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第7話:交錯する言葉、揺れる天秤

夜空には、満月が、まるで嘲笑うかのように鈍く輝いていた。


林 耀との夕食。

約束のレストランの扉を開ける直前、紡はポケットの中の招待状をそっと握りしめた。

手のひらにじんわりと伝わる微かな熱。


昨日、神崎 厳が語った言葉が、脳内で反響する。


『林 耀……彼もまた、『書』に導かれた一人だ。』


『彼は、貴女に接近し、貴女の「真の欲望」を特定しようとしている。

彼は、貴女の『書』を、彼の目的のために利用しようと目論んでいる。』


(林 耀が、私を利用しようとしている……?)


神崎の言葉が真実なら、彼の優しい笑顔も、気遣う言葉も、全てが仕組まれたものだということになる。

心が、冷たい氷で覆われるような感覚に陥った。


店内に入ると、予約席に通された。

すでに林 耀は着席しており、穏やかな笑顔で紡を迎える。


「小鳥遊さん、来てくれてありがとうございます。

昨日は急な連絡で申し訳ありませんでした。」


紳士的な振る舞いは、いつもと変わらない。

どこにも「仮面」を被っているようには見えない。


「いえ、こちらこそ、急にすみません」

紡はぎこちなく答える。


林 耀の言葉の裏に、何か別の意味が隠されているのではないか。

そんな疑念が、心を支配していた。


料理が運ばれてくるが、食欲はあまりない。

林 耀は美味しそうにパスタを口に運び、他愛のない世間話を始めた。


その声は穏やかで、紡の緊張を解きほぐそうとするかのようだ。


紡は彼の言葉の一つ一つを慎重に吟味していた。


「小鳥遊さんは、動物がお好きなんですよね。

とても優しい手つきだから、きっと動物たちもすぐに懐きますよ。」


昨日のボランティアでの言葉を、再び口にした。


(優しい手つき……)


この褒め言葉は、紡の心を温かくしたはずだ。

だが今は、まるで毒を塗られたかのように、ゾクリと背筋を這い上がってくる。


「林さんは、どうして動物保護のボランティアをされているんですか?」


紡は、意を決して尋ねた。

林 耀の「真の意図」を探るために。


少し考えるように首を傾げた。


「そうですね……。

純粋に、彼らの健やかな成長を見守りたい、という気持ちもありますし、

何より、彼らが無条件に心を許してくれる瞬間が好きなんです。

人間の感情は複雑ですが、動物はストレートですから。」


林 耀の瞳は、一点の曇りもないように見えた。


(無条件に心を許す……?

それは、私と、同じ……?)


紡は、自分の心の空虚さと、誰かに無条件に受け入れられたいという願望を重ねてしまった。


そして、それは林 耀も同じなのではないか、という、奇妙な共感を覚えた。

もし林 耀が本当に同じ気持ちなら、林 耀もまた孤独なのだろうか。


「小鳥遊さんも、そう感じませんか?」


林耀が、紡の目を見つめて問いかけた。


その視線は、紡の心の奥底を見透かすかのように深く、

そして、不思議と安心感を覚える。


(この人は、本当に私のことを理解しようとしている……?)


神崎の警告が、ぐらりと揺らぐ。


「……はい」


紡は、か細い声で答えた。


林 耀は、満足げに微笑んだ。


「小鳥遊さんは、とても感受性が豊かな方ですね。

他者の痛みに寄り添える。私には、それがよく分かります。」

言葉は、甘く、紡の心を慰める。


その時、紡のポケットの中の招待状が、これまで感じたことのないほど強い熱を帯び、脈打ち始めた。

手のひらの皮膚が、ジンジンと痺れるような感覚。


(また……!?)


慌てて取り出すことはできない。

目の前には林 耀がいる。

招待状の熱は、まるで紡に何かを訴えかけるかのように、激しさを増していく。


『「共感」という名の罠に、囚われるな。

「理解者」の言葉は、最も甘く、

最も危険な毒となる。』


招待状の「声」が、脳裏に直接響き渡った。


それは、林 耀の言葉を真っ向から否定するような、冷酷な響きだった。


(罠……? 危険な毒……?)


紡の顔から、一瞬にして血の気が引いた。


林 耀の言葉が、耳の中で、まるで不協和音のように響き始める。

紡の顔色の変化に気づいたようだった。


「小鳥遊さん、どうかしましたか?

顔色が優れませんが……」


心配するような声。

その声が、紡には、計算された「仮面」の裏に隠された、真の意図を秘めているように感じられた。


紡は、必死に平静を装い、グラスに手を伸ばした。


「いえ、少し、疲れたみたいで……」


それ以上何も聞かず、ただ静かに紡を見つめている。


その瞳の奥に、一瞬だけ、全てを見透かすような、

冷たい光が宿ったのを、紡は確かに見た。


それは、以前藍の震える指先を見た時の、あの冷たさと同じだった。


(やはり……神崎さんの言った通り、彼は……!)


林 耀は、どこか諦めたような、それでいてすべてを悟ったような表情を浮かべた。


「そうですね。

無理をする必要はありません。

貴女は、ご自身の『真の欲望』に、まだ向き合えていないだけです。」


その言葉は、招待状のメッセージと、神崎の言葉を全て含んでいた。

まるで、紡が招待状から警告を受けていることを、林 耀自身も知っているかのようだった。

いや、知っているのだ。

林 耀は、私の心の奥底まで見透かしている。


紡の全身に、言いようのない恐怖が襲いかかった。

目の前の林 耀は、優しい笑顔を浮かべたまま、紡の全てを支配しようとしているかのように見えた。

この人は、敵だ。

直感が、紡の心に、冷たい刃を突き立てた。


夕食は、それ以上、進まなかった。

林 耀は、紡の異変を悟ったように、会計を済ませ、店を出た。

二人きりで歩く帰り道。

街の明かりは、いつもよりずっと遠く、冷たく感じられた。


何も言わなかった。

ただ、紡の隣を、静かに歩いている。

その沈黙が、紡には、まるで深海の底に引きずり込まれるかのような重さで、のしかかった。


この人は、紡の「真の欲望」に、何をしようとしているのだろう。

そして、紡は、この人から逃れることができるのだろうか。


暗闇に包まれた道で、紡はただ、ポケットの中の招待状の、脈打つような熱を感じていた。

それは、紡がまだ、彼らの掌の上で踊らされているだけであることを、無言で告げているかのようだった。



(つづく)

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