翌日。
午後の講義が終わり、夕暮れが迫る大学のキャンパスで、紡は林 耀からのメッセージを何度も読み返していた。
『もし差し支えなければ、明日の夕食、ご一緒できませんか?』
この誘いに返事をしなければならない。
だが、どうすればいいのか分からない。
招待状は警告した。
『「信頼」は、ときに盲目となる。
「理解者」の仮面を被る者を見極めろ。
真の「渇望」は、闇の奥底に潜む。』
あれは、林 耀さんを指しているとしか思えない。
林 耀の優しい言葉を信じたい気持ちと、招待状が突きつける冷たい真実。
どちらが本当なのか。
林 耀の優しさに触れたとき、確かに心は温かくなった。
それは、偽りだったとでもいうのだろうか。
「空っぽ」だった紡の心に、久しぶりにじんわりと染み渡った温かさだったはずなのに。
スマホを握りしめた手が、じわりと汗ばむ。
結局、紡は
『はい、大丈夫です。よろしくお願いします』
と簡潔に返信した。
断る勇気がなかった。
嫌われたくない、という承認欲求の鎖が、またしても紡の行動を縛り付けている。
指定されたレストランは、大学から少し離れた場所に位置する、洒落たイタリアンだった。
ガラス張りの店内から、街の明かりがにぎやかに煌めいている。
予約席に通されると、すでに林 耀は着席していた。
「すみません、お待たせしましたか?」
穏やかな笑顔で立ち上がり、紡のために椅子を引いてくれる。
その紳士的な振る舞いは、いつもと変わらない。
「いえ…」
ぎこちなく返事をしながら、紡は林 耀の顔をじっと見つめた。
どこにも「仮面」を被っているようには見えない。
ただ、そこにいるのは、穏やかで、優しい林 耀だった。
料理が運ばれてくる。
食欲はあまりなかったが、林耀は美味しそうにパスタを口に運び、時折、紡にも笑顔で話しかけてくる。
大学での講義のこと、ボランティア活動のこと、他愛のない世間話。
紡は、普段通りの林 耀の姿に、少しだけ安堵していた。
招待状の警告は、杞憂だったのかもしれない。
その時、林 耀がふと、グラスを置いて紡を見つめた。
「実は、今日お話ししたいというのは、少し込み入った話でして……」
林 耀の声が、いつもより少しだけ低くなった気がした。
紡の背筋に、微かな緊張が走る。
「小鳥遊さんは、とても繊細な方ですね」
林 耀は、静かに紡の目を見た。
「周囲の空気を読み、他者の感情に寄り添おうとする。
その優しさは、多くの人を惹きつけます。」
林 耀の言葉は、紡の心にじんわりと染み渡る。
「でも、その優しさは、ときに貴女自身を苦しめているように見えます。」
紡は、ドキリとした。
(優しい……?
私が?
それに、苦しめている、だと……?)
その言葉は、招待状が指摘した「承認を求める貴女よ」というメッセージを思い出させた。
林 耀は、紡が「偽りの優しさ」を纏っていることを見抜いている、とでも言うのだろうか。
林 耀は言葉を続ける。
「小鳥遊さんの周りには、きっと、貴女に甘える人もいるでしょう。
貴女の優しさに付け込み、その心のエネルギーを吸い取ろうとするような……。」
林 耀の視線が、一瞬だけ鋭くなった気がした。
そして、それは、まるで藍のことを指しているかのようだった。
紡の胸の奥で、微かな痛みが走った。
藍は、明るく無邪気で、時にはわがままなところもある。
だが、いつも紡を必要としてくれる、唯一の親友だ。
(林 耀さんは、藍のことを言っているのか?
そんな……!)
林 耀は、紡の動揺に気づいたように、再び優しく微笑んだ。
「私が言いたいのは、貴女が自分自身のことを、もっと大切にすべきだということです。
無理に他者に合わせる必要はない。
貴女自身の『真の欲望』を、見つけるべきだ。」
その言葉を聞いた瞬間、紡のポケットの中の招待状が、熱を帯びて激しく脈動した。
まるで、林 耀の言葉に反応しているかのように。
「『真の欲望』……?」
紡は思わず呟いた。
林耀の表情は、一瞬だけ、微かに固まったように見えた。
「……ええ。
貴女が本当に求めているもの、貴女を本当の意味で満たすもの、という意味です。」
林 耀の瞳が、紡の目をじっと見つめる。
その視線には、深い理解と、微かな探るような色が混じっているように見えた。
(まるで、招待状と同じ言葉を……まるで、招待状の言葉を知っているかのように……)
招待状が林耀を「理解者の仮面を被る者」と警告した意味が、少しずつ、形を帯びていく。
林 耀との夕食を終え、最寄り駅に着いた紡は、まだ思考の海に沈んでいた。
まるで麻薬のように甘く、紡の心を慰める。
だが、同時に、招待状の警告が脳裏をちらつく。
どちらを信じるべきなのか。
その時、駅前のベンチに、見慣れた黒いコートの男が座っているのが見えた。
(あの人……!)
昨日、図書館で見かけた男だ。
まさか、ここで待ち伏せでもしていたというのか?
紡の心臓が早鐘を打つ。
恐怖よりも、抗えない好奇心が勝った。
今度こそ、逃がすわけにはいかない。
紡は意を決して、男に近づいた。
「あの……昨日の」
紡が声をかけようとすると、男はゆっくりと顔を上げた。
その切れ長の瞳は、紡の顔を真っ直ぐに見据えている。
(また、あの視線だ……)
「おや。またお会いしましたね、小鳥遊紡さん」
男の声は、昨日よりも近く、明確だった。
そして、その口から紡の名前が紡がれたことに、紡は激しい衝撃を受けた。
「どうして、私の名前を……!?」
男は、フッと口の端を上げた。
その表情には、すべてを見透かすような、奇妙な余裕があった。
「私は
彼は名乗った。
「貴女が持つ、その招待状……いや、『導きの書』と呼ぶべきか。
あれは、選ばれた者にしか現れない。
そして、貴女が今、その『書』に導かれていることを、私は知っている。」
紡は、驚きで言葉が出ない。
『導きの書』? そして、選ばれた者?
神崎は、静かに言葉を続けた。
「貴女の心に、真の『渇望』が目覚めた時、あの『書』は文字を紡ぎ始める。
それは、貴女自身が、無意識のうちに求めていた『世界の真実』を映し出す鏡のようなものだ。」
「世界の真実……?」
「そうだ。
その『書』は、貴女の『欲望』を叶えるための道具ではない。
むしろ、貴女自身を、
そして貴女を取り巻く世界の『欺瞞』を暴き、貴女を真の覚醒へと導くものだ。」
神崎の言葉は、まるで謎のピースがはまっていくように、紡の心を揺さぶった。
林 耀の「仮面」と、招待状が警告した「偽りの温かさ」。
神崎の言葉は、それら全てを肯定しているかのようだった。
「林 耀……彼もまた、『書』に導かれた一人だ。」
神崎の言葉に、紡は息をのんだ。
「彼は、貴女に接近し、貴女の『真の欲望』を特定しようとしている。
彼は、貴女の『書』を、彼の目的のために利用しようと目論んでいる。」
紡の頭の中で、全てのピースが繋がっていく。
林 耀の優しい言葉、そして招待状の警告。
この神崎 厳という男の言葉。
林 耀は、最初から私を利用するつもりだった……?
怒りよりも、深い裏切りの感情が込み上げてきた。
そして、何よりも、自分の愚かさに吐き気がした。
優しい言葉に簡単に騙され、本質を見抜くことができない。
やはり、紡は空っぽのままなのだと。
神崎は、そんな紡の様子を静かに見守っていた。
「貴女は、まだ己の『真の欲望』の全てを知らない。
そして、それが世界に何をもたらすかも。
しかし、その『書』は、貴女が避けられない運命を示している。」
「私に、何をしろと……?」
紡の声は、震えていた。
「答えは、貴女自身が『書』を通して見つけることになるだろう。」
神崎は、薄く笑みを浮かべた。
「ただ、一つ忠告しておこう。
その『書』は、貴女の心に深く根差す『真の欲望』を映し出すが、その代償も、また大きい。
貴女は、これから、これまで見てきた『偽りの世界』の全てを、疑うことになるだろう。」
神崎はそう言い残すと、夜の闇に溶けるように、ゆっくりと歩き去っていった。
紡は、その場に立ち尽くしたまま、神崎の言葉と、手のひらに残る招待状の微かな熱を、ただ感じていた。
(偽りの世界……?)
私の「真の欲望」が、世界を歪める?
頭の中は、新たな疑問と恐怖で埋め尽くされる。
明日の夕食、林 耀と何を話せばいいのか。
そして、紡は、本当に林 耀の言うことを信じてはいけないのか?
夜空には、満月が、まるで嘲笑うかのように鈍く輝いていた。
(つづく)