夜空には、満月が、まるで嘲笑うかのように鈍く輝いていた。
林 耀との夕食。
約束のレストランの扉を開ける直前、紡はポケットの中の招待状をそっと握りしめた。
手のひらにじんわりと伝わる微かな熱。
昨日、神崎 厳が語った言葉が、脳内で反響する。
『林 耀……彼もまた、『書』に導かれた一人だ。』
『彼は、貴女に接近し、貴女の「真の欲望」を特定しようとしている。
彼は、貴女の『書』を、彼の目的のために利用しようと目論んでいる。』
(林 耀が、私を利用しようとしている……?)
神崎の言葉が真実なら、彼の優しい笑顔も、気遣う言葉も、全てが仕組まれたものだということになる。
心が、冷たい氷で覆われるような感覚に陥った。
店内に入ると、予約席に通された。
すでに林 耀は着席しており、穏やかな笑顔で紡を迎える。
「小鳥遊さん、来てくれてありがとうございます。
昨日は急な連絡で申し訳ありませんでした。」
紳士的な振る舞いは、いつもと変わらない。
どこにも「仮面」を被っているようには見えない。
「いえ、こちらこそ、急にすみません」
紡はぎこちなく答える。
林 耀の言葉の裏に、何か別の意味が隠されているのではないか。
そんな疑念が、心を支配していた。
料理が運ばれてくるが、食欲はあまりない。
林 耀は美味しそうにパスタを口に運び、他愛のない世間話を始めた。
その声は穏やかで、紡の緊張を解きほぐそうとするかのようだ。
紡は彼の言葉の一つ一つを慎重に吟味していた。
「小鳥遊さんは、動物がお好きなんですよね。
とても優しい手つきだから、きっと動物たちもすぐに懐きますよ。」
昨日のボランティアでの言葉を、再び口にした。
(優しい手つき……)
この褒め言葉は、紡の心を温かくしたはずだ。
だが今は、まるで毒を塗られたかのように、ゾクリと背筋を這い上がってくる。
「林さんは、どうして動物保護のボランティアをされているんですか?」
紡は、意を決して尋ねた。
林 耀の「真の意図」を探るために。
少し考えるように首を傾げた。
「そうですね……。
純粋に、彼らの健やかな成長を見守りたい、という気持ちもありますし、
何より、彼らが無条件に心を許してくれる瞬間が好きなんです。
人間の感情は複雑ですが、動物はストレートですから。」
林 耀の瞳は、一点の曇りもないように見えた。
(無条件に心を許す……?
それは、私と、同じ……?)
紡は、自分の心の空虚さと、誰かに無条件に受け入れられたいという願望を重ねてしまった。
そして、それは林 耀も同じなのではないか、という、奇妙な共感を覚えた。
もし林 耀が本当に同じ気持ちなら、林 耀もまた孤独なのだろうか。
「小鳥遊さんも、そう感じませんか?」
林耀が、紡の目を見つめて問いかけた。
その視線は、紡の心の奥底を見透かすかのように深く、
そして、不思議と安心感を覚える。
(この人は、本当に私のことを理解しようとしている……?)
神崎の警告が、ぐらりと揺らぐ。
「……はい」
紡は、か細い声で答えた。
林 耀は、満足げに微笑んだ。
「小鳥遊さんは、とても感受性が豊かな方ですね。
他者の痛みに寄り添える。私には、それがよく分かります。」
言葉は、甘く、紡の心を慰める。
その時、紡のポケットの中の招待状が、これまで感じたことのないほど強い熱を帯び、脈打ち始めた。
手のひらの皮膚が、ジンジンと痺れるような感覚。
(また……!?)
慌てて取り出すことはできない。
目の前には林 耀がいる。
招待状の熱は、まるで紡に何かを訴えかけるかのように、激しさを増していく。
『「共感」という名の罠に、囚われるな。
「理解者」の言葉は、最も甘く、
最も危険な毒となる。』
招待状の「声」が、脳裏に直接響き渡った。
それは、林 耀の言葉を真っ向から否定するような、冷酷な響きだった。
(罠……? 危険な毒……?)
紡の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
林 耀の言葉が、耳の中で、まるで不協和音のように響き始める。
紡の顔色の変化に気づいたようだった。
「小鳥遊さん、どうかしましたか?
顔色が優れませんが……」
心配するような声。
その声が、紡には、計算された「仮面」の裏に隠された、真の意図を秘めているように感じられた。
紡は、必死に平静を装い、グラスに手を伸ばした。
「いえ、少し、疲れたみたいで……」
それ以上何も聞かず、ただ静かに紡を見つめている。
その瞳の奥に、一瞬だけ、全てを見透かすような、
冷たい光が宿ったのを、紡は確かに見た。
それは、以前藍の震える指先を見た時の、あの冷たさと同じだった。
(やはり……神崎さんの言った通り、彼は……!)
林 耀は、どこか諦めたような、それでいてすべてを悟ったような表情を浮かべた。
「そうですね。
無理をする必要はありません。
貴女は、ご自身の『真の欲望』に、まだ向き合えていないだけです。」
その言葉は、招待状のメッセージと、神崎の言葉を全て含んでいた。
まるで、紡が招待状から警告を受けていることを、林 耀自身も知っているかのようだった。
いや、知っているのだ。
林 耀は、私の心の奥底まで見透かしている。
紡の全身に、言いようのない恐怖が襲いかかった。
目の前の林 耀は、優しい笑顔を浮かべたまま、紡の全てを支配しようとしているかのように見えた。
この人は、敵だ。
直感が、紡の心に、冷たい刃を突き立てた。
夕食は、それ以上、進まなかった。
林 耀は、紡の異変を悟ったように、会計を済ませ、店を出た。
二人きりで歩く帰り道。
街の明かりは、いつもよりずっと遠く、冷たく感じられた。
何も言わなかった。
ただ、紡の隣を、静かに歩いている。
その沈黙が、紡には、まるで深海の底に引きずり込まれるかのような重さで、のしかかった。
この人は、紡の「真の欲望」に、何をしようとしているのだろう。
そして、紡は、この人から逃れることができるのだろうか。
暗闇に包まれた道で、紡はただ、ポケットの中の招待状の、脈打つような熱を感じていた。
それは、紡がまだ、彼らの掌の上で踊らされているだけであることを、無言で告げているかのようだった。
(つづく)