翌朝。
林 耀からのメッセージがスマホの画面に表示されていた。
『昨日はありがとうございました。
また近いうちにお話しできれば嬉しいです。』
丁寧な、しかしどこか見透かすような言葉。
紡は、そのメッセージを無視した。
返信する気にはなれなかった。
大学でも、林 耀との接触を避けた。
林 耀の顔を見るたび、あの夜の招待状の警告と、神崎 厳の言葉が脳裏をよぎる。
「理解者の仮面を被る者を見極めろ」
「彼は、貴女の『書』を、彼の目的のために利用しようと目論んでいる。」
林 耀の優しい笑顔が、今はひどく歪んで見える。
しかし、林 耀は、紡の拒絶に気づかないふりをするかのように、時折、遠くから紡に視線を送っていた。
その視線は、まるで狩人が獲物を静かに見つめるかのような、奇妙な執着を帯びているように感じられた。
紡は、その視線を感じるたびに、背筋に冷たいものが走る。
逃げたい。
もう、この人とは関わりたくない。
林 耀とすれ違うたびに、ポケットの中の招待状が、微かに熱を帯びる。
その熱は、紡の心の不安と恐怖に比例するかのように、じわじわと強くなっていった。
(どうすれば、この人から逃げられる……?)
講義が終わり、夕暮れ迫るキャンパスを足早に歩いていた時のことだ。
不意に、背後から声をかけられた。
「小鳥遊さん」
心臓が跳ね上がった。
振り返ると、そこに立っていたのは、神崎 厳だった。
「神崎さん……!」
驚きと同時に、安堵の感情が押し寄せる。
この状況で、神崎に会えたことに、まるで救いを見出したかのような気持ちになった。
「お話ししたいことが……」
紡が言いかけると、神崎は静かに頷いた。
「分かっています。
貴女は今、混乱しているでしょう。」
神崎は、そのまま言葉を続けた。
「林耀。
彼は、貴女の『書』が持つ力を知っている。
そして、その力を手に入れるためなら、どんな手も使う男です。」
神崎の言葉は、紡の抱いていた疑念を確信に変えた。
「でも、どうして……?」
「『導きの書』は、読む者の『真の欲望』を映し出し、それを現実にする力を持つと言われている。
しかし、その力は強大ゆえに、制御が難しい。
彼は、その力を完全に掌握しようとしている。」
神崎の言葉は、紡にとって初めて聞く、招待状の具体的な能力だった。
(現実にする力……?
私の『真の欲望』を?)
「死への渇望」を現実にする、ということなのか。
そんなこと、あってはならない。
「そして、貴女の『真の欲望』は、彼にとって都合が良い。
だからこそ、彼は貴女に接近した。」
神崎の言葉に、紡は顔を歪めた。
「私の『真の欲望』が、都合が良い……?
死によって、世界に痕跡を刻むこと、がですか?」
紡の声は、震えていた。
神崎は、静かに紡の目を見た。
「貴女の『真の欲望』は、それだけでは終わらない。
それは、もっと深く、もっと根源的なものだ。
彼が欲しているのは、その『根源』へと至る鍵となる『貴女の魂』そのものだ。」
(私の魂……?)
紡は理解できない。
恐ろしさだけが込み上げてくる。
「私に……何をしろと……?」
「彼から逃げるだけでは、何も解決しない。
貴女は、『書』に選ばれた者だ。自ら、その『欲望』と向き合うしかない。」
神崎は、ポケットから一冊の小さな手帳を取り出した。
「この手帳に、彼の動きを記録しておきました。
しばらくは、警戒してください。」
手帳には、林 耀の行動パターンや、林 耀が接触していると思われる人物の短いメモが記されていた。
そこには、見覚えのない「神崎 巌」という名前も……いや、彼は自分のことだ。
神崎は、私に、林 耀を監視しろとでも言うのか。
紡は、震える手でそれを受け取った。
「なぜ、そこまで……?
神崎さんは、一体何者なんですか?」
紡の問いに、神崎はわずかに口角を上げた。
「私は、貴女と同じく、『書』に導かれし者。
そして、この『書』が、誤った者の手に渡ることを、阻止しなければならない。」
神崎の瞳の奥に、強い決意と、何か深い悲しみが宿っているように見えた。
その日の夜。
与えられた手帳を握りしめ、紡は自室のベッドに座り込んでいた。
林 耀が、招待状の力を手に入れようとしている。
そして、私の「真の欲望」が、彼にとって「都合が良い」という事実。
(私に、そんな力があるというのか……?
そして、そんな、他者に利用されるような欲望が……?)
紡の「空っぽさ」は、実は恐ろしいほどの「力」を秘めていたのかもしれない。
その事実が、紡を混乱させた。
ポケットから招待状を取り出す。
その白い表面は、今までにないほど強く、
そして深く、青白い光を放っていた。
まるで、紡に何かを促すかのように。
『逃げるな。
己の真実から、目を背けるな。
「理解者」の仮面を剥がし、
その「根源」を暴け。
それが、貴女が『書』に導かれた意味。』
招待状の「声」が、脳内に直接響き渡った。
それは、紡の心を揺さぶり、迷いを打ち消すような、強い命令だった。
林 耀を暴け、というのか。
紡は、招待状を強く握りしめた。
恐怖。
困惑。
しかし、その奥底に、微かな、抗えない衝動が芽生えていた。
これまで、ただ受け身で生きてきた自分。
「誰かに認められたい」という曖昧な願望に囚われていた自分。
この招待状は、紡は、初めて「行動」を求めている。
偽りの世界を暴き、自らの「真の欲望」に真っ向から向き合えと。
それは、あまりに恐ろしい道だ。
だが、もう、後戻りはできない。
まるで螺旋階段を降りていくかのように、紡は避けられない運命へと足を踏み入れていく。
林 耀。
そして、神崎 厳。
彼らの思惑が交錯する中で、紡自身の「真の欲望」が、今、目覚めようとしていた。
ベッドサイドの小さなテーブルに、招待状を置いた。
白い紙片は、夜の闇の中で、静かに、
しかし確かな光を放ち続けていた。
その光は、紡が歩むべき道を示しているのか、それとも深淵への入り口なのか。
紡は、ただ、その光を見つめていた。
(つづく)