目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第6話:歪む言葉、明かされる真実の断片

翌日。

午後の講義が終わり、夕暮れが迫る大学のキャンパスで、紡は林 耀からのメッセージを何度も読み返していた。


『もし差し支えなければ、明日の夕食、ご一緒できませんか?』


この誘いに返事をしなければならない。

だが、どうすればいいのか分からない。


招待状は警告した。


『「信頼」は、ときに盲目となる。

「理解者」の仮面を被る者を見極めろ。

真の「渇望」は、闇の奥底に潜む。』


あれは、林 耀さんを指しているとしか思えない。

林 耀の優しい言葉を信じたい気持ちと、招待状が突きつける冷たい真実。

どちらが本当なのか。


林 耀の優しさに触れたとき、確かに心は温かくなった。

それは、偽りだったとでもいうのだろうか。


「空っぽ」だった紡の心に、久しぶりにじんわりと染み渡った温かさだったはずなのに。


スマホを握りしめた手が、じわりと汗ばむ。


結局、紡は

『はい、大丈夫です。よろしくお願いします』

と簡潔に返信した。


断る勇気がなかった。

嫌われたくない、という承認欲求の鎖が、またしても紡の行動を縛り付けている。


指定されたレストランは、大学から少し離れた場所に位置する、洒落たイタリアンだった。


ガラス張りの店内から、街の明かりがにぎやかに煌めいている。

予約席に通されると、すでに林 耀は着席していた。


「すみません、お待たせしましたか?」


穏やかな笑顔で立ち上がり、紡のために椅子を引いてくれる。

その紳士的な振る舞いは、いつもと変わらない。


「いえ…」

ぎこちなく返事をしながら、紡は林 耀の顔をじっと見つめた。

どこにも「仮面」を被っているようには見えない。

ただ、そこにいるのは、穏やかで、優しい林 耀だった。


料理が運ばれてくる。

食欲はあまりなかったが、林耀は美味しそうにパスタを口に運び、時折、紡にも笑顔で話しかけてくる。


大学での講義のこと、ボランティア活動のこと、他愛のない世間話。

紡は、普段通りの林 耀の姿に、少しだけ安堵していた。

招待状の警告は、杞憂だったのかもしれない。


その時、林 耀がふと、グラスを置いて紡を見つめた。


「実は、今日お話ししたいというのは、少し込み入った話でして……」

林 耀の声が、いつもより少しだけ低くなった気がした。

紡の背筋に、微かな緊張が走る。


「小鳥遊さんは、とても繊細な方ですね」


林 耀は、静かに紡の目を見た。


「周囲の空気を読み、他者の感情に寄り添おうとする。

その優しさは、多くの人を惹きつけます。」


林 耀の言葉は、紡の心にじんわりと染み渡る。


「でも、その優しさは、ときに貴女自身を苦しめているように見えます。」


紡は、ドキリとした。

(優しい……?

私が?

それに、苦しめている、だと……?)


その言葉は、招待状が指摘した「承認を求める貴女よ」というメッセージを思い出させた。

林 耀は、紡が「偽りの優しさ」を纏っていることを見抜いている、とでも言うのだろうか。


林 耀は言葉を続ける。

「小鳥遊さんの周りには、きっと、貴女に甘える人もいるでしょう。

貴女の優しさに付け込み、その心のエネルギーを吸い取ろうとするような……。」

林 耀の視線が、一瞬だけ鋭くなった気がした。

そして、それは、まるで藍のことを指しているかのようだった。


紡の胸の奥で、微かな痛みが走った。

藍は、明るく無邪気で、時にはわがままなところもある。

だが、いつも紡を必要としてくれる、唯一の親友だ。


(林 耀さんは、藍のことを言っているのか?

そんな……!)


林 耀は、紡の動揺に気づいたように、再び優しく微笑んだ。

「私が言いたいのは、貴女が自分自身のことを、もっと大切にすべきだということです。

無理に他者に合わせる必要はない。

貴女自身の『真の欲望』を、見つけるべきだ。」


その言葉を聞いた瞬間、紡のポケットの中の招待状が、熱を帯びて激しく脈動した。

まるで、林 耀の言葉に反応しているかのように。


「『真の欲望』……?」

紡は思わず呟いた。


林耀の表情は、一瞬だけ、微かに固まったように見えた。

「……ええ。

貴女が本当に求めているもの、貴女を本当の意味で満たすもの、という意味です。」


林 耀の瞳が、紡の目をじっと見つめる。

その視線には、深い理解と、微かな探るような色が混じっているように見えた。


(まるで、招待状と同じ言葉を……まるで、招待状の言葉を知っているかのように……)


招待状が林耀を「理解者の仮面を被る者」と警告した意味が、少しずつ、形を帯びていく。


林 耀との夕食を終え、最寄り駅に着いた紡は、まだ思考の海に沈んでいた。

まるで麻薬のように甘く、紡の心を慰める。

だが、同時に、招待状の警告が脳裏をちらつく。

どちらを信じるべきなのか。


その時、駅前のベンチに、見慣れた黒いコートの男が座っているのが見えた。


(あの人……!)


昨日、図書館で見かけた男だ。

まさか、ここで待ち伏せでもしていたというのか?

紡の心臓が早鐘を打つ。

恐怖よりも、抗えない好奇心が勝った。

今度こそ、逃がすわけにはいかない。


紡は意を決して、男に近づいた。


「あの……昨日の」


紡が声をかけようとすると、男はゆっくりと顔を上げた。


その切れ長の瞳は、紡の顔を真っ直ぐに見据えている。


(また、あの視線だ……)


「おや。またお会いしましたね、小鳥遊紡さん」

男の声は、昨日よりも近く、明確だった。


そして、その口から紡の名前が紡がれたことに、紡は激しい衝撃を受けた。


「どうして、私の名前を……!?」


男は、フッと口の端を上げた。

その表情には、すべてを見透かすような、奇妙な余裕があった。


「私は神崎かんざき いつきといいます。」

彼は名乗った。


「貴女が持つ、その招待状……いや、『導きの書』と呼ぶべきか。

あれは、選ばれた者にしか現れない。

そして、貴女が今、その『書』に導かれていることを、私は知っている。」


紡は、驚きで言葉が出ない。


『導きの書』?  そして、選ばれた者?


神崎は、静かに言葉を続けた。

「貴女の心に、真の『渇望』が目覚めた時、あの『書』は文字を紡ぎ始める。

それは、貴女自身が、無意識のうちに求めていた『世界の真実』を映し出す鏡のようなものだ。」


「世界の真実……?」


「そうだ。

その『書』は、貴女の『欲望』を叶えるための道具ではない。

むしろ、貴女自身を、

そして貴女を取り巻く世界の『欺瞞』を暴き、貴女を真の覚醒へと導くものだ。」


神崎の言葉は、まるで謎のピースがはまっていくように、紡の心を揺さぶった。


林 耀の「仮面」と、招待状が警告した「偽りの温かさ」。


神崎の言葉は、それら全てを肯定しているかのようだった。


「林 耀……彼もまた、『書』に導かれた一人だ。」


神崎の言葉に、紡は息をのんだ。


「彼は、貴女に接近し、貴女の『真の欲望』を特定しようとしている。

彼は、貴女の『書』を、彼の目的のために利用しようと目論んでいる。」


紡の頭の中で、全てのピースが繋がっていく。

林 耀の優しい言葉、そして招待状の警告。

この神崎 厳という男の言葉。

林 耀は、最初から私を利用するつもりだった……?


怒りよりも、深い裏切りの感情が込み上げてきた。

そして、何よりも、自分の愚かさに吐き気がした。

優しい言葉に簡単に騙され、本質を見抜くことができない。

やはり、紡は空っぽのままなのだと。


神崎は、そんな紡の様子を静かに見守っていた。

「貴女は、まだ己の『真の欲望』の全てを知らない。

そして、それが世界に何をもたらすかも。

しかし、その『書』は、貴女が避けられない運命を示している。」


「私に、何をしろと……?」

紡の声は、震えていた。


「答えは、貴女自身が『書』を通して見つけることになるだろう。」

神崎は、薄く笑みを浮かべた。


「ただ、一つ忠告しておこう。

その『書』は、貴女の心に深く根差す『真の欲望』を映し出すが、その代償も、また大きい。

貴女は、これから、これまで見てきた『偽りの世界』の全てを、疑うことになるだろう。」


神崎はそう言い残すと、夜の闇に溶けるように、ゆっくりと歩き去っていった。

紡は、その場に立ち尽くしたまま、神崎の言葉と、手のひらに残る招待状の微かな熱を、ただ感じていた。


(偽りの世界……?)


私の「真の欲望」が、世界を歪める?


頭の中は、新たな疑問と恐怖で埋め尽くされる。


明日の夕食、林 耀と何を話せばいいのか。

そして、紡は、本当に林 耀の言うことを信じてはいけないのか?


夜空には、満月が、まるで嘲笑うかのように鈍く輝いていた。


(つづく)

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?