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第8話:母の残像、欲望の罠

あの夢の、蔓に絡め取られた藍の姿が脳裏に焼き付いて離れない。

鮮明な光景は、ただの悪夢とは思えなかった。

藍が抱える「影」と、林 耀の「思惑」。全てが繋がっているとすれば、藍に何か危険が迫っているのだろうか。


そして、あの夢は私への警告なのだろうか。


朝食を摂りながら、紡は自分の「承認欲求」について考えていた。

なぜ、こんなにも他者からの評価に囚われるのだろう。

父がいた頃は、ただそこにいるだけで無条件に愛されていた。


しかし、父がいなくなってからは、常に「何かを成し遂げなければ認められない」という強迫観念に駆られている。


幼い頃の記憶が浮き上がってきた。

良い成績を取って誇らしげに報告しても、頑張ってお手伝いをしても、母の返事はいつも決まって「ふう~ん」だった。

感情の乗らない、それだけの相槌。

目を合わせることもなく、紡の報告に心から関心があるようには見えなかった。

頭を撫でてくれることも、褒めてくれることも一度としてなく、紡という存在を無条件に肯定してくれるのは、いつも父だけだった。父が与えてくれたような温かい響きは、母の言葉には決してなかった。


紡は、あの時、もっと母の関心や「褒め言葉」を求めていたことを思い出す。

ただ愛されるだけでは満たされなかったその理由は、母からの「承認」が、自身の存在ではなく、行動の結果にすら紐付けられていなかったからではないか。


それが、他者をコントロールし、自分の望む結果を出させることで確実に「承認」を得ようとする、自身の『支配欲』に繋がっているのではないか――紡の心に、ぞっとするような推論が浮かび上がる。

心の奥底に潜む「支配欲」が、幼少期の経験から歪んで形成されたものだとすれば、それはあまりにも皮肉だった。


会社に着くと、神崎のデスクに一枚の書類が置かれているのが目に入った。

それは、昨日の紡の企画書だった。

神崎は、珍しく眼鏡を外し、資料を見つめていた。

その表情は読み取れないが、普段の彼からは想像できないほど、微かな疲労が見える気がした。


「小鳥遊さん」神崎の声に、紡はびくりと肩を震わせた。

「あの企画書、再度確認したが、内容には問題ない。むしろ、君がこれまで作成した中で、最も論理が明快だ。……引き続き、その調子で頼む」


神崎はそう言うと、紡を一瞥し、すぐに視線を書類に戻した。

彼の言葉は、まるで固い氷が溶けていくように、微かに、だが確かに紡の心に響いた。

彼が明確に褒めることなど滅多にない。

その稀な「承認」が、紡の内に秘めた「支配欲」を、またわずかに刺激した。

神崎の意図は、やはり紡の「真の欲望」を引き出すことなのだろうか。


その日の夕方、紡は会社のエレベーターホールで、林 耀と遭遇した。

林 耀は、紡がそこにいることを予期していたかのように、ゆっくりと腕を組み、舞台役者のように芝居の幕を開けた。


「単純なことです、小鳥遊さん。貴女は承認を求めている。誰かに認められたいと、強く願っている。その『欲望』こそが、貴女をここまで導いたのですよ。この招待状は、その欲望を『形にする』ための触媒に過ぎません」


林 耀の言葉は、紡の心の最も深い場所を的確に突き刺した。

紡の内面を全て見透かし、土足で踏み荒らしているかのように。

ただ耳に届くだけでなく、脊髄を這い上がり、脳の中心に直接響くようだった。


私という存在の最も奥深くにある、形なき核を暴かれたかのような感覚に襲われる。肺が締め付けられ、呼吸すらままならない。


林 耀の『思惑』とは、紡の最も触れられたくない、この『空っぽな承認欲求』を、何かのために利用することだというのか。その屈辱に、激しい怒りがこみ上げる。


「利用する、だなんて……! 卑怯です! あなたに何の得があるというのですか!」


紡が感情的に問い詰めると、林 耀はふわりと微笑んだ。その笑みは、紡を嘲笑っているようにも、あるいは哀れんでいるようにも見えた。


「得、ですか。それは……貴女が、この世界の『真実』を知れば、自ずと理解できるでしょう。誰もが、何かしらの『欲望』を抱えて生きている。そして、その欲望を糧にする者もいる。貴女も、その一人になる。ただそれだけのことです」


林 耀の言葉は、まるで哲学者のようだった。

しかし、その内容は、紡の根底にある正義感に真っ向からぶつかるものだった。


他者の欲望を糧にする?

そんな、人の尊厳を蔑ろにするような行為が、許されるはずがない。


紡の「白か黒か」という倫理観が、この歪んだ真実を断固として拒絶する。

こんな非道なことが、この世界では許されているというのか?

もしそうならば、紡が生きてきた世界は、一体何だったのだ。――いや、違う。たとえこの世界がそのように歪んでいたとしても、紡は決してそれを許容しない。自身の信念だけは、何があっても曲げないと、強く心に誓った。


「私は、そんなことは望んでいません!誰かを傷つけたり、利用したりするような欲望なんて、私にはありません!」


紡が必死に否定すると、林 耀は首を傾げた。


「ほう。では、貴女は本当に、何も望まないのですか? 父を失った後のあの深い孤独、誰からも必要とされないという絶望、そして、自ら命を絶とうとしたあの夜の、拭い去れない恐怖。それらから解放されたいと、心の奥底で叫んでいないと?」


林 耀の言葉が、紡の心の奥底に封じ込めていた最も触れられたくない部分を、容赦なく抉り出す。あのフラッシュバックが、今まさに目の前で鮮明に再生されるかのような悪寒が全身を走り抜ける。


紡は、その場で立ち尽くすことしかできなかった。

林 耀が、紡の自殺未遂の事実まで知っている。その、あまりにも個人的で、誰にも知られたくなかった秘密を。


全身の毛穴が凍りつく。

なぜ、この人が……あの地獄のような瞬間のことまで知っている?まるで、あの時、紡の傍にいて、すべてを見ていたかのように……!


紡のポケットの中の招待状が、熱を帯びたまま激しく脈打っている。

その鼓動が、紡の心の動揺と完全に共鳴しているかのようだった。


そして、招待状の表面に、また新たな変化が起きていた。

これまで漠然としていた蔓の線が、まるで生き物のように蠢きながら、緻密な血管網のように細かく複雑な模様を描き始める。


その線の間に、微かながらも力強い光を放つ小さな点が、次々と浮かび上がってきた。それは、暗闇の空間に無数の星が瞬く星図のように見え、同時に、紡の内側から湧き出す熱が、直接的にこの地図を照らし出しているかのようだった。


「その招待状は、貴女自身の『欲望の地図』です、小鳥遊さん。そこに浮かび上がる光の点は、貴女がこれから辿るべき道。貴女が本当に望む場所への『ゲート』を示している」


林 耀は、紡の手の中の招待状をじっと見つめた。その眼差しは、紡ではなく、招待状そのものに向けられているようだった。


「私たちは、貴女の『真の欲望』が、この紋章のように美しく形になることを、心待ちにしています。さあ、明日、〇〇出版で開催される新人作家発掘イベントに参加してください。あなたの『真の欲望』を『形にする』ための、最初の課題です。そのイベントで、最も注目される作品を見つけ、その作家を、あなたの手で導きなさい。詳細は会場で」


林 耀の言葉は、紡をまるで研究対象の実験動物のように扱っているかのようだった。紡の奥底から湧き上がる恐怖は、抗いがたい怒りへと変わった。けれど、林 耀の言葉の毒のように甘い響きが、心のどこかで微かに、紡の寂しがり屋な部分を狡猾に刺激している。


林 耀に利用されていると頭では理解している。

この甘い誘惑は、紡の『空っぽ』な部分に忍び込み、自らを差し出すよう囁いているのだ。


だが、紡はすでに決めた。誰かの『思惑』に操られる『私』は、断固として拒絶する。

もし、この『真の欲望』が紡を変える力を持つならば、それは林 耀の掌の上ではなく、紡自身の意思で掴み取るものだ。


林 耀は、紡の葛藤を見透かしたように、口元に笑みを浮かべた。その笑みは、支配する者の優越感に満ちているように見えた。


「さあ、選びなさい、小鳥遊さん。貴女自身の欲望を、この手で掴むのか。それとも、このまま色褪せた日常に埋もれていくのか」


林 耀の言葉は、紡の中に残る微かな希望を煽り、同時に底なしの絶望へと突き落とそうとしていた。紡の全身を、今までにないほどの激しい震えが襲う。


この選択が紡の未来を決定づけるのなら、この光の先に、どんな自分と出会えるのだろう?

林 耀の支配を打ち破り、私自身の「真の欲望」を掴む、その先に――。


そして、この震えは、恐怖なのか、それとも、新しい何かが覚醒しようとしている兆候なのか――?


(つづく)

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