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第10話:支配の序曲

林 耀の言葉が響く中、紡は手のひらのデバイスに視線を落とした。

半透明の画面に浮かぶ立体的な地図。

その中央で脈打つ光の点は、確かに廃墟の奥、ある一室を指し示している。


これが、紡の「真の欲望」が待つ「ゲート」なのだ。

恐怖と期待が混じり合った、形容しがたい感情が胸を占める。

林 耀の思惑に抗いながらも、この新たな力を手に入れた高揚感が、紡の心を支配し始めていた。


林 耀は、私が奥へと進むのを見届けるように、入り口に立ったまま動かない。

まるで、檻に誘い込んだ獲物を確信するような、冷酷な眼差しで私を射抜いていた。

この薄暗い廃墟の中で、林 耀の存在だけが、異質に際立っていた。


足を踏み出すごとに、デバイスの光の点が微かに震える。廃墟特有の湿った空気と埃の匂いが鼻をくすぐるが、紡の意識は完全にデバイスと、そこが指し示す先へと集中していた。廃墟の構造は複雑で、幾つもの朽ちた扉や崩れた壁が迷路のように続く。


しかし、デバイスは寸分の狂いもなく、最短の道を示し続けた。


通路を進むと、空間がわずかに広くなった。そこには、錆びついた機械の残骸や、用途不明の配線がむき出しになった壁が連なっている。以前は何かを製造していた工場か、実験施設だったのだろうか。


その中で、一際目を引く、奇妙なものが視界に入った。


壁に埋め込まれたように設置された、巨大な金属製の扉だ。

それは、周囲の錆びた風景とは異なり、まるで最新技術の粋を集めたかのように、滑らかで無機質な光沢を放っている。


継ぎ目はなく、まるで一枚の板でできているかのようだった。扉の中央には、あの招待状に描かれていたものと酷似した、複雑な「紋章」が刻まれている。デバイスに浮かび上がった紋章が、そのまま巨大な扉に刻印されているのだ。


それは、単なる模様ではない。私自身の心の奥底にある、まだ見ぬ『真の欲望』と深く結びついているかのような、抗いがたい引力を感じた。


紡の手の中のデバイスの光が、さらに強くなった。デバイス上の光の点が、この巨大な扉の中心を正確に指し示している。


「これ、が……ゲートだというのか……」


紡が思わず呟いた時、デバイスの画面が切り替わった。地図の表示が消え、新たなメッセージが浮かび上がる。


『認証が必要です。貴女の「真の欲望」を、ここに示せ』


メッセージの下には、デバイスを扉にかざすように促す、シンプルなアイコンが表示されていた。


紡は、緊張で唾を飲み込んだ。この扉が、紡の「真の欲望」を求めるというのか。それが、このゲートを開くための鍵だと?


紡の「真の欲望」……それは、一体何だ?「承認されたい」という漠然とした渇望か?それとも、父を失った悲しみから解放されたいという願いか?いや、林 耀の言葉を借りるなら、この「欲望の地図」を読み解き、その先にあるものをこの手で掴みたいという、私自身の「支配欲」なのだろうか……?


恐怖と好奇心が、紡の心を二分する。

だが、紡の「白黒はっきりさせたい」という衝動が、この扉の向こうにある真実を、どうしても知りたいと叫んでいた。それに、林 耀は、紡がここに来ることを知っていた。

もし紡がここで立ち止まれば、林 耀の「思惑」通りに動くことになりかねない。

紡は、林 耀の支配下に置かれることを拒む。


紡は意を決し、デバイスをゆっくりと、扉の中央に刻まれた紋章にかざした。デバイスから放たれる光が、紋章に触れる。すると、紋章が、まるで生き物のように、脈動を始めた。光が紋章の線を伝って広がり、扉全体を覆い尽くす。


ゴーッ、という低い駆動音が、廃墟全体に響き渡った。巨大な金属製の扉が、まるで魔法のように、音もなく横へとスライドしていく。その向こうには、想像を絶する光景が広がっていた。


そこにあったのは、薄暗い廃墟とは全く異なる、眩い光に満ちた空間だった。白い床、白い壁、そして天井からは、自然光ではない、どこか人工的な柔らかな光が降り注いでいる。その中央には、透明なガラスでできた、カプセルのようなものが鎮座していた。カプセルの中には、何もない。けれど、そこから発せられる、微かな「共鳴」の振動が、紡の全身を包み込んだ。


「これが……私の『真の欲望』が待つ場所……」


紡がその光景を呆然と見つめた時、書棚の陰から、ひそやかな物音が聞こえた。紡は反射的に身構える。何者かがいるのだろうか?


「……誰だ?」


紡が声を絞り出すと、書棚の奥から、怯えたように一人の少年が現れた。年齢は高校生くらいだろうか。色素の薄い髪と、目の下のクマが目立つ、どこか影のある少年だった。手には、使い古されたスケッチブックを抱えている。


少年は、紡を見るなり、顔を青ざめさせ、書棚の奥へとさらに身を引いた。その瞳には、深い警戒心と、何かに怯えるような怯えが宿っている。


「僕は、別に……何もしてません。ただ、ここで……」


途切れ途切れの言葉から、少年が極度の緊張状態にあることが伺える。その様子を見て、紡は少年の「怯え」が、林耀のような第三者に対するものではなく、もっと根源的な「何か」に対するものであることを直感した。


紡は、自身のデバイスを少年に向けた。すると、デバイスの地図上に、少年の位置を示す新たな光の点が浮かび上がる。


そして、その点の周りに、彼の名前らしきものが表示された。


『ハヤト』


デバイスの画面に、新たな文字が浮かび上がる。


『天野ユキ、そして新たな導きの対象を見出せ。ハヤトの「才能」を、貴女の「支配」で開花させよ。』


林 耀からの、具体的な「課題」だった。

天野ユキを導くことは当然として、さらに「新たな導きの対象」を、このハヤトという少年から見つけ出せという。林 耀の目的は、紡に次々と他者を「支配」させることなのだろうか。


(これが私の「真の欲望」なのか? 他者を意のままに動かすこと。それが、私の「空っぽ」を満たす唯一の方法だとでも言うのか?)


心の奥底に宿る倫理観が警鐘を鳴らす。


しかし、同時に、あの空っぽだった胸の内が、この「支配」という言葉によって、奇妙なほど満たされていく感覚があった。まるで、探し求めていたパズルの最後のピースが、はまったかのような……。


紡は少年の抱えるスケッチブックに目を留めた。ハヤトの指が、強く握りしめられたスケッチブックの表紙を白く変色させている。

「そのスケッチブック……見せてくれない?」


紡の声は、驚くほど穏やかだった。それは、かつて藍や神崎に接していた頃の、仕事モードの紡とは違う。天野ユキの作品に触れた時と同じ、純粋な好奇心と、「見定めたい」という本能が紡を突き動かしていた。


ハヤトは、怯えた目を紡に向けたまま、スケッチブックをさらに強く抱え込んだ。ハヤトの拒絶の意思は明らかだ。


しかし、紡の心は、すでに彼を「導く」という方向に傾いていた。この少年が、林 耀の仕掛けた次の『ゲート』を開く鍵なのだ。


紡は一歩、ハヤトに近づいた。


その瞬間、紡の背筋に、冷たい歓喜のようなものが走った。


それは、獲物を前にした捕食者の、静かな興奮に似ていた。


そして、紡のポケットの中で、招待状(デバイス)が、今までにないほどの激しい振動を始めた。


それは、紡の心の奥底に眠る、何かを呼び起こそうとしているかのようだった。


(つづく)

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