翌日、目を覚ました紡の頭には、神崎が残した手帳のことが渦巻いていた。
林 耀の真の目的を知るため、紡は再び手帳に目を落とす。
そこには、林 耀がよく利用するという、大学近くのカフェの名前が記されていた。
放課後、紡は意を決してそのカフェへと向かった。
窓から店内を覗くと、奥の席に、見慣れた林 耀の姿があった。
一人で、何かの資料を広げ、真剣な表情で読み込んでいる。
その集中した横顔は、普段の穏やかな林 耀とは別人のようだった。
紡は、彼の死角になる席を選び、コーヒーを注文した。
心臓が、まるで誰かに握りつぶされるかのように、不規則に脈打つ。
(一体、何を見ているんだろう……?)
その資料に書かれている内容が気になって仕方がない。
時折、眉間にしわを寄せ、資料をじっと見つめていた。
その資料は、どうやら古い新聞記事の切り抜きや、レポートのようなものらしい。
遠くてはっきりとは見えないが、ところどころに、見慣れない専門用語や、日付らしき数字が読み取れる。
その時、林 耀が席を立った。
どうやら、飲み物を買いに行くらしい。
絶好の機会だと紡は感じた。
息をひそめ、足音を立てないように、紡は素早く席へと移動した。
資料が広げられたままになっている。
林 耀が戻ってくるまでの数秒間が、永遠のように長く感じられた。
資料の一番上にあったのは、日付の入った古い新聞記事のコピーだった。
見出しには、こう書かれている。
『天響研究施設、大規模火災で全焼。多数の犠牲者。』
紡の目に飛び込んできたのは、その記事の下に添えられた、小さな写真だった。
焦げた研究施設の残骸。
そして、その前に立ち尽くす、幼い少年。
その少年の顔は、
(……林さん?)
紡は、息をのんだ。
その記事の隅には、火災の責任を巡る訴訟問題、
そして「未解明の実験」といった言葉が小さく記されていた。
紡は、さらに資料をめくろうとした。
その時、背後から、まるで氷のように冷たい声が聞こえた。
「何をされているのですか、小鳥遊さん?」
心臓が、まるで誰かの冷たい手に掴まれたかのように凍りついた。
全身の血の気が引いていくのがわかるほど、いつの間にか、林 耀が紡のすぐ後ろに立っていた。
その顔には、いつもの穏やかな笑顔はなかった。
代わりに浮かんでいるのは、感情の起伏が一切ない、能面のような表情。
ただ、その瞳だけが、獲物を前にした捕食者のように冷たく光っていた。
そして、底知れぬ怒りが宿っているかのようだった。
「これは……」
紡は、言葉を失った。
言い訳のしようもない。
林 耀は、ゆっくりと確かな足取りで、獲物との距離を測るかのように紡の前に歩み出た。
視線が、資料に向けられ、紡の手の中の招待状へと移った。
紡は、
林 耀は静かに紡の手から資料を取り上げた。
「私のプライベートなものですよ。触れるのは、私だけにしていただけませんか。」
その声は、静かではあったが、紡の全身を震え上がらせるほど冷たかった。
紡は、今まで感じたことのない種類の感情を読み取った。
それは、恐怖、
そして……歪んだ執着。
「小鳥遊さん。貴女は、私が『理解者の仮面』を被っているとでも思っているのですね?」
林 耀の言葉は、招待状のメッセージを、まるでそのまま引用しているかのようだった。
紡の背筋に、冷たいものが走る。
招待状の言葉を、本当に知っているのか。
「あの男は、貴女を利用しようとしている。彼の言葉を鵜呑みにしてはいけない。」
林 耀は、紡の心を見透かすかのように、言葉を紡ぐ。
「私は、貴女を理解しています。貴女の『真の欲望』を、誰よりも深く、そして正しく叶えて差し上げたいと願っている。」
林 耀の声は、再び優しいトーンに戻っていた。
しかし、その口元に浮かんだ微笑みは、彼の瞳の冷たさとは
それは、獲物を手に入れたことを確信した、歪んだ捕食者の微笑みだった。
紡には、それが偽りの「優しさ」だと分かった。
まるで巧みに編まれた蜘蛛の糸のように、紡を絡め取ろうとしている。
紡は、無意識にポケットの中の招待状を握りしめた。
その瞬間、招待状が、これまでで最も強く、激しく脈動した。
手のひらに、まるで心臓が飛び出してくるかのような衝撃が走る。
『嘘を
招待状の『声』は、もはや言葉ではなく、直接脳の奥深くに叩きつけられる、鋭い衝撃だった。
その衝撃が、林 耀の優しさという仮面を、一瞬で引き剥がしていく。
「捕食者」――その言葉が、林 耀の冷たい眼差しと重なる。
その優しさが、まるで毒牙のように見えた。
「根源は、彼の記憶に隠されている」というメッセージ。
あの火災の記事と、林 耀の幼い頃の姿。
「真の欲望」は、あの火災と関係があるのかもしれない。
林 耀は、紡の顔色の変化に気づいたようだった。
表情に、一瞬だけ、不敵な笑みが浮かんだ。
「小鳥遊さん。貴女の『書』は、実に面白い反応をする。まるで、貴女の心の声を、私に伝えているようだ。」
林 耀は、紡の手の中の招待状をじっと見つめていた。
(この人は、私が招待状からメッセージを受け取っていることまで知っている……!?)
恐怖。
そして、絶望。
それは、自分の魂の全てを見透かされ、その価値を量られているかのような感覚だった。
林 耀は、広げていた資料を素早くまとめると、立ち上がった。
「今日は、これで失礼します。貴女とは、またすぐに会うことになるでしょう。」
そう言い残し、林 耀はカフェの出口へと向かっていった。
その背中は、普段の穏やかな学生とは似ても似つかない、冷徹な狩人のそれだった。
紡は、一人、カフェに取り残された。
目の前には、林 耀が残していった、コーヒーの温かさがまだ残るカップ。
手のひらの中で、まだ激しく脈動し続ける招待状。
(彼の記憶……。あの火災……。)
「真の欲望」は、過去の出来事に深く根ざしている。
そして、彼は、そのために私の招待状を狙っている。
紡の目の前には、これまで想像もしなかった、底知れぬ闇が広がっていた。
(つづく)