電話を切ってから、わずか30分後。
藍沢邸の前に、一台の黒いセダンが滑るように横付けされた。
運転席には、顔の見えない男が座っている。
林 耀は、自ら迎えに来るとは言わなかったが、おそらく手配した車だろう。
紡は、ポケットの中の招待状を握りしめた。
その白い紙片は、微かに熱を帯びている。
(行くしかない……もう、逃げられない。これは、私が選んだ道。)
藍を守るため、そして、林 耀の真意を暴くために。
車は、都会の喧騒を離れ、ひたすら郊外へと進んでいく。
窓の外の景色は、やがて高級住宅街へと変わり、さらに森のような広い敷地へと入っていった。
ゲートをくぐり、砂利道をしばらく進むと、目の前に現れたのは、まるで洋館のような、
しかしどこか無機質な印象の建物だった。
黒い石造りの外壁。
窓は少なく、まるで外部からの視線を拒むかのように閉じている。
周囲は手入れされた庭園が広がるが、そこには生気よりも、完璧に管理された、人工的な美しさが漂っていた。
まるで、林 耀自身の「渇望」が、この空間を形作ったかのようだ。
車が玄関ポーチに止まると、すぐに運転手が扉を開けた。
紡が降り立つと、そこには林 耀が立っていた。
いつもと同じ、穏やかな、
しかし目が笑っていない「仮面」を貼り付けた笑顔で、紡を迎えた。
「よく来てくださいました、小鳥遊さん。私の『居場所』へ。」
まるで遠い昔からの旧知の仲であるかのように、親しげだった。
しかし、紡の心臓は、警鐘を鳴らし続けている。
林 耀は、紡を館の中へと招き入れた。
広々としたエントランスホールは、シンプルな内装だが、調度品の一つ一つが最高級品であることは一目でわかる。
だが、どこか生活感がなく、まるで時間が停止したかのような、冷たさを感じた。
「さあ、こちらへ。」
林 耀は、紡を奥へと導いた。
辿り着いたのは、書斎のような部屋だった。
壁一面に洋書が並び、中央には重厚な木製の机が置かれている。
机の上には、アンティークな地球儀と、いくつかの書類が広げられていた。
「ここは、私の『根源』に最も近い場所です。」
林 耀は、紡が腰を下ろすのを促しながら、静かに言った。
その言葉に、紡は息をのんだ。
林 耀の「根源」。
それは、天響研究所の火災と、「死を克服する力」への執着。
「貴女は、私が何を求めているのか、おおよそ理解したことでしょう。」
林 耀は、紡の目を真っ直ぐに見つめた。
「天響研究所の火災、そして、藍沢博士のこと。」
紡の脳裏に、藍の父親と若き日の林 耀が写った写真が蘇る。
「ええ、藍の父親と、貴方が……」
紡が言いかけると、林 耀は微笑んだ。
「藍沢博士は、私の恩師であり、共同研究者でした。
そして、あの火災は、私たちの研究の最中に起こったのです。」
林 耀の表情に、一瞬だけ、深い悲しみがよぎった。
「私たちは、人類が持つ最大の課題、『死』の克服について研究していました。
肉体の死を超え、意識を保存し、再構築する技術。
それは、永遠の『魂の救済』を目的とした、壮大な試みでした。」
紡は、林 耀の言葉に、全身の血が凍るのを感じた。
「意識の保存……再生……」
それは、まるでSFの世界のような話だった。
「そして、火災は、その実験の失敗によって起こった。」
林 耀の口調は淡々としていたが、その瞳の奥には、燃え盛る炎の残像が見えるかのようだった。
「多くの命が失われました。藍沢博士も……」
林 耀は、言葉を区切った。
「しかし、私はそこで、確信したのです。
意識は、肉体が滅びても、完全に消滅するわけではない。
そして、『真の欲望』こそが、意識を繋ぎ止める『核』であると。」
「それが、貴方の、死んだ人たちを生き返らせる力……?」
紡が尋ねると、林 耀はゆっくりと頷いた。
「いいえ、それは違います。単なる『生き返らせる』などという、矮小な話ではありません。」
林 耀は、少し不快な表情を浮かべ、言葉を続けた。
「私は、失われた意識を、この世界に再構築したい。
彼らの『真の欲望』を読み解き、この世界に存在した証を、永遠のものにしたいのです。」
林 耀の瞳に、狂気じみた光が宿る。
それは、純粋な願望であると同時に、生命の摂理を根底から覆す、歪んだ執着だった。
「そして、貴女の『書』――『導きの書』こそが、その力を完全に発動させる『鍵』なのだと、私は確信しています。」
林 耀の視線が、紡のポケットへと向けられる。
「貴女の『真の欲望』は、『死への渇望』。
そして『支配されることの拒否』。
これらは、私の求める『死の克服』と、『生命の再構築』のプロセスにおいて、非常に重要な要素となるのです。」
林 耀は、紡の「真の欲望」を、まるで解剖するように言葉にした。
(私の欲望が、彼の目的のために……利用される……?)
紡は、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
林 耀は、自分の目的のために、他者の「真の欲望」を道具としか見ていない。「魂の救済」は、傲慢な支配欲に他ならない。
「私の『書』は、貴方の道具ではありません!」
紡は、思わず声を荒げた。
林 耀は、紡の反発を予想していたかのように、静かに微笑んだ。
「道具?
いいえ、小鳥遊さん。
貴女は、この偉大な計画における、最も重要な『中心』となる存在です。」
その言葉は、まるで甘い毒のように、紡の心を絡め取ろうとする。
その時、紡のポケットの中の招待状が、激しく脈動を始めた。招待状の白い表面に、青白い光が揺らめき、文字が浮かび上がる。
『「支配者」は、全てを「餌」と見做す。「魂の救済」は、偽り。「再構築」の名の下に、「世界」は「無」に帰す。』
招待状の「声」が、紡の脳内に直接響き渡る。
「世界は無に帰す」――。
林 耀の「死の克服」は、世界を破滅させる恐ろしいものなのだと、招待状は警告していた。林 耀の目的は、想像以上に破滅的なものだった。
林 耀は、紡の顔色の変化に気づいたようだった。彼の口角が、わずかに吊り上がる。
「その『書』は、貴女に何を告げましたか?
私の言葉が、偽りだと?」
林 耀は、紡の手の中の招待状をじっと見つめている。
「しかし、小鳥遊さん。
貴女もまた、私と同じ『渇望』を抱いているはずだ。
そうでなければ、『書』は貴女を選ばなかった。」
林 耀の言葉は、まるで紡の心の奥底を見透かすかのように響いた。
(私の『死への渇望』は、本当に彼と同じものなのか……?
ただ、世界に痕跡を残したいと願った、私の『空っぽ』な心から生まれたものだ。
それは、彼の傲慢な支配欲とは、違う……違うはずだ!)
「さあ、小鳥遊さん。
貴女はどちらを選びますか?
私の計画に加わり、自らの『真の欲望』を完成させるか。
それとも、この力を拒み、自らの『空っぽ』な世界で朽ちていくか。」
林 耀は、紡に、残酷な選択を突きつけた。林 耀の館の窓の外は、すでに深く暗闇に包まれていた。この場所で、紡の運命は、大きく揺れ動こうとしていた。
(つづく)