林 耀から突きつけられた「新人作家を導く」という課題は、紡の心に重くのしかかった。
林 耀の『思惑』に乗せられるのは本意ではない。
しかし、この「真の欲望」が紡自身の力であるならば、林耀の掌の上ではなく、自らの意思で掴み取るべきだと固く決意していた。
このイベントは、そのための第一歩なのだ。
新人作家発掘イベントのウェブサイトを検索し、参加者リストに目を通す。無数の名前と、作品の概要が並んでいる。この中から「最も注目される作品」を見つけ出し、その作家を「導く」という。漠然とした課題に、どう手を付ければいいのか途方に暮れた。
しかし、不思議と焦りはなかった。
むしろ、これまで感じたことのない、微かな興奮にも似た感情が湧き上がってくる。それは、林 耀が言った「欲望の地図」が示す「ゲート」への期待なのだろうか。
イベント当日、〇〇出版の大きなホールは、熱気で満ちていた。壁際には所狭しと作品が展示され、作家志望者や出版社関係者が入り乱れて、ざわめきがホール全体に響いている。
紡は、ポケットの中の招待状を握りしめた。すると、かすかに招待状が脈動し、熱を帯びる。その熱は、特定の方向へ紡を導くかのように、微かな引っ張る感覚を伴っていた。
招待状の示すままに歩を進める。人波をかき分け、幾つもの作品展示を通り過ぎていく。詩集、SF、恋愛小説……どれも、作り手の情熱が込められていることは伝わってくる。だが、招待状はまだ強く反応しない。
ホールの奥、人だかりが少し薄れた一角で、招待状の脈動が急激に強くなった。手のひらにじんわりと熱が伝わる。そこには、簡素なパネルに挟まれた、手書きの数枚の原稿が置かれていた。タイトルは『虚ろな檻』。
紡は、その原稿に目を落とした。
物語は、他者からの承認を渇望する主人公が、やがて自らの存在意義を「他者からの支配」に見出すという、深く重い内容だった。その表現は未熟だが、紡自身の内側にある「空っぽさ」や「支配欲」と、あまりにも強く共鳴した。まるで、自分の過去が言葉にされているかのように。
原稿の隅に、小さく作者の名前が書かれていた。
天野(あまの)ユキ。
林 耀が言った「最も注目される作品」。
それが、他ならぬこの『虚ろな檻』なのだろうか。紡は、招待状を再び見つめる。すると、紋様の中に光る点のいくつかが、明確に『虚ろな檻』の原稿、そして天野ユキの名前を指し示しているように見えた。
この作品と、この作家。私が「導く」べき相手が、この人だというのか?
紡は、あたりを見回した。天野ユキらしき人物は、人混みに埋もれて見当たらない。
その時、ホールの隅の休憩スペースで、俯いている女性を見つけた。その女性の背中からは、深い孤独と諦めが滲み出ている。顔を上げた女性の目には、明らかな自信のなさとうつむいた影が宿っていた。それが、天野ユキだった。
紡は、迷わず天野ユキに近づいた。彼女の前に立ち、名刺を差し出す。
「小鳥遊です。あなたの作品、『虚ろな檻』を拝見しました」
天野ユキは、びくりと顔を上げた。その目に、警戒と、微かな期待が入り混じっていた。
「あ……ありがとうございます……」
消え入りそうな声だった。その声を聞いた瞬間、紡の心に、ある確信が生まれた。この女性は、深く傷つき、自信を失っている。しかし、その作品には、隠しきれないほどの才能と、紡自身が理解できる「欲望」が秘められている。
この才能を、このまま埋もれさせてはいけない。天野は、私と同じ「空っぽさ」を抱えている。だからこそ、私が「導く」ことができる。
紡の中に、これまで感じたことのない、ある種の「使命感」のようなものが芽生えた。それは、林 耀に利用されているという怒りとは異なる、純粋な、そして確かな「力」の覚醒だった。紡は、天野ユキの作品の可能性、彼女の秘めたる才能を「見定め」、そして「引き出す」ことで、自分自身の「真の欲望」を形にできるのではないかと感じ始めた。
林 耀の「思惑」とは関係なく、紡自身がこの力を使いこなす。その覚悟が、紡の背筋をまっすぐに伸ばした。
その日、紡のスマートフォンに着信があった。藍からだった。
「紡、明日、もしよかったらお茶しない? 話したいことがあるんだけど……」
藍の声は、どこか遠慮がちで、いつもの明るさがなかった。紡の夢で見た、蔓に絡まる藍の姿が脳裏をよぎる。藍にも何か異変が起きているのだろうか。しかし、今は天野ユキのことが頭の中を占めていた。
「ごめん、藍。明日もちょっと立て込んでて。また後で連絡するね」
紡はそう言って電話を切った。藍への懸念はあったが、今はそれよりも、目の前の「課題」と、芽生え始めた自身の「力」への興味が勝っていた。
イベント会場を出た紡の元に、林耀からメッセージが届いた。
『小鳥遊さん。新人作家発掘イベント、お疲れ様でした。あなたが『虚ろな檻』を選んだこと、そして天野ユキという作家を見出したこと、素晴らしい判断です』
林 耀のメッセージは、まるで紡の行動を逐一監視していたかのように正確だった。林 耀の言葉は、紡を追い詰めるようでありながら、どこか甘く、誘惑的だった。
『あなたの『真の欲望』は、今、まさに形になり始めています。あなたの『欲望の地図』が示す次の『ゲート』は、既に開かれつつあります。天野ユキを『導く』ことで、貴女は更なる力を得るでしょう。楽しみにしていてください』
メッセージを読み終えた紡は、ポケットの招待状を取り出した。熱を帯びたカードの表面では、あの「欲望の地図」の光の点が、さらに力強く瞬いている。そして、中央の紋章の輪郭が、一層くっきりと浮かび上がり始めていた。それは、紡自身が選び取った道であり、抗いがたい運命の始まりを告げているかのようだった。
紡の心臓は、激しく鼓動を打ち続けている。
林 耀の言葉は、紡の心の最も深い傷――父の死によって失われた日常、そして自ら命を絶とうとしたあの夜の絶望を、容赦なく抉り出す。だが、その瞬間、紡の心に新たな鋼の意志が宿った。
もう、過去の絶望に囚われる私ではない。
本当に、この人の言う通りにすれば、私は変われるのだろうか?この「空っぽ」が、満たされるのだろうか?恐怖と同時に、紡の心の奥底で、得体の知れない期待が微かに芽生え始めていた。誰よりも、何よりも、特別な存在として認められたい。あの地獄のような孤独から救い出され、誰かに選ばれたいという渇望は、林 耀の言葉の罠だと分かっていても、紡を強く引きつけていた。
けれど、林 耀の言葉は、紡の心の奥底に宿る「真っ直ぐさ」をも同時に刺激していた。
他者の欲望を糧にする、などと、そんな不当なことが許されるわけがない。紡の「白か黒か」という倫理観は、この歪んだ真実を断固として拒絶する。もし彼の「思惑」が、誰かを傷つけ、あるいは父が教えてくれた「真っ直ぐであること」を曲げるようなものだとしたら、紡は決してそれに屈してはいけない。
紡は、ぐっと唇を噛みしめた。体中に、まるで電流が走るような感覚が広がる。
このまま引き返すという選択肢は、確かに「色褪せた日常」に埋もれることを意味する。それは、父を失って以来、紡が最も恐れてきた、魂の死にも等しい絶望だ。
しかし、林 耀の提示する「特別」な道が、もし紡の信念を裏切るものだとしたら、それは「私」でなくなることと変わらない。
この不気味な誘いに乗るしか、私の「空っぽ」を満たす道はないのか?その問いは、もはや意味をなさなかった。ここで立ち止まれば、再び「何者でもない私」に戻ってしまう。林 耀の思惑に乗せられる屈辱よりも、行動しないことの絶望の方が、はるかに大きかったのだ。紡の心は、すでに決まっていた。
それは、抗うことと、掴み取ることの、矛盾した覚悟。
ポケットの中の招待状が、紡の手のひらを焼くかのように熱い。その熱は、紡の「真の欲望」が、まさにこの場所で形になろうとしていることを、静かに示唆していた。
そして、脳裏に、あの「選べ……」という声が、再び響き渡る。
それは、紡自身の内側から湧き上がった声なのか、それとも招待状が紡に語りかけているのか、判別できなかった。だが、その声は、紡に「逃げるな」と、強く、静かに命じているように感じられた。
紡は、ゆっくりと顔を上げた。林 耀はそこにいない。だが、彼の言葉と、そこに込められた思惑が、空間に満ちている。
「……選びます」
紡の声は、震えながらも、はっきりと響いた。この言葉が、紡の運命を大きく変えることになるだろう。
引き返すことはできない。だが、このまま現状維持を選ぶことも、紡にはもうできなかった。紡は、自分の意志で、この謎に、この「欲望の地図」に、足を踏み入れることを決めたのだ。それが、たとえ林耀の「思惑」の一部であったとしても。
白黒つけたい私の心が、このグレーな状況に、真っ向から飛び込むことを選んだ。
紡がそう口にした瞬間、紡の手の中の招待状が、激しく光り始めた。真っ白なカードが、まばゆい緑色の光を放つ。その光は、周囲の空間を照らし出し、幻想的な影を踊らせた。
蔓の模様は、まるで命を吹き込まれたかのように、カード全体を覆い尽くし、中心に浮かぶ「光の点」が、まるで脈打つ心臓のように輝きを増した。
そして、そのまばゆい光の中で、招待状が震えながら変形し始めた。紙のカードが、薄く、硬質な、半透明の板へと、まるで繭から蝶が羽化するかのように姿を変えていく。紡の手のひらに吸い付くようにフィットし、まるで未来のデバイスのような、滑らかな質感を持っていた。光が収束すると、そこにあったのは、もはやただの招待状ではなかった。手のひらサイズの、半透明のディスプレイ。その画面には、あの「欲望の地図」が立体的に浮かび上がっている。
そして、画面中央に輝く「光の点」が、まるで紡を呼んでいるかのように、静かに脈動していた。
「素晴らしい選択です、小鳥遊さん」
林 耀の声が、まるで空間のどこかから響くように、紡の耳に届いた。林 耀はそこにいないが、彼の存在が、紡の周囲を満たしているかのようだった。
「それは、貴女の『欲望の地図』。貴女自身が、この世界で何を見つけ、何を成し遂げるべきかを示す、唯一無二の羅針盤です。
そして、その羅針盤が、今、貴女の次の目的地を指し示しています」
林耀の言葉と共に、半透明のディスプレイに浮かぶ地図上の「光の点」が、ゆっくりと移動し始めた。それは、この地図上の、どこか遠い一室を指し示しているようだった。
「さあ、ゲートは開かれました。貴女の『真の欲望』が待つ場所へ、どうぞ」
林 耀の言葉は、紡を導いているのか、それとも、新たな罠へと誘い込んでいるのか? その問いは、もはや意味をなさなかった。紡には、この手の中にある羅針盤がある。そして、紡自身の足で、この道を進む覚悟がある。
紡の「空っぽな承認欲求」が導いたこの道は、今、新たなステージへと開かれた。
紡は、もう誰かの駒ではない。
林 耀の思惑を打ち砕き、この『欲望の地図』が示す真実の先で、必ず「私」を掴み取る。
新たな力を宿したデバイスを握りしめ、紡は暗闇の中へと進んだ。
(つづく)