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第7話:選択の時、芽生える欲望

林 耀が去ったエレベーターホールで、紡は縫い付けられたように立ち尽くしていた。

林 耀の「真の欲望はもうすぐ形になる」という言葉が、頭の中を反響する。

ポケットの中の招待状は、鼓動を打ち続けていた。

その熱は、紡の心臓と完全に共鳴し、まるで「選べ…」と囁いているかのようだ。


(選択? 何を、どう選べというの? 林 耀の『思惑』に従い、私の『支配欲』を受け入れるということか? それとも、抗い続けるのか?)


自身の内側に潜む「支配欲」という可能性に、紡は激しい嫌悪感を抱いた。


しかし、同時に、あの父の死によって生まれた絶対的な孤独を埋めるため、全てを自分の手中に収めたいという、歪んだ「繋がり」を求める心が、確かに自分の中に存在することも否定できなかった。それは、寂しがり屋の自分が、二度と誰も失わないために辿り着いた、究極の形なのだろうか。


「ぐっ…!」


こめかみがズキリと痛み、一瞬、視界が歪む。

フラッシュバックの予兆だった。

だが、紡は頭を振ってそれを振り払った。

今、過去の恐怖に囚われている場合ではない。

この不穏な状況から抜け出すためには、林 耀の言葉を理解し、自身の欲望と向き合うしかないのだ。


翌朝、紡は会社に向かう足取りが重かった。

昨夜の林 耀の言葉が脳裏から離れない。そして、藍への不信感も。

デスクに着くと、既に神崎が鋭い視線を送っていた。


「小鳥遊さん、昨日の企画書。まだ推敲が足りません。提出は明後日です。期待していますよ」


神崎の言葉は、穏やかさの欠片もない。

だが、その底には、紡に完璧を求める、ある種の「期待」が確かにあった。

神崎のプレッシャーは、林 耀が言う「『真の欲望』を引き出す役割」を、着実に果たしている。


紡は、神崎の要求に応えようと、これまで以上に業務に没頭した。

まるで、完璧な成果を出すことが、この状況から抜け出す唯一の道であるかのように。


データ収集、分析、そしてプレゼンテーション資料の作成。

一つ一つの作業に、驚くほどの集中力と粘り強さを発揮した。

その日、紡は定時を過ぎても、神崎が納得するまで作業を続けた。

その過程で、誰にも邪魔されず、自分の思い通りに物事を進めることに、妙な心地よさを感じている自分に気づく。


(これが…支配欲、なのか?)


夜遅く、ようやく神崎に企画書を提出すると、神崎は黙って資料に目を通した。

神崎の表情は変わらない。

だが、最後に小さく「……悪くない」と呟いた。

その一言が、紡の疲弊した心に、予想外の達成感をもたらした。

まるで、神崎の「期待」に応えることが、新たな「承認」の形であるかのように。


翌日、紡は再び藍に電話をかけた。

神崎との一件で、自己肯定感の小さな芽生えを感じた紡は、藍に話すことで、自身の心を整理したいと思ったのだ。

しかし、藍はまたしても、紡の期待とは異なる反応を見せた。


「紡、もしかして、あの招待状、まだ持ってるの? そういうのは、早く忘れちゃった方がいいよ。変なものに関わると、ろくなことないから」


藍の声には、以前よりも強い拒絶の響きがあった。

紡が林 耀の言葉や「支配欲」の可能性について話そうとすると、藍は明らかに話題を変えようとする。


(まるで、私がこの深淵に踏み込むことを、彼女が恐れているかのように。それとも、私が「支配欲」を抱いているという現実を、受け入れたくないのだろうか? 藍自身の「影」が、私の真実に触れることを拒んでいるとしか思えない。)


藍が紡の持つ招待状の話題に触れるたび、その声が僅かに震えることに紡は気づいた。

藍の「嫌われたくない」という承認欲求は、紡の「特別に扱われたい」という承認欲求と、どのように「共鳴」しているのだろう。


そして、林 耀の「思惑」は、藍の「影」にどう介入してくるのだろうか。


電話を切った後、紡は招待状を握りしめた。

招待状は、先ほどよりもさらに熱を帯び、あの紋章の輪郭が、より鮮明になっている。


そして、紋章の真ん中に、小さな点のようなものが浮かび上がっていた。


「これは……私をどこへ導こうとしている?」


紡は、自身の心の中で「支配欲」が確かに芽生え始めていることを感じた。

それは、恐怖であると同時に、抗いようのない「力」の片鱗でもあった。

林 耀の「思惑」に踊らされているのか、それとも、この新たな力が、彼らの支配から抜け出す鍵となるのか。


(私は選ばなければならない。林 耀の導きに従い、この『支配欲』を完全に受け入れるのか。それとも、抗い、私自身の力でこの鎖を断ち切るのか。)


その夜、紡は夢を見た。

蔓が絡みつく、暗い森の中を歩いている。

その先に、林 耀が立っていた。

彼の顔は穏やかだが、その瞳は深く、まるで森の闇そのもの。


そして、林 耀の足元には、無数の蔓に絡め取られた藍が、苦しそうに横たわっていた。

藍の表情は、紡の電話越しに感じた「影」そのものだった。


目覚めると、紡の胸は激しく高鳴っていた。

招待状は、枕元で微かに脈打っている。

これは警告なのか、それとも、未来の予言なのか。

紡は、もはや後戻りできない場所に立たされていることを悟った。


(つづく)

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