで会うとは。お疲れ様です」
いつもの穏やかな笑顔。
あの電話での会話を聞いた後では、その笑顔が、紡には恐ろしく冷徹な仮面のように見えた。紡の心臓は、警鐘のように激しく鳴り響いている。
「林さん、お疲れ様です……」
紡は精一杯平静を装った。白黒はっきりさせたい衝動を抑え、林 耀の真意を探ろうと努める。自分の承認欲求が彼の「思惑」通りに動いているのなら、林 耀の目的は何なのだろう。
紡は、林 耀の瞳の奥に、その答えを探した。
林 耀の瞳は、やはり静かで、けれど以前よりも、何かを隠しているような深みが増しているように感じられた。なぜ、こんなにも落ち着いているのだろう?
林 耀は、紡の視線に気づいたのか、ふと口元に笑みを浮かべた。その笑みは、まるで紡の心を見透かしているようで、底冷えするような恐怖を覚えた。
「小鳥遊さんの『真の欲望』は、もうすぐ形になるでしょう。楽しみですね」
そう言うと、紡に背を向け、オフィスビルの中へと消えていった。
紡の抵抗を嘲笑うかのように、断罪するかのように響いた。
林 耀の去ったエレベーターホールで、紡は縫い付けられたように立ち尽くすことしかできなかった。
私の「真の欲望」が、彼の「思惑」のままに形になっていく?
それは、私が私でなくなるということだ。
私のすべてが、彼に支配されてしまう。
こんなの、私じゃない――。
ポケットの中の招待状が激しく熱を帯び、鼓動を打ち続ける。
その熱は、紡の心臓の鼓動と、完璧に共鳴しているように感じられた。
紡の内側で、何かが急速に芽吹き、絡みついていくのを感じた。
これは、林 耀の仕掛けなのか、それとも、抗いようのない運命の始まりなのか。
この鼓動は、私をどこまで連れていくつもりなのだろう。
林 耀の思惑、
そして私の内に潜む「支配欲」。
どちらが私を突き動かすのか、私は今、まさに選択を迫られている。
(つづく)