カフェを出て、夜の街を彷徨うように歩いた。
冷たい風が、肌を刺す。
頭の中は、林 耀の冷たい眼差しと、新聞記事の「天響研究所、大規模火災」という見出しが、ぐるぐると回っていた。
(林 耀の「根源」は、あの火災にある。
招待状がそう告げた。
だけど、あの火災が、彼の「真の欲望」とどう繋がるというのか…?)
自宅に戻っても、落ち着かない。
シャワーを浴び、ベッドに横になっても、思考は止まらない。
ベッドサイドのテーブルに置かれた招待状が、微かに光っているように見えた。
その光は、まるで答えを待つように、静かに瞬いている。
翌日、紡は迷わず大学の図書館へと向かった。
向かうべき場所はただ一つ。
新聞のバックナンバーが保管されている資料室だ。
古い新聞を広げる。
手帳に記された火災の日付を手がかりに、記事を探した。
指先が、紙のざらつきと、過去の出来事を閉じ込めたかのようなインクの匂いを感じ取る。
数十分後、ついに、目的の記事を見つけた。
日付は、林 耀がまだ幼かった頃のものだ。
『天響研究所、火災から一命を取り留めた少年』
見出しの下には、全身を包帯で巻かれた、林 耀と思しき少年の写真が掲載されていた。
紡は、
天響研究所は、国の支援を受けていた最先端の研究施設であり、特に「人間の意識と物質の相互作用」に関する研究を行っていたという。
火災は、実験中の事故によるものとされているが、詳細な原因は不明。
唯一の生存者が、当時施設にいた林 耀少年だった。
「人間の意識と物質の相互作用」――。
その言葉が、招待状の「真の欲望を現実にする力」という、神崎の言葉と重なる。
(林さんは、この「導きの書」の力を手に入れようとしている…?)
あの火災で何かを失い、それを『書』の力で取り戻そうとしているのか。
彼が「真の欲望」を現実にする力を手に入れて、一体何をしようというのか。
さらに記事を読み進めると、火災に関する興味深い記述があった。
『火災直後、一部の研究員の間で、不可解な「共鳴現象」が観測されたとの報告もあったが、公式には認められていない。』
「共鳴現象」――。
紡は、手のひらをそっとポケットの中の招待状に触れた。
林 耀が近くにいると、招待状は微かな熱を帯び、時には脈動する。
あの現象が、「共鳴」だというのだろうか。
その時、背後から、ひそやかな、しかし確かな足音が近づいてくるのを感じた。
振り向くと、そこに立っていたのは、神崎 厳だった。
神崎は静かに、紡の読んでいる新聞記事に視線を落とした。
「やはり、その記事に辿り着きましたか。」
神崎の声は、まるで全てを予見していたかのように、静かだった。
「神崎さん……。天響研究所の火災について、何か知っているんですか?」
紡は、焦る気持ちを抑えきれずに問いかけた。
神崎は、ゆっくりと頷いた。
「天響研究所は、『書』の力を人工的に再現しようとしていた場所だ。」
神崎の言葉に、紡は息をのんだ。
「再現……?では、この招待状のようなものが、他にも……?」
「違う。」
神崎は首を振った。
「『書』は唯一無二の存在だ。だが、天響研究所は、その『書』が持つ『真の欲望を現実にする力』を、科学の力で模倣しようと試みていた。」
神崎の瞳が、遠い記憶を宿しているかのように、静かに揺らいだ。
「そして、林 耀……彼は、その実験の『鍵』となる存在だった。」
紡の背筋に、冷たいものが走った。心臓が、ドクンと大きく脈打つ。
(林さんが、実験の鍵?どうして…?)
神崎は、紡の心を見透かすかのように続けた。
「林 耀は、火災の中で、ある現象を目撃した。そして、その現象が、彼の『真の欲望』を決定づけた。」
神崎の言葉の一つ一つが、重く紡の胸に突き刺さる。
「彼は、『死を克服する力』を求めている。」
紡は、耳を疑った。
「死を克服……?まさか、人を生き返らせるとでも…?」
神崎は、何も言わなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
あの火災で、多くの人が犠牲になった。
林 耀は、その中で、何かを失ったのだ。
そして、その失ったものを、取り戻したいと願っている。
「林 耀が、貴女の『書』を狙う理由は、そこにある。貴女の『書』が持つ『真の欲望を現実にする力』を、彼は利用しようとしているのだ。」
神崎の言葉は、林 耀の優しさも、理解者としての振る舞いも、全てが招待状の力を手に入れるための、巧妙な策略だったと明確に語っていた。
「では、私はどうすれば……?」
紡の声は、震えていた。
林 耀が求めるものが「死を克服する力」だとしたら、それはあまりにも危険だ。
彼の目的のためなら、何をしても構わないという冷酷な一面を、紡はすでに知っている。
神崎は、紡の目を見つめた。
「貴女の『書』は、貴女自身の『真の欲望』と深く結びついている。それは、貴女が望まなくとも、現実へと顕現する可能性がある。」
「避けたいなら、ただ一つ。林 耀の真意を完全に暴き、彼の目的を阻止するしかない。」
紡は、手のひらの招待状を強く握りしめた。
その紙片から、微かな、しかし確かな振動が伝わってくる。
林 耀の過去の闇と、彼が抱く「死を克服する力」への執着。
それが、私の「真の欲望」を現実にする力と結びつく。
それは、あまりに恐ろしく、そして避けられない運命のように感じられた。
夕暮れの光が、図書館の窓から差し込む。
資料室の片隅で、紡は一人、深淵へと引きずり込まれていくような感覚に囚われていた。
林 耀の闇の深さは、自分が想像していたよりも、遥かに深い。
(つづく)