林 耀の言葉が響く中、紡は手のひらのデバイスに視線を落とした。
半透明の画面に浮かぶ立体的な地図。
その中央で脈打つ光の点は、確かに廃墟の奥、ある一室を指し示している。
これが、紡の「真の欲望」が待つ「ゲート」なのだ。
恐怖と期待が混じり合った、形容しがたい感情が胸を占める。
林 耀の思惑に抗いながらも、この新たな力を手に入れた高揚感が、紡の心を支配し始めていた。
林 耀は、私が奥へと進むのを見届けるように、入り口に立ったまま動かない。
まるで、檻に誘い込んだ獲物を確信するような、冷酷な眼差しで私を射抜いていた。
この薄暗い廃墟の中で、林 耀の存在だけが、異質に際立っていた。
足を踏み出すごとに、デバイスの光の点が微かに震える。廃墟特有の湿った空気と埃の匂いが鼻をくすぐるが、紡の意識は完全にデバイスと、そこが指し示す先へと集中していた。廃墟の構造は複雑で、幾つもの朽ちた扉や崩れた壁が迷路のように続く。
しかし、デバイスは寸分の狂いもなく、最短の道を示し続けた。
通路を進むと、空間がわずかに広くなった。そこには、錆びついた機械の残骸や、用途不明の配線がむき出しになった壁が連なっている。以前は何かを製造していた工場か、実験施設だったのだろうか。
その中で、一際目を引く、奇妙なものが視界に入った。
壁に埋め込まれたように設置された、巨大な金属製の扉だ。
それは、周囲の錆びた風景とは異なり、まるで最新技術の粋を集めたかのように、滑らかで無機質な光沢を放っている。
継ぎ目はなく、まるで一枚の板でできているかのようだった。扉の中央には、あの招待状に描かれていたものと酷似した、複雑な「紋章」が刻まれている。デバイスに浮かび上がった紋章が、そのまま巨大な扉に刻印されているのだ。
それは、単なる模様ではない。私自身の心の奥底にある、まだ見ぬ『真の欲望』と深く結びついているかのような、抗いがたい引力を感じた。
紡の手の中のデバイスの光が、さらに強くなった。デバイス上の光の点が、この巨大な扉の中心を正確に指し示している。
「これ、が……ゲートだというのか……」
紡が思わず呟いた時、デバイスの画面が切り替わった。地図の表示が消え、新たなメッセージが浮かび上がる。
『認証が必要です。貴女の「真の欲望」を、ここに示せ』
メッセージの下には、デバイスを扉にかざすように促す、シンプルなアイコンが表示されていた。
紡は、緊張で唾を飲み込んだ。この扉が、紡の「真の欲望」を求めるというのか。それが、このゲートを開くための鍵だと?
紡の「真の欲望」……それは、一体何だ?「承認されたい」という漠然とした渇望か?それとも、父を失った悲しみから解放されたいという願いか?いや、林 耀の言葉を借りるなら、この「欲望の地図」を読み解き、その先にあるものをこの手で掴みたいという、私自身の「支配欲」なのだろうか……?
恐怖と好奇心が、紡の心を二分する。
だが、紡の「白黒はっきりさせたい」という衝動が、この扉の向こうにある真実を、どうしても知りたいと叫んでいた。それに、林 耀は、紡がここに来ることを知っていた。
もし紡がここで立ち止まれば、林 耀の「思惑」通りに動くことになりかねない。
紡は、林 耀の支配下に置かれることを拒む。
紡は意を決し、デバイスをゆっくりと、扉の中央に刻まれた紋章にかざした。デバイスから放たれる光が、紋章に触れる。すると、紋章が、まるで生き物のように、脈動を始めた。光が紋章の線を伝って広がり、扉全体を覆い尽くす。
ゴーッ、という低い駆動音が、廃墟全体に響き渡った。巨大な金属製の扉が、まるで魔法のように、音もなく横へとスライドしていく。その向こうには、想像を絶する光景が広がっていた。
そこにあったのは、薄暗い廃墟とは全く異なる、眩い光に満ちた空間だった。白い床、白い壁、そして天井からは、自然光ではない、どこか人工的な柔らかな光が降り注いでいる。その中央には、透明なガラスでできた、カプセルのようなものが鎮座していた。カプセルの中には、何もない。けれど、そこから発せられる、微かな「共鳴」の振動が、紡の全身を包み込んだ。
「これが……私の『真の欲望』が待つ場所……」
紡がその光景を呆然と見つめた時、書棚の陰から、ひそやかな物音が聞こえた。紡は反射的に身構える。何者かがいるのだろうか?
「……誰だ?」
紡が声を絞り出すと、書棚の奥から、怯えたように一人の少年が現れた。年齢は高校生くらいだろうか。色素の薄い髪と、目の下のクマが目立つ、どこか影のある少年だった。手には、使い古されたスケッチブックを抱えている。
少年は、紡を見るなり、顔を青ざめさせ、書棚の奥へとさらに身を引いた。その瞳には、深い警戒心と、何かに怯えるような怯えが宿っている。
「僕は、別に……何もしてません。ただ、ここで……」
途切れ途切れの言葉から、少年が極度の緊張状態にあることが伺える。その様子を見て、紡は少年の「怯え」が、林耀のような第三者に対するものではなく、もっと根源的な「何か」に対するものであることを直感した。
紡は、自身のデバイスを少年に向けた。すると、デバイスの地図上に、少年の位置を示す新たな光の点が浮かび上がる。
そして、その点の周りに、彼の名前らしきものが表示された。
『ハヤト』
デバイスの画面に、新たな文字が浮かび上がる。
『天野ユキ、そして新たな導きの対象を見出せ。ハヤトの「才能」を、貴女の「支配」で開花させよ。』
林 耀からの、具体的な「課題」だった。
天野ユキを導くことは当然として、さらに「新たな導きの対象」を、このハヤトという少年から見つけ出せという。林 耀の目的は、紡に次々と他者を「支配」させることなのだろうか。
(これが私の「真の欲望」なのか? 他者を意のままに動かすこと。それが、私の「空っぽ」を満たす唯一の方法だとでも言うのか?)
心の奥底に宿る倫理観が警鐘を鳴らす。
しかし、同時に、あの空っぽだった胸の内が、この「支配」という言葉によって、奇妙なほど満たされていく感覚があった。まるで、探し求めていたパズルの最後のピースが、はまったかのような……。
紡は少年の抱えるスケッチブックに目を留めた。ハヤトの指が、強く握りしめられたスケッチブックの表紙を白く変色させている。
「そのスケッチブック……見せてくれない?」
紡の声は、驚くほど穏やかだった。それは、かつて藍や神崎に接していた頃の、仕事モードの紡とは違う。天野ユキの作品に触れた時と同じ、純粋な好奇心と、「見定めたい」という本能が紡を突き動かしていた。
ハヤトは、怯えた目を紡に向けたまま、スケッチブックをさらに強く抱え込んだ。ハヤトの拒絶の意思は明らかだ。
しかし、紡の心は、すでに彼を「導く」という方向に傾いていた。この少年が、林 耀の仕掛けた次の『ゲート』を開く鍵なのだ。
紡は一歩、ハヤトに近づいた。
その瞬間、紡の背筋に、冷たい歓喜のようなものが走った。
それは、獲物を前にした捕食者の、静かな興奮に似ていた。
そして、紡のポケットの中で、招待状(デバイス)が、今までにないほどの激しい振動を始めた。
それは、紡の心の奥底に眠る、何かを呼び起こそうとしているかのようだった。
(つづく)