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第8話:逃れられない螺旋、突きつけられる選択

翌朝。

林 耀からのメッセージがスマホの画面に表示されていた。

『昨日はありがとうございました。

また近いうちにお話しできれば嬉しいです。』


丁寧な、しかしどこか見透かすような言葉。

紡は、そのメッセージを無視した。

返信する気にはなれなかった。


大学でも、林 耀との接触を避けた。


林 耀の顔を見るたび、あの夜の招待状の警告と、神崎 厳の言葉が脳裏をよぎる。


「理解者の仮面を被る者を見極めろ」

「彼は、貴女の『書』を、彼の目的のために利用しようと目論んでいる。」


林 耀の優しい笑顔が、今はひどく歪んで見える。


しかし、林 耀は、紡の拒絶に気づかないふりをするかのように、時折、遠くから紡に視線を送っていた。

その視線は、まるで狩人が獲物を静かに見つめるかのような、奇妙な執着を帯びているように感じられた。


紡は、その視線を感じるたびに、背筋に冷たいものが走る。

逃げたい。

もう、この人とは関わりたくない。


林 耀とすれ違うたびに、ポケットの中の招待状が、微かに熱を帯びる。

その熱は、紡の心の不安と恐怖に比例するかのように、じわじわと強くなっていった。


(どうすれば、この人から逃げられる……?)


講義が終わり、夕暮れ迫るキャンパスを足早に歩いていた時のことだ。

不意に、背後から声をかけられた。


「小鳥遊さん」


心臓が跳ね上がった。

振り返ると、そこに立っていたのは、神崎 厳だった。


「神崎さん……!」


驚きと同時に、安堵の感情が押し寄せる。

この状況で、神崎に会えたことに、まるで救いを見出したかのような気持ちになった。


「お話ししたいことが……」


紡が言いかけると、神崎は静かに頷いた。


「分かっています。

貴女は今、混乱しているでしょう。」


神崎は、そのまま言葉を続けた。


「林耀。

彼は、貴女の『書』が持つ力を知っている。

そして、その力を手に入れるためなら、どんな手も使う男です。」


神崎の言葉は、紡の抱いていた疑念を確信に変えた。


「でも、どうして……?」


「『導きの書』は、読む者の『真の欲望』を映し出し、それを現実にする力を持つと言われている。

しかし、その力は強大ゆえに、制御が難しい。

彼は、その力を完全に掌握しようとしている。」


神崎の言葉は、紡にとって初めて聞く、招待状の具体的な能力だった。


(現実にする力……?

私の『真の欲望』を?)


「死への渇望」を現実にする、ということなのか。

そんなこと、あってはならない。


「そして、貴女の『真の欲望』は、彼にとって都合が良い。

だからこそ、彼は貴女に接近した。」


神崎の言葉に、紡は顔を歪めた。


「私の『真の欲望』が、都合が良い……?

死によって、世界に痕跡を刻むこと、がですか?」


紡の声は、震えていた。


神崎は、静かに紡の目を見た。


「貴女の『真の欲望』は、それだけでは終わらない。

それは、もっと深く、もっと根源的なものだ。

彼が欲しているのは、その『根源』へと至る鍵となる『貴女の魂』そのものだ。」


(私の魂……?)


紡は理解できない。

恐ろしさだけが込み上げてくる。


「私に……何をしろと……?」


「彼から逃げるだけでは、何も解決しない。

貴女は、『書』に選ばれた者だ。自ら、その『欲望』と向き合うしかない。」


神崎は、ポケットから一冊の小さな手帳を取り出した。


「この手帳に、彼の動きを記録しておきました。

しばらくは、警戒してください。」


手帳には、林 耀の行動パターンや、林 耀が接触していると思われる人物の短いメモが記されていた。


そこには、見覚えのない「神崎 巌」という名前も……いや、彼は自分のことだ。

神崎は、私に、林 耀を監視しろとでも言うのか。


紡は、震える手でそれを受け取った。


「なぜ、そこまで……?

神崎さんは、一体何者なんですか?」


紡の問いに、神崎はわずかに口角を上げた。


「私は、貴女と同じく、『書』に導かれし者。

そして、この『書』が、誤った者の手に渡ることを、阻止しなければならない。」


神崎の瞳の奥に、強い決意と、何か深い悲しみが宿っているように見えた。


その日の夜。

与えられた手帳を握りしめ、紡は自室のベッドに座り込んでいた。

林 耀が、招待状の力を手に入れようとしている。

そして、私の「真の欲望」が、彼にとって「都合が良い」という事実。


(私に、そんな力があるというのか……?

そして、そんな、他者に利用されるような欲望が……?)


紡の「空っぽさ」は、実は恐ろしいほどの「力」を秘めていたのかもしれない。

その事実が、紡を混乱させた。


ポケットから招待状を取り出す。

その白い表面は、今までにないほど強く、

そして深く、青白い光を放っていた。

まるで、紡に何かを促すかのように。


『逃げるな。

己の真実から、目を背けるな。

「理解者」の仮面を剥がし、

その「根源」を暴け。

それが、貴女が『書』に導かれた意味。』


招待状の「声」が、脳内に直接響き渡った。


それは、紡の心を揺さぶり、迷いを打ち消すような、強い命令だった。

林 耀を暴け、というのか。


紡は、招待状を強く握りしめた。

恐怖。

困惑。


しかし、その奥底に、微かな、抗えない衝動が芽生えていた。

これまで、ただ受け身で生きてきた自分。


「誰かに認められたい」という曖昧な願望に囚われていた自分。


この招待状は、紡は、初めて「行動」を求めている。


偽りの世界を暴き、自らの「真の欲望」に真っ向から向き合えと。


それは、あまりに恐ろしい道だ。

だが、もう、後戻りはできない。


まるで螺旋階段を降りていくかのように、紡は避けられない運命へと足を踏み入れていく。

林 耀。


そして、神崎 厳。

彼らの思惑が交錯する中で、紡自身の「真の欲望」が、今、目覚めようとしていた。


ベッドサイドの小さなテーブルに、招待状を置いた。

白い紙片は、夜の闇の中で、静かに、

しかし確かな光を放ち続けていた。


その光は、紡が歩むべき道を示しているのか、それとも深淵への入り口なのか。


紡は、ただ、その光を見つめていた。


(つづく)

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